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10 王妃の生活 1



『親愛なる、ツカサ』

 そんな文脈で始まったティシアの手紙は、これで三通目。一通目はティアがグランディア城を離れての旅路で書かれたもの、二通目はジェルダイン領に落ち着いてしばらくしてから書かれたものだ。
 そして今日届いた三通目は、実に四ヶ月振りの手紙だった。
 封を開いてすぐに薫る甘い匂いは、ティアを彷彿とさせる、ピンク色の花で作られた香水だ。そういったものを手紙に含ませるのが、この世界では常識であるらしい。
 ミミズが並んだように見える細い字面は、頭の中で勝手に日本語変換される。
『こちらでの生活は、毎日がとても楽しく、わたくしは幸せを噛み締めて過ごしています。前の手紙でも、同じことを言ったかしら?
ツカサにも伝わっているでしょうけど、ヴェジラ山脈の民との交渉は順調よ。連日、我が家に沢山のウージの方がいらして、晩餐も賑やか――そうそう、この間、カジンがついにアッシャーの身長を抜いたのよ。あの年頃の子の成長は早くて驚いたけれど、思えばこちらに来てもう七ヶ月も経っているのだもの、当然かしらね』
 ティアからの近況報告は、心からジェルダイン領での生活を楽しんでいる事が窺える。家畜が子供を産むのを初めて見て感動したとか、ウージの言葉をどれだけ覚えたとか、王女様の暮らしとは一転した素朴で穏やかな日々を、愛しいのだと。ティアの笑顔が思い出されて、俺の顔まで綻んでしまう。
『ツカサは聞き飽きたと思うかもしれないけれど、今ある幸福は、全てツカサのお蔭。幾度言っても足りないくらい、あなたには感謝している。本当よ』
 そう綴って俺の近況を訊ねた後に、最後に必ずこの一文を足す。
『ツカサの幸せを、わたくしは心から祈っています』
 それから、今日はもう一言。
『来月の祝祭に、会えるのを楽しみにしています』
 一番下部には、慣れたようなサイン。最初の頃は細く滲んで、少し震えているように見えたそれは、ティシア・オルブライト・アラクシス=グランドと綴られている。
 ルークさんに新しく与えられた名前、日本で言う苗字は、王族から派生した事を語る。そしてこのオルブライトという名は、現オルブライト領――元ジェルダイン領をも指し、ルークさんがその土地の領主である事も語っていた。
 そのサインを見る度に、俺のささくれ立った心は癒され、救われる。

 ティアがルークさんと結婚し、ルークさんに与えられた領地に旅立ったのは、手紙に記された通り七ヶ月も前の事だ。当然のようにハンナさんもそれに従い、俺は厳しくて辛辣な先生を失った。
 それから――否、思い出すだけで寒気を覚える悪夢の夜から、俺の生活は味気ないものになってしまった。
 もう七ヶ月。ティシアが言うように俺にとっても、そんな感想が表す期間はあっという間。グランディアの気候は一年中春の陽気で、日本の四季のように明確に月日を感じられる風景の違いは無い。俺の世界でいう一月から十二月、月を示す用語もこちらではエスカーニャ神の分身の名前で分かりにくく、過ごしている分には七ヶ月もの日々を実感できない。
 でも言葉の上では、もう七ヶ月も経ってしまった。
 けれど、俺がこの世界に召喚されてからは、既に一年と半年弱。
 ティアの結婚相手から始まった異世界生活は、流れ流れてありえない所に落ち着いてしまった。
 今の俺は、二足の草鞋を履いている。
 キルクスからの客人、日夜勉学に励むブラッドは表向き宰相シリウスさんの雑用係。
 そして――呼ばれる度に、未だに服の下が鳥肌だらけになってしまう、麗しき国王陛下、リカルド二世の――王妃。
 ブラッドとして生きていく事はこの上なく都合が良い。
 けれど王妃ツカサ・アラクシス――という名だけは、何時まで立っても自分のものだとは思えない。
 悪夢の夜、つまり陛下の勝手な婚約発表から、俺は異世界人ツカサとして、しかも女性として、敬意と羨望を持って遇された。
 朦朧とした意識で多大な祝福を受けている内お開きになった祝雅会の翌日、再度陛下の口から、その決定を告げられてからというもの。
 二月後に、早々と盛大な結婚式を上げてからというもの。
 当然のように俺の意思は尊重されないまま、こんなにも月日は過ぎてしまった。
 そうして来月にはリカルド二世と結婚して一年を記念しての祝祭が、ある。
 ありえない、と毎日、何度も何度も心の中で呟きながら、課せられた王妃としての公務と、ブラッドとしての勉強の日々に齷齪して、そうこうしている間に一年。
 笑っていいのか、泣いていいのか分からない。自分を哀れんでみたり陛下を罵ってみたり、運命を呪ってみたり、当初は自分の感情さえ制御出来なかったけれど、それにすら飽きてしまえば、この通り。
 自分でも驚く程、ツカサとブラッドの顔を使い分けていると思う。
 でもそれが出来ているのは、終わりが見えているからだ。



 ティアの祝雅会の夜、俺はファティマ姫に殺されかけた。ファティマ姫の憎悪と殺気は感じたけれど、それと実感できない位あっさりと収束した事件を、今だ気にかけているのはラシーク王子だけだろう。殺人未遂事件、なんて言葉は大仰で、実際あった事には不釣合い。申し訳ないけれど、あんなものは恐怖する事ではなかった。それより勝手に決まった結婚話の方が何倍も恐ろしい。
 けれど事実はどうあれ、ファティマ姫が剣を向けた相手は、異世界人であり王妃候補の俺だったのだ、認めたくはないけれど。
 俺が当事者でなく第三者で、他国の王女が王妃候補を殺そうとしました、なんて聞けば大事だと思っただろう。俺の生きていた平和大国日本であれば剣なんか所持しているだけで銃刀法違反だし、それを他人に向けてしまった時点で、対象がどんな身分であれ大事件だ。
 それにもしこれが皇室に起こった事であれば、未遂であろうがなかろうが適当な処罰を求めただろうとも思う。
 でも当事者の俺には、喧嘩にも満たない事なのだ。ファティマ姫の言い分は不当でも何でもなかったし、俺こそが望んでいた。
 でも結局この事件が不問になる事はなかった。
 事件自体は公にされなかったものの、結果としてファティマ姫は国許で修道院のような所に軟禁されて、何故かラシーク王子は彼が望んだ事とは言え、関係の無い泥を被る羽目になった。
 どうしてそんな事になってしまうのか、俺には理解出来なかったし納得も出来なかった。
 心底、リカルド二世陛下とも、この世界とも相容れないと思った。
 それでも今俺がこの状態を受け入れているのは、その相容れない世界に別れを告げる為。
 悪夢の夜が明けて、呼び出されて向かった執務室でリカルド二世陛下は言った。

「取引だ」

 どんなに詰っても批難しても、表情を変えずに、淡々と。

「三年間、王妃として存在するだけで良い。その間王妃の務めを果たした暁には、貴様は自由だ」

 本音は突っぱねたかった。死んでも嫌だ、と。
 陛下は嫌い。好きにもなれない。理解出来ない。傍に寄りたくない。どんなに立派で、国王としての責務を一身にこなし、国の為に尽くす人でも。
 自由になった所で、俺は日本には還れない。方法があった所で、還っていいのかも分からない。
 この世界に召喚された時点で、俺は自由も幸せも失った。
 そう叫んで、罵って、それでも。
 俺は、この世界で生きていく未来を、心のどこかで描いてしまっていたから。



 だから俺は俺の為、魔王と取引した。




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