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08 絡まるイト 2
その人を表現する言葉は、「妖艶」というのがしっくり来る。
妖艶。
そんな単語を使う機会も、当て嵌るような人間に出会う機会も、俺の人生にあるとは思って居なかった。
その人は今まで城のどこでも見た事が無いような座椅子に横座りしていた。ほとんど床に寝そべるような状態で、腰の辺りにクッションを敷き詰め、上半身だけを起している。金の背凭れは細工の合間から向こうが見える。
ラシーク王子が紹介してくれたその人は、ファティマ姫。胸にとんでもないボリュームを持った女性だ。
零れ落ちんばかりの巨乳を覆っているのは下着といって差し支えないんじゃないだろうか。下もパンツ一丁といって過言でない。一応下も上も下着の上に着衣しているんだけど、その素材があまりに薄すぎて、完全にその艶かしい肢体が透かし見えるのだ。肩から指先までは他と違わず厳重な守りを固めているのに。しかも胸からヘソに掛けては、上着にダイヤ型の穴が開いていて、豊かな乳をこれでもかと強調している。
細い首の上には、小さな顔。派手派手しい化粧を施しながらも、やはり高貴な雰囲気のおかげで、けして下品には映らない。
肩までの黒というよりは紺に見える髪の毛はウェーブしていて、瞳の色はラシーク王子と同じ金色。肌の色もいわずもがな、バアル国特有の赤銅色だ。
色気満載の、自信に溢れた美姫。
リカルド二世陛下の、側室であった人。
彼女は手に持っていた扇でさっと表情を隠したが、隠すべきはそこじゃなく、胸じゃないだろうか。
肩口で切り揃えられた髪を宝石をはめ込んだ爪で耳にかける仕草は、何というか、すごい。巧く言えないけど、兎に角すごい。
ラシーク王子で大概慣れたと思っていたけど、やはりバアル王国特有の見た目といい、服装といい、特に袖から見え隠れする異様な爪には驚かずにいられない。
ファティマ姫の爪は、指輪と一体化した付け爪のようだ。指の第一関節くらいから鋭く尖った先端まで、それ一つが装飾品だと言いたげな黄金色の爪は、殺傷力もありそう。
「緊張なさる必要は無くてよ」
見られる事に慣れているのだろう。直立不動のまま、不躾にファティマ姫を凝視していた俺を、彼女はむしろ楽しげに笑って。
「シャイフのお友達はわたくしにとっても、お友達ですもの」
意味ありげに向けられた姫の視線に、ラシーク王子は苦笑しながら俯く。
彼もまた緊張したままの俺のように、横で突っ立っているだけだ。
「ですからわたくしとも、どうぞ仲良くしてちょうだい?」
「……勿体無い、お言葉です。お目通り頂いただけでも、私には過分な栄誉でございますのに」
「まあ」
ホホホ、と、美しい扇を口元に添えてファティマ姫は笑った。
そして今度は自分の番、とでも言うように、俺の姿を検分する。ファティマ姫の視線が頭から爪先までを移動し、最後に顔に戻ってきて、にこり、微笑む。
大変ご機嫌が麗しそうだ。
彼女は扇を畳むと、その扇で斜め前に用意されていた長椅子を指し示した。恐らくラシーク王子とユージィン少年が座っていたのだろう、ファティマ姫の寝そべる座椅子と同じ仕様のそれ。
「此れへ」
座れ、と促されて動くのは、ラシーク王子が早い。
ラシーク王子がファティマ姫と同じ様に椅子に寝そべるのを見ても、俺は動けない。
困ってしまう。
何の説明も無くファティマ姫を紹介されて、それだけでももう既に混乱の極致なのに、一体俺に何を求めているというのだろう。
俺は、どうしたら良いのだろう。
バアル王国のお二方と同じ様に、椅子に寝そべっていいものなのか。グランディアの人々はそういう風に、座って良いものなのか?
それでもそう長い事悩んでいるわけにもいかずに、ファティマ姫を視界に入れないようにしながら、ラシーク王子を挟んだ椅子に座り込む。
――体育座りで縮こまっていたいものだけど、そうもいかない。
どうしていいのか分からず、お姉さん座りと言われるような座り方。畳んだ左足の上に右足を乗せて、その不恰好さに悩んで一度両足を横に伸ばして、座りにくさにまた悩む。
最終的には胡坐になった。俺の苦悩を見かねてか、ラシーク王子が胡坐姿勢をとってくれたからだ。
やっとで落ち着いた俺を待ってか、ファティマ姫は
「イクタル」
と呟いた。唐突に飛び出た単語に首を傾げる前に、
「はい、我が君」
と、答える声がある。
え、と思ったままに視線を巡らせると、何故今まで気が付かなかったのか、部屋の隅に膝を突く、八人もの人間が目に入った。
白い長衣を纏った七人の端から、すっと前へ出るのは、声からして男性のようだった。深く頭を垂れているので顔は分からないが、イクタル、というのが恐らく名前であろうのだろう男性は、俯けた顎の前で掌を上下に重ねるバアル式の礼を見せているにも関わらず、肌の色も髪の毛の色も、バアルのそれとは違った。
「この出会いに相応しい唄を詠んで頂戴?」
ファティマ姫の言葉に、暗い金髪が、微かに揺れる。
「仰せの通りに」
そうしてイクタルさんは、立ち上がった。
――回想は、イクタルさんが最後の一音を紡ぎ落としたのと同時に終わった。
吟遊詩人のイクタルさんは、ファティマ姫の労いを受けて頭を垂れると、また静かに壁際へと帰っていく。
それを目で追いながら、改めて彼らを観察する。
イクタルさんを除いた七人は、どうやら女性のようだった。皆一様に気配を希薄にし、瞳を伏せるようにして佇んでいるのでけして視線は合わない。
彼女達がバアルの人間であるのは、肌の色から疑いようが無い。けれど彼女達は分厚い布で全身を覆い、額と鼻の間の両目の部分だけが、唯一露出しているのだ。まるで戒律の厳しい中東の女性のようだと思う。
ファティマ姫は守りが緩すぎだが、彼女達は守りが固過ぎる。
様子から察すると、彼女達はファティマ姫が国元から連れてきた従者なのだろう。
イクタルさんが何なのかは分からないけど、ファティマ姫を我が君と呼んだ事から、同じような立場だろうと思う。
同じ王族でもラシーク王子には従者が居ないので、何となく不思議に感じる。
見た目は特殊でもグランディアに溶け込んでいるラシーク王子に対して、ファティマ姫は自国の空気を纏った異邦人でしかない。
俺の手の中にある黄金の杯も、中の果実酒も、ファティマ姫が自国から持ってきたものだという。
だから、というわけでも無いだろうけど、何とも言えない心もとなさがある。
この場所には、未知の世界が溢れている。
グランディアに召喚された時のような、どうしようもない孤独感。その中にあって、見知ったラシーク王子だけが、頼り。
無意識に投げかけてしまう視線に、ラシーク王子は毎度、微笑みながら頷いてくれる。
その安心感たら、無い。
「満足されましたか、姉上」
イクタルさんの演奏が終わって一息ついた頃、ラシーク王子は言った。
静かに非難の籠もった言葉に、疑問を浮かべたのはファティマ姫だ。
「どういうこと?」
「貴女がどうしても、と仰るから、ブラッド殿の勉強の邪魔をしてお呼びしたんですよ。もうよろしいでしょう?」
用事が済んだのだから解放しては、という意味だと、俺にもすぐ分かった。
小首を傾げて思案するようなファティマ姫にも、それは通じたのだろう。驚くように見開かれた黄金色の瞳は、演技かかっていた。
「まあ、シャイフ」
驚きは一瞬。すぐに艶やかな唇は、弓形に笑んだ。
「貴方の大事なお友達だもの。わたくし、もっと仲良くなりたいのよ」
――それはつまり、俺の勉強時間なんて知ったことか、という事か。
上位に立つ者特有の身勝手さを、彼女は躊躇わずに口にする。
好きになれない。
彼女に確かな嫌悪を感じた瞬間だった。
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