56 真っ直ぐ目を見て嘘を吐け。



quinto.01






 コルディオ・アウトーリが、フレンツォ・ロッティの営むリストランテ【ビアンコ】に就職してから、半年が過ぎようとしていた。シェフとしても新米な上に最年少であったから子供扱いの日々ではあったが、ここに来てやっと一人前と認められ始めた所だった。何より料理の腕はコック長のニコル・ラウロのお墨付きだ。
 けれどコルディオは、それでも【ビアンコ】で一番の下っ端だった。腕や年といった事には関係が無く、スタッフの中での立ち位置である。
 コルディオの後に二人新人が入ったが、その一人は一ヶ月で退職してしまったし、もう一人はというと、コルディオの幼馴染であるターニャ・ヴォルタであったから頭が上がらないというわけである。二つ年上のターニャは先頃【ビアンコ】のオーナー・フレンツォと電撃結婚した後、彼女の願い通りカメリエーラとして共に働く事になったのだが、何せ昔からコルディオを良い様に使って来た相手だ。女は雇わない主義のフレンツォへの口利きをさせられたし、子供の頃から「あれしろ」「これしろ」と命令されてきた。やんちゃで通ったコルディオにも負けない位のお転婆で、元来姐御肌なのであろう彼女は恐らくコルディオら下級生の面倒を見ていたつもりなのであろうが、下級生から見てみれば目の上のタンコブよろしい存在だった。
 そんな彼女相手であるから、自分のほうが先輩だとは言っても今までの経緯からとてもじゃないが後輩扱い等出来ないのが本音だ。
 だからコルディオが未だに、新人に課せられる朝清掃係を撤廃出来ないのも無理が無かった。
 元々は当番制であった開店前の清掃係は、スタッフが全て揃ってから行われるそれと違って、とても細かい。モップ清掃やクローズ後にテーブルの上に載せた椅子を戻す作業は出勤の全員で行うが、例えばライトの傘の汚れを拭いたりだとか、備品の在庫チェックだとか、机や椅子の強度を調べたりだとか、毎日やらなくても良いような内容の事を事細かにチェックして掃除する。
 生真面目なオット・ダントーニがカメリエーレ長に就任してからの習慣だったが、そのおかげでオープンから七年経った今でもリストランテの清潔感は保たれている。
 しかしして、【ビアンコ】の番犬にして問題児クラウス・ルネッリを筆頭にした面倒臭がりにとっては面倒でしか無い仕事だ。彼らはこぞって新人にその仕事を押し付け、ついには当番制を覆した。
 それでもオット等数人のスタッフは自分の出勤日には清掃係をこなしてくれるのだが、キッチンの準備もしなければならないコルディオは、毎日開店前二時間前から出勤という恐ろしく酷な生活を強いられている。

 この日もその為に人一倍早く出勤したコルディオが掃除を終えて、欠伸しながらロッカールームに入ると、最奥で着替えていたイジョール・ガブリエリと目が合った。随分早いじゃねぇか、とコルディオが呆気に取られた視線を向けていると、そのイジョールはぱっと目線を逸らした。悪い事を母親にでも見つかった子供のような態度だった。
 一気に気まずい雰囲気が生まれると、コルディオも不機嫌な声を隠しもせずに
「……おはよーございます」
 乱暴な足取りで荷物をソファに投げつけると、イジョールが身を竦ませる。
「あ、すんません」
「いや……ごめん、おはよぅ……」
 言葉尻は消え入りそうになりながらイジョールに挨拶を返されたコルディオが、更に眉間の皺を深めた。
 そわそわと落ち着かない仕草でボタンを掛けようとしている女のように細い彼の指を凝視する。何を慌てているのか、そんな調子だから思うように着替えが進まない様子だ。
 イジョールは明らかに、怯えていた。
 小動物のように身を縮ませて、一体何をそんなに怖がっているのだろうか。
 コルディオは大きく舌打ちを漏らすと、備え付けられたシャワールームへ足を向ける。汗でべとついた身体のままキッチンに立つわけには行かないとはいえ、何時もより早々とした行動だった。普段なら一、二杯の水分を飲み干して一息つくところだったが、その空間がとてつもなく居心地が悪かったのだ。
 イジョールが何に怯えているのか、それはもうこの半年で嫌と言う程分った。人嫌いなんて言葉でフレンツォには宥めすかされたが、そんな言葉で言い繕えない程、コルディオに対して酷く距離を取る。その距離を縮める努力すら見せない。半年一緒に働いていて、目を合わせた回数すら数える程度だ。
 オープンから居るイジョールらスタッフは、ほとんどがフレンツォの昔からの知人友人である。それぞれワケ有な人材だというのは聞いているし、それ以上に詮索する気は毛頭無いが、イジョールの態度だけはどうしても気に食わない。自分の目つきが悪い事は承知しているが、だからといって実際に何かしたわけでも無いというのに、事ある毎に避けられて怯えられる状況を短気者のコルディオに許容出来る筈も無かった。
 接客中のイジョールは完璧な仕事と時々は笑顔を見せているし、仲間ともそれなりに打ち解けているように見える。ターニャの性格が大きく関係しているのだろうが、彼女とは良く夕飯を一緒にしていると聞く。
 ターニャいわく、いじめっ子といじめられっ子だ。
 コルディオもその喩えにはとても納得がいっていたし、彼の行動も態度も何もかもが気に障る程であったから、距離を詰める気など最早失せていた。
 それでも目に映る範囲に存在すれば苛立つのだから、コルディオに出来る事と言えば彼が目に入らない位置へ自らが移動する事くらいだった。
 シャワールームの扉を閉めて、コルディオはもう一度不機嫌に舌打ちする。
(何で俺が気を使わなきゃなんねんだよっ)
 ただでさえ寝不足でイラついてんのに、とはただの八つ当たりであったが、毒づいて見ても心中の不快感は消えない。手近なゴミ箱でも蹴り倒して当り散らしたいと思いながらも、その音に更に怯えるであろう相手が壁一枚向こうに居る事を考えて何とか踏み止まる。
(大体俺だって人付き合いなんて得意じゃねぇっつーんだよっ!)
 何とか怒りを逃がそうと自分の金色の短髪を混ぜくりかえす。
 いかにも小心者です、と言いたげな不安そうなイジョールの顔が思い出される。子供の頃は病弱だったという貧相な体付きの男は、カメリエーレの黒いシャツとパンツを履くとすらりとした長身が逆に見栄えする。繊細な顔立ちと体躯には、男勝りなターニャさえ母性本能を抱かせるというのだが、コルディオに言わせれば甘えているに他ならない。
 だからと言って「コルディオが怖いの?仕方ないわね。あいつ目つき悪いから」なんて言われる程自分が悪いとは、とても思えないのだ。
 大体にしてコルディオの人相が悪いのはコルディオの所為では無いし、目つき以外に人柄を不穏に見せる眉毛から瞼に掛けた縫い傷は、少年時代にターニャに連れ回されていた頃の不慮の事故での怪我である。原因が自分であった事なんて既に忘れ去っているのか、「喧嘩ばっかしてたからそんな風にしか見えないのよ」と責任転換の態だ。
 喧嘩ばかりと言われても、それすらコルディオに責任があったかと言えば否だ。学生時代のコルディオはただ立っているだけで「何か文句があんのかよ」と絡まれ、その喧嘩を買っただけの事なのだ。
 何より人相が悪い、粗暴であるという事が原因であそこまで怖がられているのだというのなら、クラウスはどうなんだという話になる。彼は裏の世界では名を馳せた根っからの狂犬である。あれと親しく出来るのなら、今更コルディオの何に恐れる必要があるのか。
 イジョールの笑わない、白い面を思い出す。
「――くそったれ」
激情を吐き出して、コルディオは今度こそ作業に戻った。



 コルディオが長いシャワーから出ると、ロッカールームが俄かに騒がしくなっていた。高い女独特の声が笑っている。
(ターニャが来たのか……)
 このリストランテの唯一の紅一点は勝気で無駄に威勢が良い女だったが、彼女が入った事でリストランテの雰囲気は穏やかになった。元々オーナー・フレンツォの元統率のとれた環境とスタッフではあったが、ムードメーカーである彼女の周りでは何時も笑いが絶えない。犬猿の仲であるクラウスとオットの仲裁も上手くこなすし、性格に難の多いスタッフとも気軽く接していて、そしてやはり女性らしい気遣いもある。
 コルディオ自身はターニャと同じ職場という状況は眉根を顰める程度に歓迎出来ない事態ではあったが、助けられる事もまた多々あった。
 彼女はスタッフに囲まれて身振り手振りで話をしているが、コルディオが髪を拭きながらやって来ると、元気に声を掛けて来た。
「おはよ、コルディオ」
「お、コルディオ、居たのか」
「はよー」
「よーす」
 彼女に続いて振り返ったスタッフにも挨拶されて、コルディオも
「はよーございます」
と返す。今日の出勤者はクラウスを覗き全員が既に来ているようだった。何時もは遅刻ギリギリに集まっていた輩まで、まだ三十分前だというのに着替えを終えている。
(これもターニャ効果だろうか……)
 何時かニコルが「ターニャが来て野郎共張り切ってンなぁ」と笑っていたのを思い出す。その場に居た騒々しさを嫌うオットですら「持続してくれれば文句は無い」――こうなのだ。
「あんた、相変わらず早起きねぇ」
「お前もちっとは手伝えや」
からかいを含むターニャの言動に不機嫌に唸れば、そこで一笑が湧き上がる。一緒になって気分良く笑っていると、一人輪から外れていたオットに
「コルディオ、髪乾かしてから出ろ。床が濡れている」
そう指摘されて始めて、オットの存在を思い出した。彼はコルディオが出勤した時間には既に居て、オーナールームでフレンツォと仕事の話をしていた様子だった。
「すいません」
慌てて謝って、否応無しにコルディオは輪から外れる。
 そんなコルディオに気付かずに、彼女達は話に盛り上がっている。
「早く来たいところなんだけど、ホラ、新婚じゃない? フレンツォが離してくれなくて」
「ちきしょうっ独り者の前でやめてくれっ! そーいうの!!」
「ゴチソウ様です」
 ノロケ話に悲鳴が上がるが、温和な顔立ちのジーノ・デ・シーカは一人、目元を綻ばせて笑った。
(っていうか、オーナーは俺より早く来てたっつーの)
心中で突っ込みながら、オットの鋭い視線から逃げるように、コルディオはまたシャワールームへ戻ろうと身を翻す。とりあえず髪を乾かしてから床を拭こうと考えたその耳が、静かな笑い声を捉えた。吐息のように微かな、けれど暖かな陽気の様に朗らかなその声は――。
 思わず振り返ったコルディオが、三白眼を見開いた。
 視線の先では、輪の中でひっそりと存在するかのような青年が、まごう事無い笑みを浮かべていた。繊細な作りの顔はどこか笑い方を知らない人形の様にも見えたが、控えめに白い歯を覗かせて、ターニャに微笑み掛けている。
「コルディオ」
 しかし呆気に取られていたコルディオを、極寒を思わせる冷たい声が現実に引き戻した。声の主である、眼鏡を押し上げたオットの神経質そうな細い眉毛が、目一杯寄せられている。
「すんません!」
 敬礼でもしでかしそうな勢いで言って、コルディオは急いで部屋を出る。後ろ手にドアを閉めて、詰めていた息を吐き出す。
 これから仕事だというのに既に疲れ切った様子だ。そのまま動き出す力も無く閉じたドアに寄り掛かって、ふ、と思う。
(あいつ、笑えんだな……)
 当たり前だよな、とおかしな感想を浮かべた自分を一笑して、前髪を垂れていく雫を何故だかじっと見つめていた――。






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2008/09/06