51 人を裁けるのは事実だけ。



aperitivo.03




3



 クラウスにとって、相変わらずロッティ家と関わる夏以外は、全てが殺伐としていた。
 昔よりはよっぽど打ち込むようになった勉学も、学校に通うのには慣れなかった。教室に居場所は無かったし、群れようとも思わなかった。最早孤独こそがクラウスにとっての安息であったから、学校へ行ってすることと言えば、図書室に入り浸って好き勝手に本を漁るくらいだった。教室で授業を受けなくても登校すれば出席扱い。ラピスラズリの恩恵で、教科書を一度流し読めば理解出来たから、テストは受ければほとんど満点だ。だから何事も無く進級した。
 その他にする事と言えば、馬鹿の一つ覚えみたいに喧嘩を売ってくる相手を、狂犬の性のまま打ちのめす事。それでも手加減を覚えたのは、ロッティ家三兄弟の教えの賜物であったのだが――そんな事は所詮、相手には関係の無い事で。
 街の中でのクラウスの評価は相も変わらないものだった。
 それで本人もちっとも構わなかった。
 意味も無く暴れる事がなくなった所で、クラウスは結局乱暴もので喧嘩っぱやく、目つきも態度も口も悪いクソ餓鬼だった。周りの大人に何の期待も出来ず、噛み付いてばかりだった。
 ひとたび拳を振るってしまえば、そこに感じるのは喜びだけだった。
 狂気に流されるまま、血を見るのが確かに好きだった。
 ――だからこそ、狂犬と呼ばれる事に何の躊躇いもなかった。
 朝起きて、寒々とした家を出て、学校に通い、帰り着き、食事をして、寝て――概ねそうやって、何も変わらない日々を過ごして。
 母親とは相変わらず顔を合わせる事も少ない、合わせた所で会話も無い、形だけの関係が続いて。
 夏の季節だけを、心なしか楽しみに。

 そうやって続いていく筈の毎日が変わったのは、クラウスの家庭に一人の男が入り込んでからだった。

 母親の年下の恋人は、札付きの悪だった。どこかのマフィアの子飼いだったとか、殺人の一つや二つ犯しているとか、傷害事件は数多だとか、兎に角悪い噂に絶えず、クラウスの未来図のような男だった。
 どうしてそんな男を好き好むのか、と陰口を叩かれた母親は、別段男を好いた風でもなかった。男運が悪いとか以前に、自分にそんな男しか寄り付かないのを良く知っている女だったし、好いた惚れたなんて鼻で笑うような性格だ。愛だ恋だで男を受け入れているので無い事は、クラウスには分かった。
 母親も単調な毎日に飽いていたのだろう、ただ単に、一つの刺激として男を受けれているだけだった。
 男は当然のように仕事なんてせず、母親の金にたかって昼間から酒を飲んでいるような、いわゆるヒモ状態だった。
 寒さがこたえるようになると、家から一歩も出ず、学校帰りのクラウスに「酒を買って来い」と怒鳴るような事が間々あった。
 大抵は母親が自分の店から酒を持ち帰るのだが、男がうわばみだったからか、あるいは友人を交えて酒盛りをしていた影響か、酒が良く切れて男はクラウスばりに暴れた。
 クラウスに向けられる暴力もあった。そしてそれはそのまま、男に返った。
 容赦を知らない二人の身体は、何時も傷だらけ。ぶつかり合えば物騒な喧騒を生み出す二人に、ほとんど無関心であった近隣からの苦情も増えているような有様だった。
 家の中は始終泥棒にでも入られたかのような荒れ様で、二人がどれだけ傷だらけになろうとも感知しなかった母親も、次第に機嫌を悪くしていった。
 三人で顔を合わす事は少ない。母親と男が居る時は二人で部屋に篭って情事に耽っていたから、その間はクラウスにとって至福とも言える時間があった。ヘッドフォンで薄い壁一枚向こうの世界を遮断して、音楽を聴くなりテレビを見るなり、有意義に時間を過ごす事が出来る。
 けれど疲れて帰り着く度に家の中が荒れ狂っているような状態を長く目を瞑れる母親では無く、男と喧嘩するような場面も増えた。クラウスを追い出せるのであれば問題は容易に解決する、と恐らく母親も男も考えていただろう。
 商売が繁盛している今となっては、母親の稼ぎだけで十分とも言えた。
 けれど母親にとってラピスラズリの恩恵は捨て去るには惜しいものであったのも事実。
 商売などというのは何時どう転ぶか分からないものだ。一生安泰である筈も無い。
 だからこそ母親が縁を切ろうとしたのは、クラウスでは無く男の方だった。
 男の有する刺激に飽きたという事もあったのだろう。
 一年弱の期間で破綻しかけた母親と男の関係が悪化の一途を辿っている事を、クラウスも薄々と気付いてはいた。
 だがそれが自分に何の関係があるだろう。
 日毎夜毎悪辣になっていく二人をただ、傍観しているだけだった。
 母親が「出て行け」と叫び、男が「嫌だ」と紡ぐ。時には癇癪的に母親が叫び、皿やコップを割るような騒音が響き、男が怒鳴り、母親を殴る。そうかと思えば甘い猫撫で声で男に擦り寄る母親がおり、寝室に母親を引き込んで何時間も出て来ない日がある。

 そんなどっちつかずの二人に、クラウスはとうに匙を投げていた。

 その日は、一際寒かった。高い空に吹き上がるように木枯らしが舞い、むき出しの手は凍るように冷たかった。
 吐き出す息が白い塊となり、中空に浮遊して溶ける。
 ビュウと風が吹くたび、クラウスは解れの酷い厚手のコートの胸を掻き抱いた。ゴミ捨て場から拾ってきたそのコートは、クラウスの背には丈が長い。大人物を羽織っているので見る者には不恰好にしか映らない。けれど本人にしてみれば冷気が凌げれば文句は無いのである。
 元々服装に無頓着ではあったけれど、今までは母親が適当に買ってだが拾ってきたものを着てきた。けれど母親の店が繁盛してからは自分で買えと、お金を渡されるだけである。しかしクラウスがいざ買い物を、と店にでも入れば、店員も客もあからさまに顔を顰めた。「お前に売る物は無い」と、悪し様に言われた事もあった。そうなればご期待に添って、クラウスは暴れた。若い店員の顎を割った事もあれば、ショーウィンドウに皹が入るまで攻撃した事もあった。
 辿り着いたアパートメントの階段を、二段抜かしで上る。白いペンキが剥がれた錆び色の階段は、カンカンと耳障りな音を響かせる。
 ドアの鍵穴に鍵を差し込みながら、赤くなっているであろう鼻を啜った。
 しかし、ノブを回した筈が開かない。クラウスは眉間に皺を刻んだ後、しまいかけた鍵を今一度差し込んだ。
 何時もであれば鍵は閉まっている。母親は寝室で寝ている筈だし、最近の昼間は男は留守が多い。
 その鍵が開けっ放しとあれば、男は家に居るのだろう。そう思うと、舌打ちしてしまう。
 ドアを開けた先、暗い玄関に日が差し込む。脱いだままの母親の、赤いピンヒールが転がっている。
「……なんだぁ?」
 部屋の中には、すえたような、陰気な匂い。生乾きのシャツだとか、梅雨の時期の篭った黴臭さだとか、そういうものとはまた違う。長い事放置されていた室内とも違う。
 靴を脱ぎながら、玄関先の電気のスイッチを押す。
 室内は静まり返って、人の気配が無い。
 男が愛用している黒い革靴が見当たらなかった、という事は、男は出掛けているらしい。家の鍵を開けたまま、近場に酒でも買いに行ったのか――何にせよ無用心な事この上ない。とは言え、この家がルネッリ家の部屋だと知る者が居れば、好き好んで侵入しようとする者も無いだろう。万が一誰に会ってもリスクが高い。
 キッチンのテーブルの上には、水が半分程残ったままのコップが一つ。母親のものだろう、赤い口紅の跡がべっとりと残っている。
「……ババァ?」
 何とは言えない違和感に、クラウスは母親を呼ばわった。
 キッチンの奥のリビングには、ソファに無造作に放り投げただけの母親のコートとバック。
 出掛けにクラウスが見た時のままだ。
 けれど、開け放たれたままの寝室のドアが違和感をいっそう強くする。
 何よりも、錆び付いた金属のような匂いが気に障る。
 鼻をひくつかせながらリビングに近付く、その挙動は知らず忍び足だ。
「ババァ?」
 もう一度呼びかけるが、返事は無い。
 ドアを開けたまま寝ているなんて、珍しいというより見た事が無い。リビングを挟んで向かいがクラウスの部屋だったが、お互いにドアを開けると部屋の中が丸見えになってしまうのである。自分の個室をクラウスに見られるのを殊更嫌ってきた母親にしては、おかしな事だ。
 けれど異変は、すぐに驚愕にうって変わった。
「ババァ!!」
ドアに背を預けるようにして座っていた母親の胸から、大ぶりのナイフが生えていた。刺さる、というよりはまさに、生えるという印象が強い。そのナイフと体との接点から、派手なピンクの母親のボディコンスーツはどす黒く変色しており、カーペットの色まで変えていた。けれどその全てが既に乾いて凝固していた。
 そこで思わずナイフを抜きにかかったのは、無知が過ぎたと言えるだろう。それが栓になって血を留めているなんて思いつかない。既に事切れた母親が、そうすれば起き上がるなんて考える程幼くは無い。
 けれど動揺が酷い所為か、クラウスは力を入れてナイフを引き抜いていた。
 瞬間、吹き上げる血飛沫。まるで潮を吹く鯨のようだった。
 びちゃり、と嫌な音を立てて、真っ赤な色がクラウスに降り注ぐ。着たままのコートが真っ赤に染まる。赤茶けたクラウスの髪を、それよりも濃い血が染める。
「――」
 母親の身体は氷のように冷たかったのに、血液は驚く程温かかった。温いお風呂に浸かるような感覚だ。
 見慣れた色。人を殴れば、簡単に流れ出す色。
 懐かしい色。どこか安心感を抱く赤。
 やがて勢いを無くして、母親の身体から流れ出すものは何も無くなった。
 クラウスは放心したまま、しばらく動けなかった。
 血に濡れたナイフを握り、同じ色に染まったクラウス。
 刺し殺された母親と、部屋に飛び散った赤い色。
 端から見れば、クラウスが母親を殺害したのは疑うべくもない場面だった。

 外出から戻ったチンピラにクラウスが気付いた時には、既に男は騒ぎ立てていた。何を言っていたか、クラウスは理解出来なかった。ただ怒鳴りながら近付いて来た男がクラウスを突き飛ばして母親を抱き起こし、既に事切れていると知ると、ナイフを手にしたクラウスを部屋から引き摺り出した。
 尋常でない様子にアパートの住人が家から顔を出し、血塗れのクラウスを見るなり悲鳴を上げた。
 静寂を切り裂く叫び声に、辺りは騒然とする。
「人殺しっ!!!」
 クラウスの視界がクリアになって一番初めに脳内に浸透した言葉。
 自分に向けられる非難なんて今更で何も目新しい事では無い。向けられる鋭い視線も、罵倒も、脅えも、憎悪も、忌避の言葉も、どれもこれも慣れたもの。
 狭い廊下の壁に背中を打ち付ける。チンピラがその腹に蹴りをくれた。
「俺じゃねぇ!!」
 咳き込みながらも、男が振り上げた拳から逃れようと身を捻る。
 身体を支えようと力を加えた右腕が血に滑って滑って、クラウスの身体が階段を転げ落ちる。
 階下から様子を窺っていた子供が、クラウスの真っ赤に染まった顔面を見て泣き出した。
「俺じゃねぇ!!」
「てめぇ以外に誰が居る!」
「俺が帰った時は、もう死んでたんだよ!!」
 その勢いのままチンピラとクラウスの二人がアパートの前の通りに飛び出ると、悲鳴が伝染した。
 いまだナイフを握ったまま、血塗れになって、チンピラと対峙するクラウス。
 街の偏見そのままに、クラウスを擁護するような者は居なかった。
 唯一の味方であるロッティ一家は今は遠い街。
【あの狂犬がついに】
 糸も簡単に浸透した囁き声に、クラウスは吼えた。
「俺じゃねぇって言ってんだろ!!」
 チンピラの踵落しがクラウスの手首に決まりナイフがその手を離れると、体格の良い野次馬がクラウスの身体を羽交い絞めにする。
「俺じゃねぇ!!」
 パトカーの音が近付いてくる。
「調べれば、分かるだろーがよ!!」
 誰もクラウスの言葉を信じない。それはクラウス自身が知っている事だった。それでも叫び続けたのは何の為だったのか。

 拘束されたクラウスを待っていたのは、容疑者への取調べでは無かった。
 事実など何一つ明らかにされない内から、クラウスの罪は確定しているように――クラウスの言葉はただ机上を滑った。
 言葉の通じない宇宙人。
 彼らは、状況と物的証拠だけでクラウスを殺人犯と断定した。

 拘留されていた街の警察署で、クラウスは二人の刑事に怪我を負わせ、銃を奪って逃走した。



 ――寒い寒い、冬の事だった。




BACK  NEXT


2009/08/08