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12 獣の住む城 1
サンジャリアンと別れた後、俺達は山を反対側に下りて、そこからダガートに続く広大な雪原でモノス大公の一行と合流した。
そして深夜過ぎて、ダガートの関所に辿り着いた。
関所の中から覗く外は、白一色。
夜だというのに吹雪のお陰でそれとは感じられない程明るく、風の唸る音や、建物が雪の重みで軋むような音がずっと聞こえている。
分厚い石壁の隙間から、外気が忍び込んでは居ない。部屋の中の暖炉は、部屋中を暖めるに足る。出されたホットココアのような甘い飲み物は、体もくまなく温めてくれる。
それでも、寒々しい空気にぶるりと震えが走る。
ソファの上で毛布に包まり、体育座りで体を縮こまらせながら、カップの中の飲み物を啜る。
けれどその熱が喉を通り過ぎ腹に落ち着く頃には、やはりまた悪寒に見舞われてしまう。
夜も遅い、という事で、関所に着くなりこの部屋に通された。
同室、である筈のリカルド二世は「眠れ」と告げるなり出て行ってしまった。
残されたのは俺と、侍女であるルーシーことヤコブだ。ヤコブは寒がる俺の為に甲斐甲斐しく世話を焼いた後、今は対面の椅子で舟を漕いでいる。
眠いのなら寝て良いと言ったものの、主より先に寝るものかと断固として譲らなかった結果だ。
申し訳無いと思いつつも、俺はどうしても寝台に横になる気にはなれない。暖炉の側から離れがたいのだ。
ヤコブも起きそうな気配が無いし、このままソファに横になってしまっても良いだろうか。
空になったカップをテーブルの上に戻して、俺は足を伸ばして手摺に顎を乗せた。
手持ち無沙汰なせいもあって、何となく暖炉の中で燃える薪を見つめる。赤々とした炎に、ぱちぱちと爆ぜる音が耳に心地良い。
暖炉に縁の無い日本の生活を送ってきた俺だが、何ていうか、こう、温かな家庭の象徴という気がする。
じわじわと炎に撫でられて、炭化していく薪。ぼろぼろと崩れていく輪郭が、時折暗闇に消える。
移動の馬車の中でこれでもかという位寝てしまったのに、暫くの後俺は眠りの世界へ静かに誘われていった。
ツカサ、と。
俺の名前を呼ぶ声が遠くに聞こえた気がした。
ツカサ、と。
何度も何度も、強い口調で、なのに途切れるようにも聞こえる、声が。遠く微かに、細く儚く、それなのに、この耳に確かに木霊するように。
俺は何故か、何所までも続くかのような雪原を、裸の手足で掻く様にして進んでいる。頭上からは視界を埋め尽くすような激しい雪が降り続けているのに、寒さも冷たさも感じない。
声のする方に向かってか、それとも背を向けてなのか、俺はただ、真っ直ぐに前に進んでいた。
意識とは違う所で、体が動く。
ただ、前へ。
雪に埋もれた膝下も、雪を掻いている筈の腕も、向き出しの肌も、どこもかしこも感覚が無い。
ツカサ、と。
また、声が聞こえた。
良く知っている筈の声だ。何時か聞いた筈の声だ。
そうは分かっても、それが男のものなのか女のものなのかすら理解出来ない。
その声に応えたい。
なのに耳を塞ぎたい。
安心と焦燥、相反する感情と結論が胸の内に浮かぶ。
開いた唇は、結局言葉を吐き出さないまま、か細い息をついた。
何所までも続く、真白。天も地も境の分からない程の、白。
誰かも定かでない声だけが、ずっと、俺の名前を呼ぶだけの――。
「――ツカサ」
酷く明瞭に、俺の名前が響いた。
そう認識した時にはすぐそこに、リカルド二世の顔があった。神がかった、この世の者とは思えぬ程の端正な顔に、今はもう慣れ親しんだ無表情。
「……」
「………」
無言で見つめ合う事数秒。
今、俺の名前を呼んだのは、リカルド二世である――多分。
「……」
瞬きを繰り返していると、リカルド二世の視線が俺から離れた。
確かに俺の名前を呼んで、俺を眠りの底から起こした人。なのに起こした後は用も無いのか、既に俺に意識の欠片も向けていない。
起こしていた半身をベッドに沈めて、俺に背を向ける。
――ん? ベッド?
俺の体を受け止める柔らかな感触も、上に被った軽い羽毛の心地も、ついでに頭上に広がった天蓋も。ベッドのそれだ。
人が五人は寝転がれそうな広いベッドは、ダガートの関所で通された部屋のもの。
今尚燃えている暖炉のお陰で、室内はひっそりとだが明るい。
――そんな事は良い。
何時自分がベッドへ移動したのかも、まあ、良い。
大事なのはそのベッドに、当然のように横になっているリカルド二世。
形の良い小さな頭を覆う、男のくせに艶やか過ぎる綺麗な金髪。意外に広い背中の肩甲骨の隆起が薄い寝巻き越しにも分かる――とか、そんな事を悠長に観察している場合では無い!!
跳ね起きた振動が煩わしかったのか、肩越しに胡乱な視線がこちらに向けられる。
「……何だ」
陛下を指差して口をパクつかせていた俺を、リカルド二世が静かに睨んだ。
いやいやいやいや!!
何だ、じゃなくってね!!?
脳内では激しく言葉が踊っているのに、それらは喉で固まったまま。
留まった言葉の欠片を、リカルド二世が拾ってくれる様子は無い。
リカルド二世の身体が反転して、再び俺を見据える。二人寝転んだその距離が、いやに近い。
ベッドは広いんだから、何もそんな傍に居なくても良いんじゃないだろうか!!
形の良い唇が僅かに歪んで、しかし漏れたのは慣れた嫌味でも無く、溜息だった。
伸びて来た片腕が、よれていた上掛けを俺の身体の上で整えてくれる。そうしてからそのまま、俺の身体を引き寄せた。
えっと思う間に、密着した身体からじかの温もりを感じて、硬直する。
リカルド二世の鎖骨が、何故か目の前にある。
陛下の懐に抱き締められるような格好に焦って思わず見上げれば、更に近い所にリカルド二世の端正な顔があって、パニックに陥ってしまう。
毛穴一つ見つけられない透き通った肌、長い睫毛の下の氷が張ったような色合いの瞳、真っ直ぐに伸びた眉に、綺麗に通った鼻筋。表情はやはり変わらぬ無表情。
息が掛かってもおかしくないのに、その熱は感じられない。
この人、やっぱり良く出来た人形なんじゃないのか、という明後日な疑問が浮かぶ。
瞬きも忘れて、見入ってしまう美しい顔立ち。
息を詰めていたのだと気付いたのは、呼吸が苦しくなってからだった。
「慣れろ」
と意味の分からない一言を告げて、リカルド二世が瞼を閉じる。
慣れろって、何が!!何に!? と、脳内で激しく叫んでも、それが言葉になる事は無い。
この落ち着かない状況から逃れたくて身体を捩ろうとしても、密着した陛下の熱を感じてしまうと、それも上手くいかない。せめて少しでも距離を取ろうと逃げようとした腰を、布団の中の腕が捕らえた。
リカルド二世は目を瞑ったまま。
俺が唯一出来た事といえば、胸の前で腕を縮めて、それだけの距離を作る事だけだった。
息苦しいし、動悸は五月蝿いし、どうしてこんな状態に陥ってしまったのか分からないまま、俺は眠れぬ夜を過ごす事になった――。
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