雪と共に散り逝く
気がつけばいつも、その土手で会うようになっていた。男の名も知らず、俺も名乗らず……。ただそれだけの関係。
「お前は要領が悪いから」
何でだろうな。
昔なら笑えたのに。
何てことないように、笑えたのに。
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あの男と初めて出会ったのは、十五の時だった。成人の儀を終えたばかりの、まだ大人とはいえない頃――。
「何をしている?」
土手に寝転がり、雲の流れを見ていた俺。
頭上から降ってきた声にしばし驚いた。
ひどく見成りのイイ男だったが、歳は十も離れていないだろうと思えた。
「あんたこそ、何やってんだ?」
イイ大人がこんな真昼間から本当に何をやっているのか。自分も成人した身の上だという事は、この際置いといた。
「散歩だ」
散歩にしちゃ、重装備だった。
「そんな格好で?」
「そうだ。何かおかしいか?」
「おかしいかって……」
男の惚け具合に、言葉を失ったのを覚えている。
「それより、お前は何をしている?」
「暇潰し」
「ほう…。では、俺が相手をしてやろう」
男は頼んでもいないのに俺の隣に横になると、
「気持ちがいい」
穏やかな声で言った。微笑むと、どこまでも優しく見えた。
それから他愛もナイ話をした。どうという事ナイ、普通の話――。
楽しければいいと思っていた、15の夏。
その男が平 清盛だと知ったのは、出会いから三年後の事だった。
その事実に憤慨し、相手につめ寄った俺に、清盛は苦笑しながら言った。
「俺は、すぐに気付いたぞ。何度も見た事があるからな」
つまり、気付かなかった俺が悪いと――。確かにその通りだ。平清盛を遠くから見る機会は何度とあった。しかし自分には関係ないと無視を決め込んでいたのは俺なのだから。
「お前には野心はないのか?」
「ないなぁ。あんたは?」
「俺もない。だが、義務だ」
「ふぅん」
気のない返事を返した俺に、清盛は楽しそうに笑ったのだった。
「お前も、そういう立場だろう」
源 義朝――それが俺の名だ。源 為義が第一子――いずれは父の代わりに家を継ぐ。
そうすると立場上、平の家の者と親しくしている事実はあまりよろしくないと言えた。それでも俺達は、変わらずに土手で会っていた。
清盛は自分を下に見ることもなかったし、一緒にいて楽だった。おおやけの場では笑い合えないが、ただの友人としてならば笑い合えた。
それが変わり出したのは、いつの頃からだっただろう。
多分、25歳を越えた辺り――。
俺は上手く出世できない事に苛立ち、清盛に愚痴っていた。おもしろくないのは清盛はとんとん拍子に出世していくのに対して、この自分の体たらく。
野心などない。清盛が言った通り、義務だとは思っているが…。源家に生まれた者の義務だとは。
「お前は要領が悪いからな。もう少し妥協を知れば、俺のように出世できる。様は上皇の機嫌を取ればいいのだ」
「そうは言ってもな。俺にはそれは出来ない相談だ」
「だが、それでは出世は思うように行かんぞ」
「わぁってるよ。ったく。上皇もこの腹黒清盛より、素直で嘘のない義朝を頼ればいいものを」
「ははっ。それを素直というか。どちらかと言えば、辛辣だな。せめて言葉をもう少し上手く使えば、上皇もお前を頼ったろうに」
清盛は笑みを響かせた。それが悪意からではないのは重々承知しているので、義 頼は唸るしかなかった。
いつもの様に笑いながら、心に募った想い――どうして、俺だけ――。
野心――というのは違う。
周りは俺の清盛への悪態をその様に取ったが、俺は清盛が好きで。だからなのか、キラキラ輝いている清盛が眩しくて。置いていかれるような気がして。それが嫌で。
だから、頂点を目指した。
けれど、それはいつからか憎悪に変わって。
上手くいかない事の苛立ちと、変わらない清盛の性格と、優しさがどうしようもなく恨めしくて。
それが自分勝手な憎悪だとは良くわかっていた。
けれどそれを認められるほど、幼くはなかった。わかっていても、わかっているからこそ、清盛を恨んだ。
決定打は、あの年。父や弟を討った、あの乱の年――。
義朝は、はらはらと舞い落ちてくる雪に顔を上げた。
身を切る様な寒さの中、数少ない臣下を伴って逃げる自分は、なんと惨めな事か。
なんと愚かだった事か。
愚考だという事はよくわかっていた。どうしようもない事も。けして清盛に勝てない事も。
それでも、この道しか選べなかった。
今にすれば、何と愚かな事。なんと馬鹿馬鹿しい事。自分の幼さの為に、どれだけの人間が命を落としたか、今になって後悔するとは。
「義朝様、闇が深うなって参りました」
臣下の一人が言う。
物思いを解いて顔を向ければ、男の顔には不安の色。
義朝は、わけもなく笑った。
「もうしばし行けば、野間だったな」
「は」
「野間には長田の家がある。――今宵は、そこで休ませてもらおう」
「では、至急先駆けを」
「うむ」
義朝朝は、再び顔を上げる。灰色のどんよりとした雲と、視界を遮る白い雪を、ただじっと見つめる。
寒い、寒い冬の空に、思い出すのはあの年の事。
白いため息が、空気に溶けた。
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「何故だ!!」
義朝の屋敷に、怒声が響いた。
恐ろしい顔で怒鳴り散らす家人の顔に、女房達はただ震えるばかり。そこにはいつもの微笑みはなく、憎悪に燃えた二つの瞳が、あやしく輝く。こんな義朝は見たことがないと、妻・常盤は縋る三人の子供達を抱きしめながら思った。
「何故、清盛ばかり!!!」
義朝は、尚も叫ぶ。血を吐くような悲痛さで、ただ叫ぶ。
「何故なんだ!?」
常盤には、義朝の怒りが、十二分に解る。清盛を親友と密かに呼んでいた義朝は、ずっと清盛に置いていかれる事を恐れていた。
家の為ではなく、その為だけに耐え抜いた十年。先の『保元の乱』では、清盛にも負けぬ働きをしたはずだった。
それは誰の目にも明らかだ。
それなのに。
清盛と義朝の差は開くばかり。義朝の不満は、憎悪となり清盛に向かっていく。
「どうして、俺は!!」
義朝の心は、すでに終焉へと向かっていたのかもしれない。
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1159年。
源 義朝、藤原 信頼と組み、清盛の熊野参詣の留守に挙兵す。
後白河上皇を幽閉、藤原 通憲を殺害したが、急ぎ帰郷した清盛に敗れ、東国に敗走した。
尾張の野間・長田 忠致の屋敷に着くと、家人は義朝を屋敷へと上げ、すぐに食事と酒を用意した。
義朝はそれを有難く頂戴すると、家人の勧めるままに浴室に入る。
雪の降る様を目に焼き付けるようにして、義朝はずっと空を見ていた。穏やかな顔をして。どこか晴れ晴れとして。その口元には笑みを浮かべ、つき物の取れたような穏やかさで、ただ空を見上げていた。
それは、別れの儀式。
背後から刃を受けて、義朝の体は水中へと傾いだ。体から流れ出す赤が、風呂の水を染めていく。
「お、お許し下さい、お許し下さいお許し下さいお許し下さい……」
震える声が、必死に謝罪する。義朝には、顔を上げる事も口を開く事も適わなかった。
ただ、何を謝るのか――と、そう思った。
お前の選択は正しい。それが正しいと、言おうと思った。
けれど急速に体温を失う体には、もう何の動きも見れなかった。
それでも義朝の意識は、ずっと雪の空を見る。
遠い空、妻と息子達を思って。
もっと早くに、お前達のことを思い出して居れば良かったと。
謝罪と、こみ上げてくる愛しさと、それから…別れの言葉と。
そして、清盛へと思いは飛ぶ。懐かしい記憶へと。
どこか楽しそうに、どこか悔しそうに、呟く清盛の顔。
「お前は、要領が悪いから」
――ああ、そうだな……。
また間違えてしまった。また……。
あんた、笑うだろうな。そして、泣いてくれるんだろうな。
俺は――。
――俺はね――――……。
上手く言えないけれど、この人生を後悔はしない――。ただお前らには苦労をかけてしまうけれど……。
最後まで、不器用だった俺だけど。
それでも、後悔はしないよ。
浴槽を真っ赤に染めて、義朝は笑っていた。
笑って逝った――。
1160年、一月四日。
寒い寒い冬の最中。
源 義朝は故郷から遠く離れた尾張の国で、逃亡の末謀殺された。
38歳の、冬の事である――――。
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源 義朝の死の知らせは、その三日後、京の清盛の元にも届いた。
清盛はただ静かに、
「そうか」
とだけ呟いた。
屋敷に帰り着いた後、京でも雪が降った。たった一瞬、積もる事のなかった最初で最後の雪。
清盛は、友の死を思って泣いた。
「馬鹿やろう……」
聞く者はなく、聞かせる者もなく、ただ空に消えて行っただけの言葉。
唯一無二の親友を追い詰めた自分。
最初から最後まで解り合う事のなかった、友。
涙など、言葉など何の意味もないと知った。
平 清盛はその後、罪人となった義朝の息子らを罰する事はなかった。それは優しさからだったのか、償いだったのか――どちらにせよこの選択が、平を滅ぼした要因といえよう。
何にせよ二人の友情は、交わる所を知らず、ただ雪の中に消えて逝った。
1181年、二月四日。
平 清盛は雪の降る中、64年の人生を終えた。
その中で半分にも満たなかった義朝と過ごした日々は、清盛の人生の中で一番輝いたまま――死ぬまでずっと、忘れられる事もないまま、清盛の心に残っていた。