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09 陛下の逆襲 7



「随分楽しそうだ事」
 個室に翳を作っていた撓んだカテーンが持ち上がったと思うと、光を背にしたユーリ様が唐突に現れた。
「ユーリ様」
 即座に立ち上がったハンナさんが腰を折った後、席を譲ろうと横にずれたが、ユーリ様は畳んだ扇を持った手でそれを払った。
「そちらへお詰め」
 壁を背にしたソファは半円状になっていて、詰めなくとも八人は座れるだろう。けれどユーリ様はわざわざハンナさんを中央においやって空いたスペースに座る。
「あんなに抗ったのに、今は女装を楽しんでいる。一体どんな心境の変化があったのかしら?」
 広げた扇で顔を煽ぎながら小首を傾げる仕草は優雅だ。年甲斐もない格好なんて言ったら怒られそうだが、露出した右肩から大きく襟ぐりの開いた深紅のドレスからは豊かな乳房の丸みが窺える。左側は艶やかな薔薇を模したコサージュで肩口を覆っていて、派手な衣装を上品に見せる。
 並んだ三人を改めて見ると、それぞれに違った魅力のある、凄まじい美女だ。
 その三人の視線を真っ直ぐに受けて、先程のユーリ様からの問い掛けの答えを待っているのだと気付く。
「えーと……」
 心境の変化。その言葉を舌の上で転がし吟味しながら、曖昧に笑う。
「心境の変化、というか――諦めの極致、というか。どうせ今夜だけの格好だし、それなら楽しんだ方が良いかな、とか思いまして」
「そんなに気に入ったのなら、別に今日だけにしなくても構わなくてよ」
「今日だけだから、楽しめるんですよ、ユーリ様。やっぱり俺は何時もの格好の方が性に合うって、実感したんです」
 今日一日だけだから。だから、許して欲しいと思う。明日になったら、何時もの俺に戻るから。
 三者三様の複雑な表情を前に、俺は呼気を吐き出して、話を変えることにする。この話は分が悪い。
「それより、ゲオルグ殿下は? 先程まで一緒にいらしたのに」
 夜会場に入った瞬間から、ユーリ様とゲオルグ殿下は陛下ばりに人に囲まれていた。その多くは同じ年代の、お年を召した方が多かったが――もしかしたら、古い友人とかそういった人達なのだろうかと遠巻きに眺めながら思った。雰囲気が朗らかで、ゲオルグ殿下も楽しそうに笑っていたのだ。
「殿方の話は政治に移ってしまったの。そうなったら妻は退散と決まっているものよ」
 ユーリ様がゲオルグ殿下に馳せる視線には、優しさばかりが宿る。その視線の先には、話に鷹揚に頷いているゲオルグ殿下。
 同じようにゲオルグ殿下を眺めながら、ハンナさんが得心顔で頷いた。
「周りの方は宰相府の方ですね」
「そう。昔の仕事仲間と政治のお話に夢中よ」
 どこか拗ねたような言い草のユーリ様に、ティアが小さく微笑みを漏らす。そんな気配を横に感じながら、厳しい雁首が揃ったゲオルグ殿下の周囲を見続ける。
 宰相府というのは、宰相シリウスさんを筆頭とする政治の要機関だ。日本で言ったら首相とその仲間達といった所だろうか。堅っ苦しい正装をきちっと着て、砕けた雰囲気ながらもやはりそれなりの貫禄を匂わす。
「政治の真似事では、やはり満足できないのでしょうね」
「叔母様……」
「ティア、その呼び方はやめてと言っているでしょう?」
「申し訳ありません、ユーリ様」
 気遣いを含んだティアの声をぴしゃりと切ったユーリ様には言葉程の憂いは感じられないけれど、何か思うところがあるのだろう。俺には分からない事情に沈んだ空気を、ユーリ様自身がにこりと笑って無かったものにする。
「ツカサと同じでわたくし達も今日だけ、この雰囲気を大いに楽しむ事に決めているの。だからこそこうして、一番良い席を確保しに来たのよ」
 何だかいやにご機嫌なユーリ様も、夜会場の人達と同じく酒が良い具合にまわって来ているのだろうか。
 何時の間にか用意されていたグラスに口をつけて、意味深に笑ったユーリ様をぽかんと見つめる。給仕を断わってしまった個室では、ハンナさんがその役目を勤めているので、彼女は話を聞きながらもユーリ様のグラスを準備していたのだろう。
 空になった筈の俺のグラスさえ満たされていて、びっくりしてしまう。
 ざわめきの増した場内と静まった個室の空気を感じながら、つらりそんな事を考えながら、俺もジュースのような甘いそれを飲み下す。
 改めて見回す室内には、あまり現実感が無い。それほど、俺に関わりの無い世界だ。
 色とりどりのドレスを纏い、さざめく女性達。まるでおとぎ話のような、キラキラと輝く夢のような世界。
 そんな場所なのに、今はもう見慣れた顔があるのが不思議だ。
 リカルド二世陛下を護衛するライドはまるで正装が似合わず、本人もそれを自覚してか居心地が悪そう。ウィリアムさんは若い娘さんに囲まれて、何だかすごく楽しそう。何時かのお茶会で出逢ったご令嬢や、俺の先生の一人のローラさんとその夫君――皆が皆、それぞれにこの場に溶け込んでいた。
 その中で王冠を被ったリカルド二世陛下だけが一人、凍てついた空気を纏っている。周囲におべっか使いの臣下を侍らしながら、にこりともせず、嫌な顔をするわけでもなく、ただ存在する。
 その傍らには、リカルド二世陛下の代わりとばかりに愛想を振り撒くファティマ姫がいる。彼女は時々陛下に惜しみない微笑みを見せ、大胆な程に擦り寄るけれど、リカルド二世の態度は彼女を受け入れても拒絶してもいない。
 ファティマ姫もリカルド二世も、すごい人だと思う。
 誰もが見惚れる美貌を持って今だって周囲を虜にしているファティマ姫の執着の相手はリカルド二世で、そのリカルド二世は麗しの姫君の目に見える愛情表現を意にも介さない。べったりと寄り添っている筈の二人の距離感は天と地ほどもありそうだし、俺の目からは不毛な関係にしか見えない。
 どう見ても、一方通行な愛情。
 それなのに二人とも平然としているのだから、すごいとしか言えない。
 隣り合うファティマ姫とリカルド二世はどこまでも自然で、それなのにどこまでも不自然だ。
 侘しい、というか、寂しい。
 結婚してもあの二人は死ぬまで、ああやって歪な関係を続けていくのだろうか。疲れないのだろうか。お互いの持つ柵や欲だけでその選択を選び取れるのなら、俺の葛藤など随分ちっぽけなものに見えてしまうだろう。
 きっとリカルド二世は理性で最善を選べる人だ。感情を切り捨てて、迷いも無く、一等の人生を歩んでいく。
 泰然と立つリカルド二世に仄暗い感情が沸いてくる。
 あの人の目に、右往左往する俺は煩わしく映るのだろう。感情に振り回されて、結局何も選べない俺が、愚かに映るのだろう。
 憎悪でもってリカルド二世を睨んでいたから、というわけでは無いだろう。ただ何気なく、ふ、と顔を向けてきたリカルド二世の視線が僅かに俺の顔を掠めて、けれどこちらを認識した筈も無く、すぐに離れた。
 リカルド二世の感情を乗せない瞳は、そうして俺をちっぽけな石ころにする。
 だから、貴方が嫌いだよ。
 重しをつけて沈めた感情を、リカルド二世の色のない表情が何時も浮上させる。
 この世界に来てから、あの人に出会ってから――心は粟立ち、感情が燻り続けている。

 だから、あの人が嫌い。

 泣くことしか知らない幼い俺が、蘇るから。

 陰鬱な思考を抱えて黙り込んだ俺の横で、三人娘と呼ぶには一人老けていたが、何時になっても恋愛話に夢中になるのが女性というものなのだろう――ルークさんとの恋の話で個室は盛り上がっているようだった。
 キャッキャとはしゃぐ声を左から右に聞き流し、埒の無い事を考えていたら、時間はあっという間に過ぎていたようだ。
 その間も俺の視線は心とは裏腹に陛下に向き、マネキンのように凝り固まったリカルド二世陛下の表情を眺め続けていた。
 あんな風に感情を凍結出来たらどんなにいいだろう。
 考えても仕方が無い事だと分かっていても、暗い思いは消えてくれない。
 こんな時高志が居たら、と思ってしまう。昔から、何時だって、高志は俺が過去の記憶に沈み出すと、馬鹿な話題を振って笑わせてくれる。泥沼に落ちていく俺を、糸も簡単に救い出してくれる。
 一週間に一度、頼んでも居ないのに人の部活の終わりを待って、当然のように帰宅を促す――そんな高志に、俺は寄りかかって来た。
 日本では高志が居たから、過去のトラウマに苦しくなる事なんてほとんど無かった。考えることなんてなかった。
 けれどこちらに来てからというもの、どうしてもうまく浮上できない。
 その度に明後日の方向に気を紛らわせようとしてみるけれど、うまくいかない。こうやって女装してみて、女である自分を肯定しようとしてみたって、結局は楽しみきれない。
 どうしても付いて回る答えに、打ちのめされる。
『あんたなんて知らない』
 そう言ったのは、見知らぬ男の車に乗って去っていった母親だった。何時も何もかもを諦めたような、それでいて悲しそうな顔をしていた母親は、最後の日、まるで憎いものを見るようにも見える冷たい視線で、俺を見下ろして。伸ばした俺の手を躊躇い無く振り払って行った。
『お前が男に生まれていたら』
 そう言うのは、何時も父親だった。母が癇癪を起す度、俺が竹刀を振るう度。よくやったと頭を撫でる傍ら、悔しそうに、唇の片端に皮肉んだ笑みを乗せて。
『お前がいなければ』
 そう言い捨てたのは、家を出て行く長兄。両親が離婚した時には泣き喚く弟を抱きしめて唇を引き結んで堪えていた兄は、その後事ある事に父親と衝突して、高校卒業と同時に家を出た。それきり、次兄と弟とは連絡を取り合っているようではあったけれど、一度も顔を見て居ない。
『お前の所為だろ』
 次兄はうまく家族の間を取り持ちながらも、俺の葛藤を吐き捨てた。父親の容赦のない指導に弱音を吐いた時も、家族の崩壊を嘆いた時も、けして俺を否定したり蔑んだりしないかわりに、当然の事だと淡々と言い募る。
『あんたさえ居なければ』
 父親に竹刀を取り上げられ静かに涙を流した弟は、まるで呪詛を吐き出すように、怒りの篭った瞳で俺を見ていた。沢山の事を我慢して我慢して、ついには涙も枯れ果てたのか、泣かなくなった代わりに笑う事すら忘れてしまったかのように――そうして、俺の存在も黙殺して。
 俺の“良かれ”が全て裏目に出て、修復できない位に壊れてしまった。
 それでも“家族”という血の繋がりだけが唯一、繋ぎ止めてくれた居場所。
 必死にそんなか細い糸に縋る俺の傍に、高志は何時も居てくれた。
『大丈夫』
と高志が根拠も無いのに笑ってくれれば、何時も大丈夫な気がしたのだ。何が、なんて分からない。何で、なんて分からない。
 それでも、安心をくれたから。
 だからどんなに鬱屈しても、気持ちを立て直す事が出来た。
 でもここには、俺を責め立てる『過去』もなければ、無条件の赦しをくれる『高志』もいない。
 それでも『記憶』が残るから、俺は逃げ出せずにもがいてる。

 ――否。
 逃げようとしている自分が、何よりも誰よりも、厭わしいのだ。

 この世界に、この、国に。
 居心地の良さを感じるなんて、あってはならない。
 ましてやそれが、ブラッドとしてでも、他の誰でもなく。
 ナガセツカサとして、ここに居たいなんて。
 そんな事はきっと、高志だって許してはくれないだろう。




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