51 人を裁けるのは事実だけ。



aperitivo.03




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 クラウス・ルネッリが生まれ育ったのは、炭鉱跡の寂れた村だった。住人は200人にも満たず、老人が多い。
 古びた家々に囲まれた鬱屈として閉鎖された空間は、活気と言うものがまるで無かった。
 同じような村や町が幾つか存在した他、一時間かかる電車の通る街が一つあったくらいのものだった。
 近隣の村落から、その街へ大人は仕事に出、子供は学校へ通った。
 バスが運行されていたから、車を持たない住人達は狭い車内にぎゅうぎゅうに押し込められて街と家とを往復するような環境だった。
 クラウスの家族であった女も、街の娼館で働いていた。日中は寝ているような人間だったし、学も無い、暴力的で酒好きな女だったから、クラウスにとっては疎ましいだけの女だった。
 そもそもクラウスにとって一緒に暮らしていたその女は、祖母に当る。彼女は幼い頃から身体を売って暮らしていて、その鬱憤を晴らすように酒と薬に溺れていた。当時医療薬品としても常用されていた精神安定剤【ラピスラズリ】の服用者であった。
 【ラピスラズリ】は合法な薬物として大流行したのだが、その後服用者の子供達に大きな影響を及ぼす事態に陥り、誰の子かも知れぬ子供を十六の齢で産み落とした彼女も例外なくその弊害を受ける事になる。
 ラピスラズリ病、と以後呼ばれるようになるそれは、まず、生まれた赤子の実に70%の命を奪い、生き延びた子供達には恩恵とも不幸とも取れる影響を残した。活性化した細胞によってラピスラズリ病患者はその身に急激な成長が見られ、二歳の子供が七歳程に見えたり、高いIQ値を示すような事になった。
 彼女の出産した娘、というのがクラウスの母親である。娘は十二歳の時、母親の恋人であった男に乱暴された末、死と引き換えにクラウスを生んだ。クラウスは酷く疎まれながらも、祖母である女の子供として育てられる事になるのだが――ラピスラズリの影響は、そのクラウスにも及ぶ。
 彼もまた母親と同じように非凡な才能を発揮したが、何より問題視されたのは安定しない精神だった。癇癪持ちで乱暴者で、暴れ出したら手のつけようがない程で。
 庇護してくれる筈の祖母はただ国からの助成金目当てでクラウスを育てていたようなものであったから、クラウスは孤独な幼少期を過ごす羽目になった。
 誰からも敬遠されて一人で居る事に慣れて、そしてクラウスはいつしか「狂犬」と呼ばれる。
 何もかもに期待が出来ず、世界を斜めに見ながら、人を見下しながら、ただ全てを嘲笑って、暴れることしか知らない毎日の中。

 クラウス・ルネッリは、フレンツォ・ロッティと出逢う。



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 ラピスラズリ病患者の親権者・家族が助成金を受け取る為には、第一に患者の生活を保障するという義務がある。
 そもそも国から助成金が出るようになったのが、生まれたばかりの赤子にかかる医療費を援助する為だった。それから急激な成長を見せる子供達の養育費と、更には親権者にかかる負担の軽減までが含まれた。望んで生まれた子供であっても、親権者にかかる負担は大きく、国が設けた相談所には連日多くの親権者が相談にやって来た。理解の追いつかない異常な成長速度だけでも、精神を疲弊させる。精神的苦痛を訴える親ならまだ可愛いものだが、ラピスラズリ病の子供達が数百人と捨てられるような事件まで起こった。
 そうした経緯があって、【ラピスラズリ患者の生活を保障する事を条件に、国が一定の支援を実施する】という取り決めがなされたのは、クラウスが生まれる数年前の事。
 だからこそクラウスの祖母は、疎んじ嫌悪しながらもクラウスを手放さない。
 その代わり保障したのは生活だけで、クラウスの性格形成に置けるあらゆる事項にはノータッチだった。
 そうした愛情とは縁遠い幼少時代が、クラウスを【狂犬】たらしめた。
 それは生まれ育った町を越した後も変わらなかった。
 クラウスが7つの時、母親は齢35歳。身体を売るには年を取りすぎた。ラピスラズリ患者支援団体の噂を聞きつけた母親は、その恩恵を賜ろうと町を出、支援団体を頼った。
 クラウスにとっては上流階級の気まぐれとしか取れない団体だった。ボランティアという名の下に患者自身に仕事を仲介したり、その親族の相談役であったり、いまだ根強い偏見の残る世間との橋渡しを嬉々としてする、自身達の暇潰しかはたまたエゴか、そういう風にしか思えなかった。
 母親も同じように唾を吐きながらも、外面だけは団体を頼るようなツラをしていた。そうして母親は団体の協力の下、夜の街に一軒の店を構える事になった。
 クラウスがロッティ家の名を知ったのも、支援団体の筆頭がロッティ家だったからだ。
 街にあるロッティ家所有の大邸宅は別荘らしかったが、その庭で月に二度開催される交流会という名の昼食会は、クラウスにとってただすきっ腹を満たす為だけのものだった。
 母親がクラウスに食事を作った事は無い。机の上に置かれた幾らかの金銭で毎日毎食を補った。それでも食べ盛りの子供にとっては賄える程のものでは無かったので、この昼食会でがむしゃらに食事を食い漁り、あわよくば残り物を持ち帰る――そういう目的で毎回参加した。
 ほとんどの家族がそうだったように昼食会への参加は母親同伴だったが、一緒に居るのは庭先までで、あとは別行動。母親は男漁りに夢中だったし、クラウスは好き勝手に食事を摘んだ。
 眼光鋭く年頃の子供らしくないクラウスは、友達など作れなかったしいらなかった。
 だから多分に浮いてはいただろう。
 兎に角目立っていたのは知っている。
 ある時何だか不気味に着飾った恰幅の良い中年女が、同情を込めて話しかけてきた事があった。クラウスの過去を想像し、捏造し、どうやら可愛そうな子と位置づけたらしい女は、自分の息子を遊び相手に差し出してきた。母親と同じように太った息子は、同じように可愛そうだから遊んであげる、という風情だっぷりに何かとクラウスを誘った。援助者である親子は、そうして『可愛そうなクラウス』に声を掛けてあげる『優しい自分』とやらに酔っていた。
 まだ狂犬の名が浸透していない頃の事だ。
 その疎ましい親子に、クラウスの堪忍袋はすぐに切れた。
 爆ぜた爆薬のように一瞬で、容赦無く、拳は奮われた。大の男数人がかりで止めるまで、クラウスは暴れる事を止めなかった。その結果子供の方は顔面ぼこぼこになり、母親の方は着ていた不恰好なドレスと髪を振り乱して泣き叫んだ。母親の首にはクラウスの指の形がくっきりと残っていた。
 そうして当たり前の如くその後、クラウスは昼食会に出席禁止となった。
 大人達にはクラウスが手に余ったのだ。それでも本当の狂犬の様に保健所に入れれば終わりという風にならないのが厄介で、彼らは自身達のプライドを守る為に、支援だけは続けた。
 手紙というやり方でクラウスの心を揺さぶろうとする様は、滑稽だった。
『私達はあなたの悲しみを癒してあげたいのです』
『貴方はけして独りではありません』
 そんな文面と飾り立てた同情の言葉達は、笑い種にしかならない。
 ささくれ立ったクラウスの心は満たされるどころか、どんどんと殺伐としていった。
 母親は以外に店主という立場が合っていたのか、繁盛する店にのめり込んで、最初から無いに等しい親子関係は細い一本の糸だけが繋いでいた。需要と供給という意味だけで。
 学校へ行けば暴力沙汰。街へ出れば窃盗。とても十やそこらの子供に似つかわしくない空気を纏い、刃同然に尖った子供――人々はクラウスを避け、疎んだ。恐れ、慄いた。
 『狂犬』『爆弾』『疫病神』――呼ばれた名前は数多。
 警察沙汰は両指の数でも足らない。けれど未成年である事、何よりもラピスラズリ患者である事が、クラウスを守り続けた。ラピスラズリ病は自然では無く人為的に、それも国自らが推進して広めてしまった病気であったから、何よりも国はその患者を保障していたのだ。だからこそ誰も彼も国家権力でさえ手が出さない、それがクラウスだった。
 それでも唯一、クラウスを他と差別しないのがロッティ家だった。
 夏の間別荘に在住するロッティ家一族の、総裁の息子三人――そしてその母親は、街でクラウスを見かけるたび気軽く話しかけてきた。
「お、クリス元気!?」
 顔を合わす度に三兄弟は、クラウスを愛称で呼んではそう言った。
 無視しても無視しても態度は変わらない。
「うっせぇ、クリスって呼ぶな!!」
 たまらずそう怒鳴りつければ、
「何怒ってんの? 生理かぁ?」
なんて冗談で交わされる。
「苛々した時は、これでも吸ったら?」
と長男リカルドはまだ十にも満たない子供に煙草を教える始末。
 煩わしさに拳を振るっても、自己防衛の為にあらゆる格闘技を習ってきた兄弟にはかわされるような有様だった。
「まだまだだねぇ」
 と勝ち誇った笑い声。
 クラウスがその最中にナイフをかざした時には、力いっぱい平手を受けた。
「素人に武器を出すな、武器を!」
 と真面目な顔で言われた説教に
「素人じゃなければいいのかよ!!?」
と言えば、
「目には目を、だ」
と、そう教え込んだのは次男のアントニオだった。
「クリスちゃん、今日お夕飯食べてかない?」
 高級車を自ら運転する彼らの母親は、そんな風に窓から顔を覗かせながら、良くクラウスを家に誘った。何時も柔和な微笑みを浮かべているのに、誘拐さながらにクラウスの手を引っ張って連れ帰るなんていう事も日常茶飯事だった。
 当然マナーなんて知らないがっつくようなクラウスの食事風景にも嫌な顔せず、それ所かにこにこ笑いながら見守ってくれるような人だった。
「本当においしそうに食べるわねぇ」
と頭を撫でた柔らかい手を、クラウスは多分初めて受け入れた。
 その家族はクラウスの嫌悪する人間とは、どこか違った。
 クラウスを見る目に偏見が無い。嘲りも憐憫も無い。
 それが心地よいと感じる程度には、クラウスはロッティ家の家族に心を許していた。
 狂犬の性を捨てられなくても、彼らだけは好ましかった。
 「てめぇ」と呼んでいた兄弟をそれぞれ名前で呼び、「ばばあ」と呼んでいた彼らの母親を「おばさん」と呼べるようになる頃、クラウスは少しだけ、笑えるようになっていた。
「学校が嫌い? 勉強して何になるって? 馬鹿野郎、阿呆な大人を牛耳る為だよ!! 頭がありゃ、むかつく野郎どもぺしゃんこに出来る。拳も結構だが、そうやってのした時の爽快感を知らないなんて勿体無いぜ」
 そう揶揄されて勉学にもそこそこ身が入った。新しい知識を手に入れるのは案外楽しくて、そう言うと彼らは惜しみなく自分達の知識を教えてくれた。
「拳以外だけじゃなく、喧嘩は頭だよ」
 クラウスの頭を小突きながら、クラウスの暴れる気質を助長させるような助言をくれる事もあった。
「出来の悪い弟だ」
 ふとそう言って抱きしめてくれた温もり。
「馬鹿な子ほど可愛いもんだ」
 惜しげなく晒される満開の笑顔。
 思い出は、降り積もる。
 冷え切った心は、確かに解けていった。少しずつ、少しずつ、クラウスが世間を見る目も変わっていった。
 毎年夏を心待ちにしていた子供――長男次男が父親の仕事を手伝う為に顔を見せなくなっても、クラウスにとって彼らだけは心の拠り所だった。
「はぁい、クリス。元気〜?」
「……」
 ある時真っ赤なオープンカーに乗って、夏の休暇を楽しみに来た筈の兄貴分が、様変わりな変貌を遂げていた。
 おネェ言葉で話す美青年。
 浅黒い肌、魅力的な黒い瞳、太陽のような明るい笑み――それはクラウスの記憶の中の彼と一致する。
「レンツォ、あんた一体どうした!?」
「ちょっとしたイメチェンよぉ」
 からからと笑う声も男らしいハスキーボイス。
「キモチワルイ」
 思わず素直な感想が飛び出た。
「ま、酷いわねぇ。まあイイから、兎に角乗りなさいよ!」
 そう言って呆気に取られるクラウスを助手席に引っ張り込んだフレンツォは、車を急発進させる。
「コレ買ったら一番に、あんたを乗せるって決めてたの」
 嬉々としてハンドルを握る彼の運転は、街を出た辺りから荒くなる。前日の雨でぬかるんだ田んぼ道は容赦なく泥を跳ねさせ、車体は見る見るうちに汚れていくのに、運転手はそんな事気にならないらしい。
 対するクラウスは余りのスピードに声も出せない状態だった。
 左右どこまでも見晴らしの良い田んぼ道。飛び出てくるものは何も無い。だからといって尋常じゃないスピードだった。これが制限速度何キロオーバーなのかなんて、クラウスにはちっとも分からない。
「きっもち良いでしょー!?」
 興奮しきりのフレンツォは顔に当る凄まじい風すら楽しんでいる。
 眼前を猛スピードで過ぎていく代わり映えしない風景。空と緑と太陽しか無い世界。
 そんなものを楽しむ余裕さえなく、クラウスはシートベルトを握り締めていた。

「ったく、だらしないわねぇ、男の子が」
「うっせーよ!!」
「ま、叫ぶ元気が出てきたならいいわ」
 適当なところで車を止めたフレンツォが、目を細めて笑った。
「っていうか、何なんだよその話し方」
「だっていい加減にうんざりなのよ」
「何が?」
 聞けばうーんと伸びをしながら、
「取り巻きが五月蝿くって。だからちょっとイメージチェンジしてみたら、すごいの、さーっと波が引くみたいに」
 ジェスチャーで波が引く様を表現してみせる。
 ロッティ家の名と外見に群がる人間を排除したかったらしい。
「もう快感だったわ」
「だからって俺の前ではやめろよ。キメェ」
「貴方の嫌がるところみたら、面白くって尚更やめられないわね」
 鮮やかな笑い顔が目に焼きつく。
 ちぇっと舌打ちして、クラウスは背凭れに沈んだ。

 二人はしばらくドライブして、何時も通り別れて。
 そんな日々を、楽しんだ。

 クラウスの夏は、密度濃く、慌しく――過ぎ行った――。



 その年の冬。
 若干12歳のクラウス・ルネッリが、母親殺しの罪を背負って町から消えることを、誰も想像すらしていなかった――。






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2009/04/12