19 帰れ。



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6


 ニコルが閉店までの勤務を終え自宅に帰り着くと、アパートの部屋のドアに仏頂面のアーノンの姿があった。ニコルの予想通り、真っ直ぐフレンツォの家に帰る気は無かったのだろう。どこかで酒でも煽っていたのだろう、仄かに頬を染めてはいるが、酔っている様子は無い。うらぶれた酔っ払いのように飲みかけの酒の瓶を手に、ニコルの帰宅を確認するとそれをぐびりと飲みながら少しだけ身体をずらした。
 開けろ、という無言の圧力を受けて、ニコルはため息をつきながらも素直に鍵を開けた。
 ニコルに続いて、アーノンも室内に侵入を果たす。玄関先に荷物を置いて電気のスイッチを押すニコルの脇をすり抜けて、酒瓶を口にしながらアーノンはさっさと上がり込む。
 大抵家で何か問題が起こると、アーノンはニコルの家に逃げ込む。それなりに広い交友関係を持つアーノンだが、そういった時に気軽く訪ねられる場所が他には無いのだろう。ニコルであれば煩わしい事を聞くことも無ければ、意気揚々相談に乗ろうともしない。ただ同じ部屋にいるだけ、アーノンが愚痴れば相槌を打つ程度の、都合の良い相手ということだ。
 アーノンの避難場所がニコルのアパートだと知っているフレンツォの屋敷の住人は、だからアーノンが無断外泊をしようと、それは男の所かニコルの所だと知れている話。
 それぐらい頻繁の話であったから、ニコルとしてもアーノンの突然の訪問もどうという事もない。
 飲み干した酒瓶を床に放り投げベッドにダイブするアーノンを呆れ顔で見つめた後、脱いだ上着をソファの背凭れにかけ、まるで玄関先で迎え入れた夫の鞄を受け取る妻のように、かいがいしく放り投げられた酒瓶の始末に走る。
「……」
 そんなニコルの様子を、アーノンは横目で見つめていた。
「寝るんなら、シャワー浴びるか、せめて着替えるくらいしてくれ。酒臭くて仕方無い」
突き刺さる視線を頬に感じながら、ニコルは別段普段の調子を崩さない。主の寝床に無遠慮に潜り込む客人も、何時も通り過ぎて咎める意味も無い。
 起き上がる気配の無いアーノンに大きなため息を吐き出しながら、ニコルは寝室のクローゼットから常備しているアーノンの寝巻きを用意してやる。スウェット地のネイビーの上下をわざとアーノンの顔に投げつけてやれば、アーノンは唸りながらものろのろと上半身を起こした。
 シャワーを浴びるつもりが無い事は、億劫そうな行動で見て取れる。
 着ていたジャケット、シャツ、ズボンを脱いで無造作に床に放られるそれを、これまた無言で拾い上げながら、ニコルはパンツ一枚になってから寝巻きに着替えるアーノンをなんとはなしに見つめた。
 見慣れた肢体にどれだけの魅力があるのかニコルには分からない。確かに男にしては扇情的なラインを持つ体つきだが、どうみても男のそれである。それとも抱き心地は違うのだろうか――最近ヴィエリとアーノンの関係に悩まされているニコルは、そんな事を考えた自分を苦く笑った。
 ヴィエリの執着するアーノンの身体を眺め倒した所で、彼の事情までは理解し得ないと悟ったからだ。
 
 昼間の騒動が普段と一風変っていたからといって、ニコルは特別態度を変えない。
 アーノンはそれに安堵しつつも、焦れているようだった。ニコルに向けられた視線には、何故事情を聞いてこないのだ、という責めるような感情が含まれている。
 アーノンの脱ぎ散らかした服を自分の服と一緒に洗濯機にかけてから、夜食を作りにキッチンに引っ込めば、アーノンはそれについて来るようにしてベッドから這い出した。散々飲んだだろうに冷蔵庫から缶ビールを取り出し、ソファーに寄りかかってちびちびとやり出す。
 まるで何かに拗ねた子供のような態度だな、とニコルは思った。
 夜食と言ってもレンジでチンする程度の冷凍ピザを持ってニコルが対面に座ると、アーノンは眉間の皺を不機嫌とは違う意味で寄せる。
「……またそんなに食うのか」
 大喰らいのニコルにとっては朝食だろうが夜食だろうが二人前、三人前は当たり前で、今も四切れセットになっている冷凍ピザを二枚分持ってきていた。ピザを食べ終われば作り置いて火にかけているシチューとフランスパンを食べるつもりでいる。
 何時もアーノンに呆れられるニコルだったが、ニコルにしてはサラダだけで一食を済ませてしまえるアーノンの方が疑問だった。
 だから今にも倒れそうな痩躯なのだ――アーノンの身体をガリガリと評すのはニコルぐらいのもので、彼の体つきは標準ではあった――と、細い体躯を密かにコンプレックスに思っているアーノンを見ながら思っても、聡いニコルはけして口には出さない。言えば鉄拳が返ってくるのは、分かっているのだ。
 だからこそ、
「ほっとけ」
の一言で留める。
 そんな何時も通りの空気に先に音を上げたのは、アーノンだった。
「……今日、店どうだったよ?」
「あぁ?」
 ピザを一切れ丸々口に放り込みながら、ニコルは努めて知らぬ振りを通す。
「……だから、店。何か問題あったか?」
「いや、別に? 問題なんて、ないない。何時も通り」
「……フロアも?」
「そっちは、俺の、管轄外だから、知んね」
 咀嚼途中であるせいで途切れ途切れになるニコルの言葉を、アーノンは苛立ち気に待っていた。しかし自身の求める応えがある筈もなく、結局は自分から核心に触れる事になる。
「……ルーカは?」
 気になるのなら本人に直接メールでもすればすんなり答えが返ってくるだろうに、そこは意地なのか、悪いと思っても謝る術を取らないのがアーノンである。
「ああ、すぐに冷やしたのがよかったんだろな。今日はずっと倉庫の整理してたが、特に腫れてる様子もない。明日は普通に仕事出来るだろ。帰りは元気に笑って帰ってた」
 口の中のものを飲み込んでから言ってやれば、アーノンは目に見えて安心した表情を浮かべ、それからはっとしてニコルを睨んできた。
「やっぱり全部知ってるんじゃねぇか!」
「知らねぇとは言ってねぇし」
 カマをかけるから悪いのだ。素直に聞いてくれば、ニコルとて全て隠す事無く教えた。店の状況も、オットの思惑も、全て。
 それに知らん顔をせずこちらから騒動の原因を尋ねても、天邪鬼なアーノンが素直に口を開かない事は十二分に分かっていた。
「後悔すんなら、最初から殴ってやるなよ」
「……あれは、あいつが悪い。殴られても仕方無い」
「ふぅん?」
わざと気のない相槌を打てば、アーノンは苛立たしげに頭を掻く。
「大体、理性で拳が止まるなら苦労してねぇよ」
 アーノンは普段から異様に手が早い。狂犬とあだ名されるクラウス程どうでもいい理由で暴れ回る事は無いが、それでもアーノンのそういった武勇伝は数え上げたらキリがない。職場でも休憩中の語らいの中で、アーノンが手を上げる事もしばしある。大抵どうでもいい内容であり、それこそ力の加減はされているが、だからこそ傍若無人といわしめる。
 ソムリエの仮面を被っている時であれば理性でとどめる事が出来るくせに、そこを離れてしまえば感情に歯止めがきかない。頭がいい青年なので結果は想像出来よう筈が、脳の指示より先に身体や口が出てしまう性質なのだ。それはもう、短気者の性としか言いようが無い。
「したって、ルーカには慣れっこだろ? あれがお前の気に障らない事の方が珍しい」
 一卵性の双子であるからどこまでもそっくりな二人だが、それはあくまで見た目だけにとどまる。対照的な性格の二人は、浮かべる表情や行動一つ一つでまるっきり別個の存在になる。双子でもなければ犬猿の仲のオットとクラウス張りに相容れない二人、それがアーノンとルーカだ。
 ルーカの言動行動は同情しきれないものも多々あるけれど、それに苛立つアーノンと理不尽に怒鳴られながらへらへら笑っているルーカの姿は馴染み深い。
 まあそんな二人でも結局仲が良い事は分かっているから、仲間内の誰もそんな二人のやり取りを気にしもしないのだが。
 今日の騒動が普段の比にもならないというのは、その場に居なかったニコルにも、アーノンの処遇から推測くらいは出来る。
 アーノンは肯定なのか否定なのか、唸りながら顔を顰めて、
「……昨日の夜、携帯にヴィエリから電話があった」
吐き捨てるような口調で、静かに言った。
「俺はあいつに番号教えてない。聞いたら、ルーカに教えてもらったっつーんだ。すぐに着拒したけど、なんか腹ぁ立って、」
 アーノンのストレスの原因、ヴィエリ。その彼とアーノンに過去何があったのか、アーノンがどれ程ヴィエリを毛嫌いしているか、何よりも知っている筈のルーカだった。しかしそのルーカはアーノンとヴィエリの間に立つだとか、アーノンからヴィエリを遠ざけるだとか、そういったフォローを全くしない。アーノンの不機嫌など気にせず、何時も通り。
 ルーカが何を考えているのか、アーノンにもニコルにもさっぱり分からない。
 けれど、殴られても仕方が無い事かもしれない、とはニコルも思った。勿論理不尽には違いないだろうが。
「プライバシーの侵害だとか、そういう常識の話をしてんじゃねぇんだ。相手がヴィエリで、俺がヴィエリをどう思っているか知っているくせして? 他の奴だったら殴ったかもしんねぇけど、ここまで腹立たねぇよ」
 素直に騒動の原因を暴露して、アーノンは舌打ちした後缶ビールを更に煽る。
 そこからは沈黙してビールを飲み続けるアーノンに、ニコルも止めていた食事を再開した。
 逡巡したものの、結局ニコルには何も言えないのだ。元来口が達者なわけでもなく、巧い慰め文句も出てこない。
 ルーカの無邪気な笑顔が、脳裏に浮かぶ。彼のことだから何の思惑も無く、聞かれたから答えたまで、でアーノンの携帯番号をヴィエリに教えたのだろう事が分かるから、遣る瀬無い。
 悪意があるそれなら罵倒して気の済むまで殴って、それまでだが、ルーカは恐らくなぜ殴られたのかも把握していないだろう。ただ、何時に無くアーノンの怒りに触れた、という位は、分かっていたとしても。
 どちらにせよ、お互いが謝罪をしてみた所で、何の解決にもならない。
 オットはヴィエリとの話に決着をつけない限り、アーノンを店に戻す気はないのだ。
 そしてアーノンは復職の条件がそれだとしても、けして自分からヴィエリに接触を図ろうとはしないだろう。
 ただなし崩し的に巻き込まれただけのニコルだが、問題の解決が自身の双肩にかかっていることを何となく理解した。



 アーノンはそれから数日ニコルのアパートに入り浸ったが、程なくして日常を取り戻したようだった。相変らず自分たちの家に帰っている様子はなかったが、友人と遊びに出かけたり、その手のバーで男漁りをしていた、などという話を聞いた。
 ヴィエリからの接触があるのかどうかは、ニコルには分からない。
 ただ問題解決に動き出したニコルは、休日にヴィエリを呼び出し、昼食を取る約束をしていた。
 何時かのオフィス街のレストランに、またしても普段着で訪れたニコルは目立ったが、個室に入ってしまえば好奇の視線は遮断される。
 あの日とは異なり、今度こそ遠慮なくオーダーを告げるニコルにヴィエリは驚嘆してみせたが、ニコルの表情は複雑そうに歪んだままだ。
「それで、」
 幾つか話題を振ってみるものの、上の空の返事しか返さないニコルに、ヴィエリは苦笑しながらフォークを置いた。
「私に用、というのは何かな?」
「…………アーノンの事で」
「そうだろうね」
 皿の上の料理を欠片一つ残さず平らげ、洗練された所作でワイングラスに口をつけるヴィエリは、どこからどう見てもセレブの風格がある。フレンツォならいざ知らず、ニコルやアーノンが出逢うべくもない人種だ。
 何時かアーノンが口にしたように、アーノンに執着しなくとも、欲しいものを意のままに手に入れらるであろう。
「アーノンの事は、諦めて欲しい」
 だからこそニコルは、素直にそう言った。アーノンじゃなくても、あんたなら何でも手に入るだろう。言外にそう告げれば、ヴィエリは苦笑。
「欲しいのは、アーノンだけだ」
 けれどヴィエリは、ニコルが苛立たしげに睨み据えると、降参したように両手を上げた。
「分かってる。すまない」
 それが何に対しての謝罪なのか、ニコルには分からない。自嘲するヴィエリの口元にはただ、年相応の皺を見つける事が出来るだけだ。
 ヴィエリは深く息を吐き出すと、遠くを見るように、ニコルの背後に視線を向ける。
「諦める、というのは正しくないけれど、私はアーノンからは手を引くよ。ただ散らかった場だけは、収めさせて欲しい」
「……どういう事だ?」
「ラシード、という人物を、君は知っているだろうか?」
 質問に質問で返され、ニコルは一瞬顔を顰めたものの、すぐに首を振って応えた。一々ヴィエリの態度に反応していては、アーノンの二の舞だ。話が進まないのはわかり切っている。
 ヴィエリはそうか、と相槌を打つと、ゆるりと話始める。
「アーノンがファミリーから抜けた後、ハバロファミリーを継いだ男だ。今ではラシードファミリーと言った方が良いだろうがね。既にマフィアとしてより企業として成り立って長い。私の会社も取引をさせてもらっているが、トップとしての質は遥かに及ばぬ男でね。彼は、アーノンの恋人だった。
 本人達はどういうつもりだか知らないが、まあ周りは当然恋人だと思っていた。けれどアーノンに男娼を強要していた上司でもあったから――その関係は、何とも形容しがたい。
 私も詳しくは知らないが、アーノンがファミリーを抜ける間際、対立する組織と抗争が起こった。大きな騒ぎになる前に相手の組織が瓦解したんだが、そこにあの双子も巻き込まれたと聞くよ。そしてラシードはアーノンの為に片腕を失ったとも聞く。
その男が雑誌でアーノンを見つけてきて、私に言ったんだよ。アーノンとの問題にケリがついてない、と」
「……それは、どういう?」
「二人の間に何があったのか、私には分からない。ただアーノンの中で、当時の事が消化されていない事だけは分かっている。私はアーノンと彼との橋渡しの為に、ここに来た」
 言いながら紙ナプキンにペンを走らせるヴィエリを、ニコルは訝しげに見つめていた。
 ここ一ヶ月近く、ヴィエリがしてきた事は彼の目的に添う事とはとても思えなかった。
 そしてヴィエリもヴィエリだが、そのラシードという男も、今更何に蹴りをつけるというのだろう。
 ヴィエリに差し出された紙ナプキンを受け取ると、そこには携帯の番号と思しき数字が羅列していた。
「ラシードの番号だ。近いうち、アーノンに電話をかけるよう言ってくれ。私の役目は、それで終わる」
 疲れたような声音には、諦めの色ばかりが滲んでいる。
 展開についていけず、ニコルの眉根が寄ると、ヴィエリは小さく笑った。
「アーノンを手に入れたかったのは本当だ。だけど、その幸せを願っているのも、本当なんだ」






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2011/03/06