20 触ったら十万取るから。



primo.01







 その男と再会したのは、ある晴れた休日。澄み切った冬の空は、思わず手を伸ばしたくなる程綺麗だった。

 リストランテ【ビアンコ】の定休日である水曜日、週に一度のそれをアーノンはそれなりに楽しみにしていた。何か特別する事があるわけでは無いのだけれど、忙しない日々の中で唯一ぼうっとする時間が取れる日だ。それこそ一日中惰眠を貪るだけでも、休日を楽しめる。
 ただしその日はあまりに空が綺麗で、そんな日を一日中家の中で過ごすには憚られた。久し振りに買い物でもするか、と思い立って、隣町のモールへ向かう事にした。
 家から駅へ向かう、表通りの道での事だった。
「よお、アーノン」
と脇から声を掛けられて、思わず目を見開いたのは相手の続けた
「久し振りだな」
という言葉にちっとも賛同が出来なかったからだ。
 そもそも相手の顔に全く見覚えが無い。年頃もアーノンの倍はありそうだったし、見た感じ何処にでもいるおっさんだった。
 久し振りだと言うからには過去の知り合いなのだろうかと記憶を探ったが、顔も名前も記憶の中のそれたちと一致しない。
「相変わらずそっけないね、覚えてないんだろ」
「えーと、ごめん……」
 気にした風も無く笑われて、むしろアーノンの方が申し訳なく思ったくらいだ。
「そういう所は変わったな。昔はえらく態度も悪かったのに」
 ”態度の悪かった昔。”
 その言葉に少し違和感を持った。アーノンにしてみれば成長したなとは思っても、昔も今もそう大差ない。ただフレンツォやクラウス、それからルーカなどが昔といって今のアーノンを比較する時、決まってこの男と同じような事を言う。「昔のお前はいけ好かないガキだった」「ギスギスしてた」「態度が悪かった」「尖って擦れたガキ」「こらえ性が無い」「短気」。学校に通い出した頃まで、確かに自分は子供だった自覚がある。今はソムリエという仕事に誇りを持っているし、自分の行動がそれに似合っているかどうかを何時も考えている。それに昔は苦手だった表向きの顔を作るのも、最近ではどうって事ない。
 ――つまりは、それ以前の知り合いだという事だ。
「ヴィエリの名前にも覚えが無いんだろ?」
 男の名前らしいそれを聞いても、首を傾げるしか出来なかった。
「俺はしっかり覚えてるってのに」
「ごめん」
 もう謝るしか無くって肩を竦める。不躾な程にヴィエリを観察してみるが、今に至るまでに知り合った人間のあまりの多さに記憶力には自信のあるアーノンも形無しだった。
 そんなアーノンの様子に、ヴィエリの方は面白そうに笑顔を浮かべるのみだ。陽気なイタリア人と形容されるままの笑顔は、男の褐色の肌に良く映える白い歯を剥き出しにする。
「じゃあヒントをやる。これで思い出してくれると良いんだがな?」
「努力する」
「はは」
思い出せるとは言い切れないのでそう答えると、ヴィエリは声を上げた。
「思い出すと思うぜ?」
 そうして続いた言葉は、アーノンの脳に、鈍器で殴られたような衝撃を与えた。
「ファミリー、バーテン、お前の客」
 区切りをつけて、殊更ゆっくりと紡がれたそれ。
 瞬間記憶がフラッシュバックする。
 それはフレンツォに見出される前。まっとうな生き方なんて想像も出来なかった頃。ソムリエなんて職業に興味も無ければ知りもしなかった時代。
 ただその日を生きるのに精一杯だった子供。この容姿だけを武器に男娼として、マフィアの末端に位置していた――過去。
 その頃の客に、確かに、馴染みのバーのバーテンダーが居た。
 名前なんて覚えている筈が無い。聞いた覚えすら無いのだから。聞いたとしてもすぐに忘れ去りたい、鼻持ちならない客だったのだ。
 アーノンは別に、男娼だった時代を過ちだとは思っていない。あの頃は若かったと苦く思う事はあっても、誰彼憚らず「男娼でした」と居える程だ。世間一般で汚いと言われる仕事でも、アーノンが生きる為に選んだ選択肢なのだ。消したいなんて思わない、今の自分を形成する大切な過去だ。
 だけどヴィエリの事は、どちらかと言うと消し去りたい。あの頃一番何より嫌悪していた、どんなに高く買われようと拒絶していた相手だった。上司の命令で渋々相手をした事が二回程あったけれど、それ以外は全く取り合わなかった。
 その頃のヴィエリは働き者で、少し女にだらしが無いのが玉に傷な、何処にでもいるような普通の好青年だった。アーノンの様な子供を買うちょっと頂けない嗜好を持っていたが、それなりに見目も良い普通にもてるタイプの青年――けれどアーノンにとっては、ただひたすらに、生理的に、受け入れ難い種の男だったのだ。変な性癖も無ければ、セックスだって至って健全で何も無い。ただその普通である男が酷く自信満々に生きているのが苛立たしかった。その目が、手が、声が、自分に触れるのが何にも堪え難かった。
 そんな風に、毛嫌いしていたヴィエリ。
 ファミリーからは当に抜け、あれからもう十年は経っている。
 フレンツォの元でソムリエとして新たな道を歩んでいる今になって、何故。
「――何しにここへ?」
 無意識に口調は刺々しくなる。
 ヴィエリの故郷から遠く離れたこの街に、何の用があるのか。
 驚くでもなく、まるで旧友に会いにでも来たかのような気軽さで話しかけてきたヴィエリは、アーノンがこの街に居るのを知っていたに違いない。
 この男が見たとは到底思えないが、料理雑誌や若者向けの女性誌に『評判の料理店』『イケメンスタッフ大集合』だとかと紹介された折、何枚か写真が掲載された事もある。そういった情報を得て、迷惑な事にアーノンに会いに来たのだろう。
 ヴィエリの執念を思うと、背筋に嫌な汗が流れる。
 アーノンの想像を肯定するように、ヴィエリが満面の笑みで言う。
「当然、お前に会いに来たんだ。つれない事言うなよ」
 懐かしいなぁともう一度言って、アーノンの肩を組もうと手が伸びてきた。
「ちょ、触るなよっ」
 しかめっ面でヴィエリの手を叩き落とすが、彼は気にした風も無い。
 逃げる者を追うのが好きらしい、という事を昔の記憶を探って思い出す。散々態度で拒絶して居たのに、当時そうすればそうする程ヴィエリの関心を引いてしまっていた。
「しかし、益々綺麗になってまあ……」
「それが何」
「あっちの具合も期待出来そうだな」
 爽やかな笑顔を浮かべてなんて事を口にするんだ、と、アーノンの額に浮かんだ青筋が嫌悪のままに増えた。
「言っとくけど、俺、ウリは止めたの」
「知ってるさ。リストランテの人気ソムリエさん?」
「だからあんたに付き合う理由なんてこれっぽっちも無いわけ」
 前を遮るヴィエリの肩を押して、強引に先に進もうとするが、意外なことに彼の体は微動だにしなかった。
 両手を大きく広げて、通せんぼするヴィエリを少しだけ不思議そうに見上げる。
 アーノン自身けして逞しい部類には入らないが、ヴィエリに力で押し負ける程体格差があるとも思えない。嫌々ながら触れた感触を思い出しても、別に筋肉質という感じでは無かった。
「仕事で二、三ヶ月滞在予定なんだ。その間、ま、気長に誘う事にするよ」
「ちょ、マジでふざけないで」
「ふざけてない。俺はね、欲しいものは全部手に入れる」
 微笑む瞳だけは真剣な色。
「十年間、お前だけは忘れられなかった」
 ルーカだったら感動に涙でも流しているような台詞なのだろうが――アーノンにとってはちっとも嬉しい事が無かった。
 目一杯顔を顰めて、大きく溜息をつく。
「冗談。俺はあんたが本当に嫌い。顔も見たくない」
「だからこそ手折り甲斐があるってもんだろ」
 どんなにアーノンが悪辣に接しても、ヴィエリの表情は変わらない。また伸びてきた手が頬を掠めてアーノンの長い銀髪を一房掴む。ぎょっと目を見開いたアーノンの前で、ヴィエリは自然な動作でその髪に唇を寄せた。
「っ触るな!!」
 鳥肌を立てながらアーノンが拳を振るが、ヴィエリは予想の範疇と背後に飛び退る事でそれを避けて。
「……今度触ったら、十万取るから」
「十万でいいのか?」
 楽しそうに笑うヴィエリに、アーノンは唇を噛む。
 成り立たない会話が恨めしい。
「そう睨むなよ。今日は挨拶に来ただけだ」
「……」
「また、な。次は店に会いに行くよ」
「っ来るなっ!!」
 手を振って踵を返したヴィエリの背中に、アーノンは叫ぶが、負けた気がしてならなかった。

 せっかくの休日は、最悪な日となった――。








2009/01/23