death? OR live?

昔、こんな事があったっけ。

 少年野球の帰り道、雨が降り出して。
 スポーツバッグを傘にして走ってた俺。
 前方に黒猫が現われて、それがやせ細った憐れな猫で。

 スポーツバックからタオルを取り出して拭いてやろうと思ったっけ。
 それなのに黒猫は威嚇音を発し、そのまま逃げ出した。
 無知な俺は猫を追いかけ、家においでなんて叫んでた。親が許してくれるわけもナイのに、子供特有の同情心でその猫を追って
――

 黒猫は、道路に飛び出して車に轢かれた。


 俺はわんわん泣いて。黒猫の内臓をかき集めて抱きしめて、わんわん泣いて。
 急速に体温を失う子猫をただ抱きしめて、どうする事も出来なかったっけ。
 俺が追いかけなければ良かったって、そう思って懺悔のつもりで墓を作って埋めてやって。名前を「クロ」とか安易につけて。


 それっきりだったけど。



 何で今、こんな事思い出してるんだろう……。





□ □ □ □ □ □ □ □ □ □





 雨が降っている。
 前方さえ見誤る細い雨が、ザーザーと降っている。

 一人の、まだ青年と言えそうな若い男が、コンクリートの上に血を流しながら倒れている。
 それは、人通りの少ない路地裏での事。

 雨音の所為で叫びさえ届かず、青年はとうに助けを求める事を止めた。



 それは、自業自得の末の結末。
 青年の心に後悔など微塵もない。

 だから、刺されて瀕死な今も、惨めに泣き叫んだりしない。
 これは、ずっと青年が望んでいた終わり。



 腹に突き刺さったままのナイフを栓代わりにしていても流れ出すモノは止められず、また、冷たい雨に体温を奪われて青年は動く事さえ出来ない。
 死ぬのは怖くないけれど。
 せめて、青空の下で死にたかった。
 自嘲気味に笑いながら青年は、痛みを堪えて蒼白になった顔をますます歪めた。
「…いってぇ……」
 死ぬのは嫌じゃない。だってずっと願っていた事。
 だけど、痛いのは好ましくない。
「早く……死ねよ……」
 この手を伸ばすだけで意識を手放せるのなら、そうするのに……。
 かといってそれを行動にうつしてみても、結局は痛みだけが募って何の解決にもならない。こういう時は自分の健康な体が憎いものだ。
「ったく、最後までついてねぇぜ……」
 掠れた声で呟く。
 青年の人生は、それは悲惨なモノだった。
 生まれた時に半身、つまり双子の片割れを失くし、両親は借金を苦に自殺。その所為で夢は半ばで破れ、高校も中退。引き取られた叔父夫妻には嫌われて、その叔父夫妻が事故死して。アパートから追い出されて。借金取りに追われて。
 頼るものも居ず。
 独りで生きていく為に何だってやった。
 いつ死んでもいいと思いながら、死ぬ勇気はなかったから。
 結局言い訳ばかり上手くなって、自分を誤魔化す術だけ増やしていって。
 その結果がこれだ。



「まったくついてねぇ……」
 言葉にする度腹の傷が痛んだが、青年は構いやしなかった。
「んっとに……は、やく、死にやがれよ…」
 あの猫はあっさり死んだのに。
 最もあんな小さな体が車に轢かれたのと一緒にするのもおかしいが。


 本当に、何故そんな事ばかり思い出すのだろう
――


 人間が死ぬ時、走馬灯の様に過去を思い出すというが、青年の場合はその猫の事ばかりだ。
 猫が轢かれる、その一瞬の事ばかりだ。
 もっと楽しい思い出もあったはずなのに。

 心中で悪態をついていた青年は、急にその訳に思い至った。
 霞んだ目で見えるのは、あの猫が飛び出した道路だ。当時よりは半分も人通りが減った
――
 今までは特に気にしていなかったが、自分が縄張りとしていたこの辺りは、俺の家があった辺りじゃねぇか………。
 そう悟った瞬間、青年は急に馬鹿らしくなった。
 生きるのに必死で、自分独りで生きていくしかないとか思っていたけど。
 結局は過去の思い出から離れられないのだ。離れたくないのだ。
「……っとに、最低、の人生だぜ………」
 青年は引きつった笑みを浮かべながら、じっと通りを見つめていた。
 けれど霞んだ瞳では、もう何の色も感じられない。
(いよいよ終わりかな……)
 痛みも薄れ、段々と眠くなってゆく。
 全ての音が遮断され、感覚も鈍くなってゆく。

 そう。きっとこれが終わりというもの。

 青年はゆっくりと瞳を閉じようとした。

 だが一瞬、青年は黒い何かを捉えた様な気がして瞳を見開いた。
 気のせいではない。
 何も映さないはずの視覚が、何も聞こえないはずの聴覚が、一つのモノを確かに感じている。
 何もかもを鮮明に、青年の脳へと伝えてくる。
 足音。
 そして、雨の中をこちらに歩いてくる一つの影。
 その影はおかしなことに、降りしきる雨を弾いていた。
 肩先も漆黒の髪も、濡れた様子はない。
 その影が持つのは、三日月のような大鎌。
(死神……ってやつか…?)
 再び呼び起された思考の中で、青年はそんな事を思った。
 もしその黒一色の人間が死神だとすれば、自分を迎えに来たのだろう
――
 青年の心に、我知らず安堵が浮かび上がる。

 ああ、これで死ねる
――

「本当に?」
びっくりして目を見開く青年の一歩前で、女とも男とも言えない中性的な人間が、異様に澄んだ声でもう一度言った。
「本当に?」
 それが何を問うているのかわからなくて、青年はますます目を見開く。
「本当に、これで死んでいいのか?」
 雨粒を弾きながら、その死神の様な者は静かに腰を下ろした。奇妙な事に、その足先でさえ水を受けていない。
 青年はその足元で、もう一つの気配を察知した。
リン
――と、死神の声にも負けぬ澄んだ鈴の音が響いた。
 そして、現われたのは黒猫。
 死神のやってきた方向からかけて来る、赤い首輪をはめた小さな黒猫。
 猫は死神の足元に擦り寄ると、小さくニャァと鳴いた。
 次いで、青年に向かってニャァと鳴く。
 その黒猫は、あの時の猫に酷似していた。
 あの雨の日の、「クロ」と名づけた黒猫に
――
「この子が、私をお前の元に連れて来た。さあ、選べ。死ぬのか、生きるのか
――――
 
 青年は、言葉を紡げない。ただ驚きだけが先行し、思考がついてこない。
 そんな青年に黒猫がニャァと鳴き、死神がせかすように言う。
「さあ。どっちにする
――?」

 問われても、どうしたらいいのかわからない。
 一体全体何がどうなっているのか。黒猫が死神を連れてきた?何故?
 死神が俺に死ぬか生きるか選べと言う。
――何故??

 わからない。わからない。わからない。わからない。


 俺は死ぬんじゃないのか?
 俺は生きれるのか?
 
「さあ、どうする?」


 分からない。判らない。解らない。ワカラナイ
――――


――だけど――

 死神の背で、大鎌が銀色の光に輝いている。鋭い光を放っている。


「さあ
――――



 青年は、ごくりと唾を飲み込んだ。
 その首筋に黒猫が擦り寄って、ニャァと、鳴く。
 黒い四つの瞳が、青年をじっと見つめている。


 俺は、どうしたい
―――

 
――どうしたらイイ――


 黒猫の鈴が、チリンと音を立てた。







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