78 いいから黙って呑み込め。



quinto.02






 試食会後、結局コルディオが家に帰りついたのは日にちが変わって三時間後だった。
 あまりの疲労にベッドに倒れ込むように寝入って、そのまま休日は泥の様に眠って終わった。
 定休日後も準備の為に、欠伸を噛み殺しながら【ビアンコ】に辿り着く。
 真っ直ぐ休憩室に向かうと、中からの明りが外に漏れていた。
「……はよーございまーす……」
 静かに扉を開けると、ソファの背に座りながらコーヒーを啜っていたフレンツォと目が合った。何時もは奥のオーナールームの住人である彼が休憩室に居るとは珍しいな、と思いながらも朝の挨拶をすると、フレンツォは困ったように苦笑しながら手を上げて返してくれた。
「おはよ、コルディオ」
 変わりとばかりに挨拶を返したのは、フレンツォの陰で見えなかったが、声で分る。
「ターニャも居るのは、珍しいな」
 こちらはソファに掛けていたターニャの声の調子は、どことなく不機嫌だ。
 首を傾げながらも、自分のロッカーに向かう為にコルディオはソファを通り過ぎた。
 背後で、ターニャがカップを机に置いた音がする。ガチャリ、と機嫌の悪さをそのまま態度に出したような雑な音。
「ちょっと、こっちに座んなさいよ」
「は?」
「いいから、来て」
 責めるような口調で言われて、コルディオの眉間が歪む。
「ってか、俺今から掃除だし。てめぇもやれよ、何寛いでんだ」
 元来短気者であるから、喧嘩を売るような態度をされれば同じ態度を返してしまう。フレンツォが居る事も忘れて、ターニャを睨みながら言う。
 するとターニャの方も、瞳を吊り上げていた。
「いいわよね、フレンツォ?」
 偉そうにふんぞり返り、足を組み直したターニャに、フレンツォは固い声で応えた。
「……ええ」
 オーナーにそう言われては、コルディオは従う他無い。
「……わぁったよ!」
 開けたばかりのロッカーを乱暴に閉めて、ターニャに向かい合うようにソファに掛けると、ターニャはドスの聞いた声で言葉を繋いだ。
「今日、イジョールは風邪で休みだって」
「はあ?」
 突然飛び出た名前に目を見開く。
「誰の所為だと思う?」
「何であいつの風邪が俺の所為なんだよ! 体調管理が出来てねぇ自分の所為じゃん」
 あまりの下らない質問に、コルディオのこめかみが波打つ。
「あんたの所為に決まってるでしょ!! あんた、一昨日イジョールに何言ったの!?」
「……お前に関係無い」
「あの日の帰り、イジョール泣いてたのよ! あんた、ここで一緒になったんでしょ!?」
「それが今日の奴の休みとどう関係あんの」
 いい大人がアレくらいで泣くのか? と、一昨日の帰り際を思い出しながらコルディオは思った。というより分りきって居た事をただ口にしただけだ。大分態度も悪かったし相当悪意に満ちていたが、今更だ。
「……何言ったのよ?」
「だから、関係無い」
「関係あるわ!」
 ターニャは朝から元気な事で、声を荒げてどんどんと机を拳で叩く。昔からターニャに何度も説教を受けてきたコルディオにとっては、良くある彼女の態度には違い無いが。
 だからこそ、彼女がこういう時引かないというのも良く知っている。
「あいつが嫌いじゃないとか阿呆くさい嘘つくから、俺もあんたが嫌いだからそんな嘘つかなくて良いって言ったんだよ」
 肩を竦めてから、そんな大した話でも無しと思いなおして、口を開く。
「あと、嘘つく時ぐらい真っ直ぐこっちの目を見たらとも言ったかな」
「はあ!?」
「そんだけだ」
 コルディオにしてみたら、ただあった事をありのままに伝えただけなのに、ターニャはまるで馬鹿にするかのように失笑した。
 そして今まで明後日の方向を見ていたフレンツォの視線も、気のせいか鋭いものとなってコルディオに注がれた。
「……何、ですか……?」
 予想外の反応に、二人を怪訝な目つきで見返す。
 ターニャは自らを落ち着けようと、息を大きく吸って吐いてを繰り返した。それでも微かに眉間が震えているのは、怒りを収めようとする何時もの彼女の態度だ。
 何がそこまでターニャの逆鱗に触れたのか、コルディオには分からない。
「……あのね、コルディオ」
 感情を押し殺した声は、低く、重く。緊迫した室内の空気を、更に居心地の悪いものにする。
「あんたのそういう素直な所、あたし、好きよ?」
 深い溜息の後、ターニャは「でもね」と続ける。
「時と場合によって、あんたの言葉は残酷だわ」
「……どういう事だよ」
「世の中には、色んな人が居るって話よ。あんたの言葉を真っ直ぐに受け止めてくれる人も居れば、曲解する人も居る。怒る人も、悲しむ人も、傷付く人も居る。その程度は、人によって様々だけど」
 そんな事は知っている、と怒鳴りそうになるのを、コルディオは唇を引き結んで堪えた。二つの違いしか無いというのに、どうにもターニャはコルディオを子供扱いしたがる。説教は何時だって上からの目線で物を言うし、これだから子供はと言わんばかりのそれにコルディオは何時だって苦虫を噛み潰す思いだ。
「そういうのを見て聞いて知っていって、大人になると皆、言葉を選んでいくのよ」
 フレンツォがソファに掛け直して、隣のターニャの言葉に先を促すように頷いた。
「だけど、イジョールはその経験が絶対的に少ないの」
「……はあ?」
「つまり、人と接する機会が家庭の事情とか諸々で無かったのよ。イジョールの世界は自分と、その両手で数える位の人間とで形成されていたから――コルディオという人間は、彼にとって未知とも言えるって事。人が苦手っていうのはね、どう接していいか分からないからなの」
 首を傾げたコルディオに、困ったように笑いながらフレンツォが補足した。
「あの子は無垢な子供当然に、色んなものを吸収している最中よ。それこそどんな事も、素直に受け止めようとする。でも元々のキャパシティがあの子には無い。だから貴方の言葉や態度の真意が分からなくて、戸惑っているだけ」
「あんたが悪いんじゃないのは分かってる。だけどイジョールだって悪いわけじゃないのよ。あんたとイジョールが対極に居すぎるだけの話だって、あんた想像出来たんじゃない? そういう相手だって分かって、そういう風に接する事は出来ないの!?」
 ついにターニャの言葉は叱責を含み始めた。
「何も腫れ物扱いしろっていうんじゃないのよ? ただ歩み寄って欲しいってだけよ!?」
 最後の方は声が震えて、どんだけ怒ってんだよと思って見たら、その顔は泣くのを我慢しているように歪んでいて。なおかつ瞳には涙まで盛り上がっていて。
「どうして、傷つける事しか言えないのよ!!」
 それでも腕で涙を拭って、また声を荒げたターニャが昔の面影に重なった。
 傍若無人な女王様であった子供の頃のターニャは、それでも正義感が厚い姉御肌な所が皆に慕われていて。コルディオは昔からそのターニャのお気に入りで――というのも、ターニャの無謀にも泣きも怯みもしなかったので――どこにだって連れ回された。そんなターニャの無茶に付き合って、コルディオが瞼に縫うほどの大きな怪我をした事があった。今でも傷が残っているが、一歩間違えば失明していてもおかしくないと言われた。ターニャは大人に散々怒られても泣かなかった。けれど眼帯をしたコルディオを見た瞬間、「痛いよね」と言って涙したのだ。コルディオの痛みを自分のものとして、コルディオの為に泣いたのだ。
 ターニャが泣くのを見たのは、あの時が最初で最後。
 そして今。
 今度はイジョールを思って瞳を潤ませる。
 はらはらと涙を流すターニャの頭を、労わるように撫でるフレンツォ。
 その光景を呆気にとられて見つめながら、コルディオは奇妙な疎外感を感じた。幼馴染の勝手な妄想だと何時もであれば笑い飛ばして、もしくは愛想をつかして逃げを決め込む所なのに、そんな空気ですら無いのだ。
 責められる謂れは無いと思いながらも、コルディオは
「……悪かったよ」
無意識に、そう言っていた。
「……本当に、悪いと思ってんの!?」
 鼻を啜りながら、ターニャの鋭い睨みを食らう。
 実際はちっともそんな気分では無いのだが、最早是と頷く他無いだろう。
「思ってる」
 一体自分が何をしたというのか。明らかに被害者じゃないのか。そんな風に思っても、ターニャの涙には実の所コルディオも弱い。普段ちっとも弱音を吐きもしない、泣きもしない、そんなターニャだからこそ、時たま見せる涙の効果は絶大だった。
「じゃあ、どうすれば良いか分かってるわよね」
 泣き顔のまま強気な発言。もう何時も通りのターニャだ。
「……どうって」
「謝るに決まってるでしょーが!! 次にイジョールに会ったら、にっこり笑って「ごめんなさい」よ!!」
 そう言い放つと、おもむろに立ち上がって「顔洗ってくる!」と怒鳴り気味に口にしたターニャは、固まるコルディオを放置してさっさと部屋を出て行ってしまった。
「……」
”にっこり笑って”
「……」
”ごめんなさい――?”
 残されたフレンツォと曖昧に視線を交わしながら、コルディオはターニャの言葉を反芻した。
 蚊帳の外の住人のくせに、身勝手にも程がある発言だ。今更取り繕って笑顔を見せた所で、脅えられるのが目に見えている。ただでさえにっこりなんて形容しがたい笑みしか持たないのに、あの兎のように震える相手を前に笑うなんて事が出来るだろうか。
 絶対引き攣る。
 頭の中でイジョールと相対する自分を想像してみても、上手くいく気がしない。想像の中でさえ歪んだ笑顔を浮かべる自分と、今にも泣き出しそうな顔で無理矢理平静を装うイジョールしか出てこないのに、現実で成功するわけがない。
 否、そもそも何故ターニャの言を素直に飲み込んで謝罪なぞしなければならないのか。
 百歩譲って謝るのは良い。酷い言葉を投げつけた自覚はある。
 嫌な態度をされたから同じ態度を返すなんて、小さな子供と同じだ。社会人として苦手な相手だろうが嫌いな相手だろうが、にっこり笑う――のは無理でも、普通に接してみせようとは思う。コルディオの場合常に不満げに突き出た唇と何時も人を睨んでいるような三白眼で大抵失敗するのだが、それでもコルディオ側としては誰とでも上手くやろうと心がけてはいるのだ。
 だからこそ、今回の自分が大人気ないのは認める。
 それでもそういう話なら、勿論イジョール側からも謝罪はもらえるものと思いたい。
 あっちが被害者でこっちが加害者だとでも言いたげなターニャの態度にはやはり納得がいかないのだ。
 ふつふつと湧き上がってきた嚥下し切れない憤りに顔を歪めた所で、控えめな声が掛かった。
「ターニャは言い過ぎだと思うけど、」
 ふ、と顔を上げれば、困ったように苦笑するフレンツォ。
「どこかで気を使ってやって。勿論、ずっとそうしてって言ってるわけじゃないの。貴方とイジョールが気兼ねなく付き合えるのがベストなんでしょうけど……そうなる前に時間がかかるようなら、その間は妥協してもらえたらいいと願うわ」
「……はい」
 命令、と言わない所がこの上司の良い所であり甘い所だな、と感じながら、コルディオは渋々ながら頷いた。
 仲良く出来る気はしないが、努力はしよう。
 泣かせた事に少なからず罪悪感のあったコルディオは、そう決意したのだった。








2009/04/09