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02 アレクセス城の魔王 7
ティシアさんに誘われて、グランディア城の温室という所に始めて入った。天井も壁も全部がガラス張りで、中からも空の青さが外と変わりないくらい綺麗に見える。
縦長の建物で、天井は4メートルぐらい上にある。面積は目では測りにくい。とにかくだだっ広いその空間は色んな品種の薔薇が咲いていた。この温室に咲いているのは薔薇だけだという。
薔薇用に温度調節がされているその中でティシアさんがまず説明してくれたのが、アレクセス・ローズという薔薇だった。色は何にも染まらない純白。影が落ちてもそうと思えない、眩しいくらいの白だった。何より俺が驚いたのは、棘が無い事。薔薇というのは棘があってこそ、というイメージだったから心底驚いた。
花には詳しくないけれど、こういうのはもう、薔薇では無いんじゃないだろうか。
けれど『王の薔薇』と名づけられたこの花は王都アレクサでしか育たない奇跡の薔薇なのだと言われてしまうと、俺が感じた疑問を口にする事は出来なかった。
蕾の表面を撫でながら、ティシアさんは純朴な微笑みを見せる。
「何色にも染まる事を赦さぬ気高さが、まるでお兄様のようだとわたくしは思うの」
同意するように傍らで頷くハンナさん。
俺はそうかな、と心中で呟いて、表層では首だけ傾げた。国王陛下を薔薇に例えるなら、俺は鋭い棘を持ち壁面などに蔦を絡ませるようなものを思い浮かべる。ぱっくりと開いた傷口から滴る血を浴びてこそ、映えそうな。何色にも染まらない、という意味では同じだが、色は間違いなく黒だ。
アレクセス・ローズは噎せ返るような香りが漂う温室の中で、まるでそこだけ別空間のように、爽やかな薫りを放っている。腹一杯まで吸い込みたくなるような、清々しさ。
そして色取り取りの花の中にあっての、存在感。温室の中央で咲き誇ってはいても、それ以上に輝く花弁が一際目立つ。
凛と顔を上げ、背筋を伸ばしているかのような佇まい。
「一般的には“王の薔薇”と呼ばれますが、昔は“王妃の薔薇”とも呼ばれました。所以は歴代の王妃の肖像画に描かれたからですが、そもそもアレクセス・ローズが肖像画に描かれたのは、アレクセス・ローズを王に見立てたからなのです。王妃は国王陛下に寄り添うもの、という考えからですね。アレクセス・ローズを改良してマゼル・ローズが生まれてからは、アレクセス・ローズを王の薔薇、マゼル・ローズを王妃の薔薇と呼ぶようになったのです」
アレクセス・ローズの白の周りの、まるで守るようにも寄り添うようにも見える、背の低い薔薇を指してハンナさんが講釈を垂れる。アレクセス・ローズよりも一回り小さく、花弁も丸みを帯びた小さなものだ。色は薄いピンク。
「マゼル・ローズはディーダ国王陛下の時代のご側室、マゼル様からつけられたものです。マゼル様ご自身が研究されて作り出された薔薇でした。――ああ、マゼル様といえば……この方は、ツカサ様とご同様に異世界から参られた方でした」
言われて、俺はすぐにピンときた。残念ながら帰る手立ては見つける事が出来なかった、書庫の膨大な書物の中にマゼルという名前があった事を思い出す。この人が印象深かったのは、彼女に関しての書物があまりに少なかったからだ。二人の王子を産んだが、召喚されて僅か十年で亡くなったようだった。
書物の中だけでなくこういう風に語られると、異世界人という存在が明確になる。自分だけでなく、確かに異世界から召喚された人間が居たのだ、と感じさせられる。
それが嬉しいことなのか、悲しいことなのか、俄かに跳ねた鼓動からは分からない。
俺はティシアさんがそうしたように、マゼル・ローズの蕾を一撫でしてみた。そこにマゼル、という人の心があるような気がして――その人の気持ちが伝わってくる気がして。
「お兄様にも、マゼル・ローズのような存在があればいいのに」
ふ、と遠い過去の幻影に思いを馳せていた俺の隣で、ティシアさんがため息混じりに呟いた。俺はその声に促されるようにして、柔らかな花を手放す。
「え?」
「アレクセス・ローズがマゼル・ローズに心を許したように、お兄様もまた、そんな方を見つけられればいいのに、という事よ」
説明されても、謎掛けのようで分からない。首を捻れば、ティシアさんは更に言う。
「この温室では、様々な薔薇が隣接しているでしょう? そうするとその薔薇同士の特性を備えた新しい品種が、極自然に生まれる事があるの。人が手を加える事も勿論あるわ。けれどこのアレクセス・ローズに関しては、マゼル・ローズ以外に同種と言えるものは生まれなかったの。
マゼル様は異界の知識からそれを成したと聞くけれど、この二種程の気品を持った薔薇はついぞないのよ」
そこで、だから薔薇じゃないんじゃないかと思ったのはオフレコだ。極端にいってしまえば、ひまわりがどうあがいても薔薇にならないのと同じ。AとBという薔薇が受粉してCの薔薇が生まれても、薔薇とひまわりは相容れない。
「花に心がある、などと言うとおかしいかもしれないわね」
グランディアにはアレクセス・ローズとマゼル・ローズにちなんだ物語があるのだという。気高く、美しい、永遠を生きるただ一人の王。誰にも心を許さない孤高の王が、一人の女性を愛し、永遠を分け与えた。二人は寄り添って、永遠を共に生きる、と、要約してしまえばこういう話。アレクセス・ローズもそうやって愛故にマゼル・ローズに己の質を分け与えたのだ、なんて乙女の好きそうな夢物語。
「わたくしがルークと出逢ったように」
夢見心地のまま、ティシアさんが口にしたのはあの人。言ってしまってから目を見張って、取り繕うように微笑んだ。
「そして、ツカサに出逢ったように」
けれど俺にそれを咎めるつもりは無い。資格も無い。
二人で居心地の悪い目配せをしてから、薔薇の群れに視線を移した。
つまりは国王陛下に愛する女性と結婚して欲しい、という妹王女の希望だ。過去の国王陛下の結婚相手がそういう対象で無かったという事は、離縁したという話を鑑みても分かる。国王陛下は人間でなく神様だと言われた方がしっくりくる気がするし、確かに孤高、というか、人間社会において異質な存在感を持っていると俺は感じる。そういう人がもう一人居るとなると恐ろしいが、確かにそういう人が居れば、国王陛下の隣に並んでいても不思議がないかなとも思う。
ティシアさんが望むのはそういう形では無いにしろ、理解出来ると言えば出来る。
でも国王陛下に愛なんて単語が似合うだろうか。花に心がある、という方が信じられるけれど。
曖昧に視線を泳がせた俺をどう捉えたのか、ティシアさんは二、三度頷いてからアレクセス・ローズから離れた。
「お茶にしましょう」
そうして、ハンナさんと俺を奥に促してくる。
そうだった。最初から今日のお茶をどこで取るか、という話から温室へ案内されたのだった。何時ものサロンや中庭もいいけれど、たまには別の所でお茶にしませんかとティシアさんに提案され、それならば温室が良いのではないかとハンナさんが言って、そうして準備の間に薔薇を見ようという話になったのだ。
ティシアさんの後ろに続いて奥へ進むと、何人か連れ立ってきたメイドさんが立っているのが見えた。意匠の凝った脚を持つ丸テーブルと椅子が次に目に入る。
左右の薔薇が切れた先、まるでスポットライトが当たるみたいに陽が差し込む空間が出来ていた。
ポットを抱えたメイドさんが頭を下げると、奥で焼き菓子のトレーを持ったメイドさん達も頭を下げる。角には護衛の兵士も居るが彼らは直立不動でこちらではない別の方向を向いている。
さっと辺りを窺ってから、俺はティシアさんの椅子を引いた。メイドさんと兵士は役割が違うから、それをするのは俺の役目だ。
「ありがとう」
と口元を綻ばせるティシアさんに目線だけで頷いて、隣のハンナさんにもそうする。ハンナさんはティシアさんの侍女だけれど、メイドさんが居る時だけは貴族同様の振る舞いをする。騎士一族という意味でのハンナさんの身分は高く、場面によってはハンナさんも遇される対象なのだという。
だからハンナさんも今はレディとして扱う。
「ありがとうございます、ブラッド様」
それから、俺はダ・ブラッドの仮面を被る。
もう気負う事の少なくなったお茶の時間だが、それでもやはり、堅苦しさに奇妙な緊張感が浮かぶ。
俺が席につくとメイドさんが動き出す。テーブルに菓子や氷飴等が次々に用意されていく。焼き菓子などは今焼きあがりました、とでもいわんばかりにテーブルの中央で湯気を放っている。
「ブラッド様、カップを見ていらして?」
茶目っ気たっぷりなティシアさんのウィンクに、俺は自分のカップに目を落とした。
カップの底に、アレクセス・ローズとマゼル・ローズの花びらが一枚、重なっていた。おや、と不思議そうに瞬くと、メイドさんがポットから紅茶を注いでくれる。
その紅茶がカップに満たされると底にあった花びらが浮き上がり、と思ったら、花びらの端から渦を描くようにして溶けた。
「……え?」
まるでマジックを見たような心持ち。花びらの消えた琥珀の紅茶を見つめて、呆気に取られてしまった。
波紋が消えたカップの中は、ただ満たされた紅茶だけ。
カップを凝視する俺の隣で、ティシアさんとハンナさんがくすりと笑ったようだった。
「不思議でしょう?」
そりゃあもう!! 素直に頷くと、ティシアさんは花が綻ぶように笑顔を浮かべる。
「これも、アレクセス・ローズの奇跡の一つですわ」
「お飲みになってみて下さい」
ハンナさんに促されて、驚いたままの顔で一口。
「……いつもの紅茶じゃ、ありませんか?」
カップに注がれた時と、匂いが違うような気がした。それから、口当たりがいつもよりさっぱりしていて、思わず聞いた。
「何時もの紅茶です」
それなのに、返ってきた答えに、更に驚いてしまう。
「これも、特徴の一つでございますね」
何時もはこう、口いっぱいに広がる紅茶の独特の味に、まるで歯磨きをした後のような爽やかさがある。ミント、みたいというか、洗い流される、そんな感じ。なのに舌の上には程よい甘味と酸味が残る。何時もはまったりと感じるそれが、さっぱり。
それが紅茶に溶けた花びら故だという。
これは断言する。絶対薔薇じゃないよ!
世の中には不思議なことがあるもんだなぁと思いながら、二口、三口を求めてしまう。
思わずぐびぐびとスポーツ飲料のように飲み干してしまったが、見っとも無いとは怒られなかった。その代わり、ティシアさんとハンナさんの二人は顔を合わせて笑っている。
「いかがです?」
「とても美味しいです。何と言ったら良いのか――兎に角、新鮮で」
「見た目だけでは、けして分かりませんでしょう?」
分かったらすごいです、という言葉を飲み込んで頷いた。あまり風変わりなコメントを口にすると、メイドさん達に変な目で見られてしまうからだ。先程温室を見ていた時は会話が届かない位置にいたけれど、今はすぐ近くで待機している。言動行動に注意が必要だ。
「お兄様も同じですわ」
柔らかく微笑みながら、ティシアさんがまた国王陛下の話題を出してきた。その瞬間に彫像のような顔が思い出されて、俺の表情は曇った。
国王陛下を慕うティシアさんの前で失礼とは思うけれど、これは自然とそうなってしまうのだ。
あまり国王陛下の事は思い出したくないのだけれど。口では言えない代わりに、視線でそう伝えたつもりだったけれど、ティシアさんは苦笑するだけ。
「あの通りの方ですから、仕方が無い事だとは思いますのよ。常にそうして遠巻きにされてきた方ですし、そう見せようとする節もありますもの」
誤解されても仕方が無い、と悲しそうに落とした視線に申し訳ない気持ちになる。なるけど、そんな風にはとても思えない。
外見と中身が違うなんて、ことあの国王陛下に対しては。
「長く傍で仕えている者達でも、陛下の人となりは見えるものではありません」
ハンナさんの言葉は誰に対してのフォローだったのか。
俺はそれを聞きながら、過去に会話をした人達の事を思い浮かべる。クリフ然り、メイドさん達然り。一緒にお茶をしたり夕食をとった、貴族や令嬢達然り。国王陛下の話題は度々上ったが、ティシアさんの話題のように親しみが篭ったそれではなかった。恭しく畏まった言葉達はけして国王陛下を貶める事は無いが、それだけだ。国王陛下の偉大さや功績を褒め称え、その美貌を賞賛しようとも、どれもこれも寒々しい。
「どうぞ、お兄様を畏れないで差し上げて」
請うような言葉の後、ティシアさんは声を潜めた。
「ツカサは、わたくしの夫――お兄様の兄弟として、城で暮らして頂くのだもの」
ああ、それは考えてもみなかった事だ。
「ですからどうか、お兄様の良き友に――」
気が付けば、伸びてきたティシアさんの手がテーブルの上で拳を作っていた俺の手に重なっていた。しっとりとして柔らかい掌が俺の拳を包み込む。
力はそんなに入っていないのに、重石を乗せられたように感じる。
人を外面だけで判断したくない。そうは思っても首肯出来ない。
真摯に向けられるティシアさんの視線から、俺は思わず自分の目を逸らしてしまう。
自分の弱さが浮き彫りにされるようで、泣きたくなった。
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