91 赤信号、二人で渡れば恐くない。



aperitivo.02





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 その人の、意思の強い黒檀の色の瞳が、優しく微笑むのを見るのが好きだった。


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 それは、何時も通り。
 ルーカが三ヶ月付き合った恋人に別れを告げられて、意気消沈して帰路を辿っていた時の事だった。
 何時だって別れは一方的で、ルーカの感情を置いてきぼりにする。
 言葉を紡ぐのが苦手だったから、体当たりしてばかりの恋だった。心を語るよりも身体で通じるのが楽だったから、ルーカは簡単に身体を与えてしまう。でもそうすると、心の奥まで繋がっているような気になれて、幸せだった。
 大切にされていると、必要とされていると、そう簡単に感じられる術がセックスだったから、求められれば応じて来た。
 でもルーカは男娼だったから、そこに心があるか無いかの違いだけで、恋人に対しても客に対してもやっている事は同じだ。
 分っていて付き合いだした筈なのに、最後には相手が「我慢の限界だ」とルーカを見放す。
 そうやって付き合っては別れてを繰り返すルーカを、双子の兄は呆れた様にため息をついて。別れる度に傷付いて、泣いて、それでも幾度も同じ事を繰り返すルーカを、双子の兄は苛立たしげに見つめて。
 何時も何時も、泣きながら家路についた。

 ――何時も通りの筈だった。

「……あ」
「あ、」
 俯いて自分の爪先を見て歩いていたから、大分前方は不注意だった事だろう。
 それでも人様の迷惑にも邪魔にもならぬ様、その公園を通り抜ける際に端っこを歩いていたのが仇になった。
 花壇の段差に腰掛けて、中央の噴水を描写していたのだろう男性の、バケツを見事に引っ繰り返してしまった。
 想定外の出来事にバケツを蹴倒してしまった左足を軽く上げた状態で固まってしまったルーカとは対照的に、相手は
「靴が……」
 絵の具で汚れた水に、ルーカの白い靴は歪な染みを作っている。
 男は慌てて雑巾でルーカの靴を拭きにかかるが、生憎雑巾も絵の具で汚れて、余計に凄まじい染みを作る羽目になる。
「――すまん」
 今だ固まったままのルーカを、見上げた男が済まなそうに言った。
「え、あ……」
 長い前髪を掻き揚げた男の、黒い瞳とかち合った。
「弁償させてくれ」
 切れ長の眼の中、光を反射しない黒檀の様な瞳から、ルーカは視線が逸らせない。その瞳に映る自分が酷く間抜けな顔をしていて、そこでやっと覚醒する。
「いえ、っていうか僕がすみません。弁償とか、結構ですから!」
元々汚れていたし、と続けると、尻の汚れを叩きながら立ち上がった男は生真面目に言う。
「そういうワケに行かない。この汚れじゃ流石に今後履けないだろ」
「洗えば何とか、なると思います。それに、別にもう捨てたって」
「それなら尚更、わるい」
 ルーカの言を遮って有無を言わさない口調で男は、ルーカの腕を取った。
「お前、これから時間あるか」
「え、あの……」
「今から靴、買いに行かないか」
「いや、でも、本当に結構ですから!! 大体僕の不注意なんだしっ」
 どう見てもルーカの方が原因である。そこまでの申し出は逆に恐縮してしまって、ルーカは眼前で大きく手を振った。しかし左手は今だ掴まれたままで、男の方も引かない。
 真っ直ぐに自分を見下ろしてくる瞳には折れる気配が全くなくて、ルーカは眉根を寄せた。
 よくよく観察してみれば男は、絵の具で汚れたよれたシャツを着ていたが、シャツ自体も仕立ては良く、全身くまなくブランド物で占められている。
 お金には不自由していないのだろう。花壇に無造作に置かれたスケッチブックには今彼が描いていたのだろう噴水をメインとした風景画――絵画には疎いルーカでも、それが上手い絵だというのは分った。ただし、恐らくは金持ち息子の道楽程度の意味しか持たないのだ。ただ自然に見たままの風景を描くそれは、けして誰かに見せる為に描かれたものでは無い。
 これがアーノンだったら一にも二にも無く、二つ返事で靴を買わせた上についでとばかりに拳に物を言わせそうな所だが、生憎ルーカは人にたかる癖は無かったし、何より今は、靴など見ている余裕は無い。
 びっくりして涙は引っ込んだものの、失恋の痛手は癒えよう筈も無いのだ。
 しかしルーカが何も言わないでいる内は、男の方も手を離す気が無い様だ。
 困ったように俯くルーカの上から、男の視線は注がれたまま――居心地が悪くなって、ルーカは思わず視線を巡らせた。
 そして、ふと。
「あ、あの! じゃあ……」
「ん?」
「あそこのアイス、奢って下さい」
 ルーカは言いながら、公園の入り口に止まっていた移動販売のアイスクリーム屋を指差した。明るいピンク色の車体に子供達が群がっているのが見える。
「アイス?」
「はい、靴なんかよりも僕、それのが嬉しいです!!」
 ルーカの指し示す方を振り向いた男にそう言ってしまってから、はっとする。
(うわ、僕子供みたい……っ!)
 満面の笑みでアイスをと請う自分が、今更ながら恥かしくなって、ルーカの頬に熱が昇った。
 本来であれば、ルーカの年齢には似合った申し出だっただろうが、大人びたアーノンは愚か、普段からルーカの周りには大人ばかりが存在する。同年代の子供と遊んだ記憶は全く無い。ルーカにとっての遊びと言えば恋人に連れられて行く娯楽施設やバーやホテルがほとんどで、公園でボール遊びに勤しむ事も無ければ、屋外で健康的に走り回るなんて事は有り得ない。
 真っ赤になった顔を自覚して、恥かしさのあまり視線を俯かせると、頭上で男が笑った気配がして益々恥辱が沸いてくる。
「いいね、俺も食べたくなって来た」
 しかし予想に反して男は朗らかな声で応えて、ルーカの腕をぐいと引っ張った。
「――え?」
「何個でも好きなだけ奢ってやる」
 笑みを浮かべる男の顔は、馬鹿にするでも無く、ただ嬉しそうだった。
 そのまま男に連れられて、ルーカはバニラとミントのアイスを二段にして買って貰った。
 男もモカとバニラのアイスを買って、二人して花壇へと戻る。
 ルーカの見る前で、男は美味しそうにアイスを頬張る。大の男が、恥かしげも無く
「美味い」
なんて言いながら。
「お前もさっさと食いな。溶けるぞ」
「あ、はい」
 溶ける所か凍るんじゃないか、と思いながら、ルーカも男に続いてアイスに口を付けた。
 昼、とはいえ、冬に差し掛かった季節である。公園で遊ぶ子供達はまだまだ夏の装いで駈けずり回っているが、コートを着込んでいるような人もチラホラいる中だ。
 ルーカも薄手のカーディガン姿でまだ寒さを感じさせない装いだが、流石に男のようにアイスクリームをドカ食い出来る程では無い。
 ルーカがまだ一個目のアイスを半分も食べ終わらないうちに、男は完食してしまった。
「しかし、アイスなんかで悪かったな」
「いえ、そんな!! むしろ僕が……えと、本当にすみません。ゴチソウ様です」
 男が本当にすまなさそうにわしわしと頭をかきながら言うので、ルーカも思い出したように頭を軽く下げて。
「俺ら、謝ってばっかだな」
 男の笑みにつられて
「そう、ですね……」
と微笑み返した。
 最初の印象は丁寧だが人を寄せ付けないような、一匹狼みたいな様子だったのに、黒硝子のような真っ黒な瞳が笑うと、印象は一転する。
 立ったままのルーカを自分の隣に座るよう促して、男は惜しげも無く笑う。
「俺はエルネスト」
 ルーカがアイスを食べ終わるのを待って、男――エルネストが右手を差し出してきたので、ルーカはそれに応えて控えめに右手を出す。
「エルネスト、さん」
「くはっ! いいよ、エルネストで。むず痒いから」
「あ……はい、えと……じゃあ……」
 印象がどんどん変わる。だから、ルーカは戸惑う。こんな風に掛け値なしで、思惑なしで、相手をされた事があるだろうか? この街でルーカとアーノンの双子を知らない者は少ない。ハバロの男娼で、自分達の見た目がどれだけインパクトを持っているかは知っているから、事情を知る大人は嫌悪するか邪念を抱くかどちらかだった。
「えと、僕はルーカ、です。エルネスト、は、この街の人じゃないの?」
 見ただけでは気付かなくても名乗れば大抵はハバロの男娼だと気付くのに、エルネストはよろしくと言ってルーカの頭を撫でてくるだけだったので、ルーカにしては珍しく勘が働いた。
「良く分ったな。最近越してきたんだよ」
「……なんか、この街の人っぽく無かったから」
 上手い言い訳は、アーノンの事を考えながら紡いだ。アーノンだったら飄々とした顔で、何気なく「都会の人っぽい空気」等と付け足していそうだ。いや、それ所か相手が金持ちと踏むや否や、艶っぽい視線でホテルへと誘っているかもしれない。――ルーカにとって、アーノンのイメージというのは実はそんな所だった。双子でも、彼の思っていることはルーカにはさっぱり分らない。相手は自分以上にルーカの事を知り尽くしている節があるけれど。
 そんな事を考えてぼうっとエルネストを見返していたら、彼は薄く笑って。
「お前こそ、こんな街に似合わないくらい綺麗だ」
 一瞬何を言われたのか分らなくて、空色の大きな瞳を目一杯見開いてしまう。
(キレイ?)
 言われ慣れた言葉なのに、自分でも自覚している何て事ない褒め言葉なのに。飾り気も何もない、ただの賛辞なのに。
 とくん、と胸が高鳴ったのが不思議で、ルーカは自嘲した。
「それってくどいてるの?」
 何の意図も感じさせない、エルネストが描いた風景画そのものの自然で美しい、ただの言葉だ。ただ思ったままを口にしただけのそれに、必要以上に反応してしまった自分が笑えた。
 まだ未熟な少年でありながら、ルーカとアーノンの双子は、神秘的なまでに美しい。顔形は去る事ながら、見事なまでに完成されたプロポーションを誇る。白磁の肌に、透通った天空の色の瞳、流麗なラインを描く眉も高い鼻梁も、花の蕾のように麗しい唇も。長い手足に細い指先、爪の形でさえ。
 微笑みの中には純真さと魔性とを宿し、流し目一つで老若男女違わず魅了する。
 そこにあるのは完璧な”美”だ。
 子供の仮面を外して、妖艶な色気を貼り付ける。誰も拒めない、お誘いのメッセージを込めて武器を最大限に使って微笑んだのに、エルネストの表情は変わらない。
「くどかれたいのか?」
 何て、素で聞かれて、皮肉のつもりだった誘いは難なく跳ね返された。
 毒気を抜かれて、ルーカはまたぽかんと口を開く。
 何時だって、ルーカがのめり込んで相手を立てるまでは主導権は自分にあったのに。
「で、お前は何を泣いてたんだ?」
 エルネストは一瞬も色っぽい空気に惑う事無く、あっさりと話を変えてくる。
 その骨ばった指が、腫れたルーカの瞼を撫でて眦の黒子に軽く爪を立てた時、ルーカはまるで初めての時の様に強張ってしまった。大きく肩を揺らしてから平静を装ってみても、もう上手くいかない。
 エルネストは面白そうに目を細めて、笑った。
 黒檀の瞳は、肉食獣が獲物を捕食する時の、竦んでしまいそうな獰猛さと、逃げる事の出来ない強い光を放っていた。
 その時ルーカはやっと、自分が獲物である事に気付いたが――エルネストの意志とは別に、自分が最早逃げ道を欲していない事をも、悟ったのだった。


 ――それから、二人がどうなったか――後は、簡単な話である。
 ルーカは別れたばかり、自分をどん底に落とした相手の顔など一瞬で忘れ去り、エルネストの独特の瞳に吸い込まれたのだ。
 そしてエルネストもまた、美貌の少年のえもしれない雰囲気にのまれて、目を離せなくなっていた。
 ただもう一度会いたい、話したい――そんな興味を抱いた後は、当然の様にお互いを求め合うだけの――儚い幻想に酔いしれた。






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2008/12/06