91 赤信号、二人で渡れば恐くない。



aperitivo.02





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 愛なんて、形の無いものをどうやって信じたらいい?


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 四時間もの手術を無事に終えたものの、面会謝絶と締め切られた部屋の中に居るラシードに見える事も出来ず、アーノンはただベンチに座っていた。
 ロッシはあの後、「ジェロニモさんに連絡してくるわ」と言って一度席を外し、その後何度か様子を伺いにやって来るものの、数分経つとまた姿を消した。
 暫くの後ラシード派やジェロニモ等が到着したようだったが、彼らは手術中のランプを確認して何処かへ行ってしまった。
 何か話しかけられたような気もしたし、謝罪を受けた気もしたが、アーノンはその数時間をあまり記憶していない。何となく頭の端で認識しただけで、言葉は全て素通りしていった。
 その時ただアーノンの頭を支配していたのは、ロッシの言葉だけだ。
『どんだけ愛されてんだよ』
 そんな、アーノンにとって受け入れ難い真実だけだ。
 今までもこれからも、『愛』なんて単語は自分にとって縁遠いものだと思って来た。身体は与えても心は閉め切って、誰の侵入も拒んで来た。
 ――それで良かった。
 信じて裏切られるのは恐い。
 ルーカを見ていると特に思う。
 何度も打ちのめされて泣いて、それでもまた立ち上がって体当たりしていく勇気なんてアーノンには無い。
 言葉は薄っぺらで、真実も嘘も見分けがつかない。耳元で囁かれる愛の言葉も、心底から受け入れる事なんてけして出来ない。
 どうやって、そこにある『愛』が真実なのだと信じられる?
 やがて終わりが来るのに。
 終わりが来る事だけは分っているのに。
 そんな刹那の感情に身も心も委ねて、怠惰な幸せを感じる事なんて出来ない。
 『愛』に飲み込まれた先に待っている現実に、アーノンは打ちのめされたらけしてもう起き上がれない。
 臆病な心は、だからこそ最初から『愛』なんて感情閉め出している。
 ラシードが自分を愛している、なんてそんな事はけして有り得ない――そう言い切れたら、良かった。けれどアーノンは今までもずっと、どこか心の片隅でその事実を知っていたのだ。けして言葉にして語らない、あの無表情の上司が、その実瞳にだけ優しい熱を持ってアーノンを見つめていた事。
 閉じきった扉を強引に開けてくるのなら拒絶する術はあった。だけど彼はその扉を根気良くノックし続けただけ。アーノンから扉を開けるのを、ただ待っているだけ。
 その扉の鍵は最初から無い。
 後はアーノンの勇気一つ。心一つ。
 『愛』なんて信じられないと泣き叫ぶアーノンを、ラシードは『愛』を持って見守り続けた。
 ラシードのぶつけてくる『愛』は、そんな風に歯痒いものだった。
 だから、知らない振りをして来たのに。
 知らない振りが出来たのに。
(もっと早くに、ここから消えるべきだった……)
 ラシードの想いには応えられない。それだけは、はっきりとしていた。応えてしまったら傷付くのは自分だと知っているのだ。
 なのに、居心地が良いからと微温湯に浸り続けて。
 その結果、ラシードは片腕を失った。
(馬鹿だよ)
 あの頭の良い男が、アーノンが逃げ出す事を考えつかなかったわけが無い。
 それなのに、惜しみなくアーノンの命を救う。
 片腕を犠牲にする。
(馬鹿な人……)

 零れ落ちそうな涙を歯を食い縛って耐えていると、その肩を強い力で叩かれた。
 はっとして顔を上げると、ロッシが眉を寄せて立っていた。
「アーノン? 大丈夫か??」
 いつの間にか辺りは真っ暗で、窓の外は夜の気配を濃厚にしていた。蛍光灯の光が目に痛くて、アーノンは目を眇めて頷いた。
「今日はもう帰るぞ。ラシードさんは大丈夫だから」
「……はい」
 ロッシに促されて立ち上がると、その背後にジェロニモとセンツァディーオの姿がある事に気付いた。
 センツァディーオの頬は何故か腫れ上がっていて、額には包帯が巻かれている。剣呑な瞳が真っ直ぐとアーノンを射抜く。
 びくり、と肩を揺らすと、センツァディーオは不貞腐れた面で一言。
「悪かったな」
 言って踵を返した。
「……え?」
 思わずぽかんと口を開いて固まるアーノンに、ジェロニモが笑う。八重歯を覗かせる柔和な面相のジェロニモは、長身痩躯の優男だ。ラシードに劣らず人を殴った事も無いという様な綺麗な手をしていたが、こちらは真実、自分の手を汚した事など無いだろう。マフィアなんて言葉の似合わない、爽やかな空気が漂っていた。
「あれでも謝ってんだよ。本気で悪いとは思ってるから、許してやって」
「え、はぁ……」
「あのツラ見たろ? ラシードさんに頭突き一発、平手二発食らってあの顔だから、いじけてんだ」
「え!?」
 ジェロニモとロッシは目配せしあいながら笑う。
「いやあ、アーノンにも見せたかったなぁ」
「その後ロッシとジオも腹に一発ずつ食らってね、面白い見世物だったよ」
「……すみません」
 どうして良いのか分らず、アーノンは困惑しながら頭を下げる。
「いや、君のせいじゃないし。元はと言えばウチのディーオが先走ったのが問題だからね。アイツこっちに報告も無しに勝手しやがって……だから、ラシードのお怒りは最もなわけ」
 気にするなよ、と気軽く背を叩いてきたジェロニモからは柑橘系の香水の匂いがした。
「あ、それから。しばらく君の身柄はウチで預かる事になったから、一度キミのアパートで荷物取ってから行くからね」
「え?」
「ラシードからのお達しだから。詳しくは移動しながら話すけど――今、キミらファミリーの中で危うい立場だからさ」
「……キミら? 危うい? どういう事です……?」
「うん、だから詳しくは後で。とりあえず行くよ」
「え、あの、」
 アーノンの追求の手をにっこり笑顔で切り落とすと、ジェロニモはもう一度アーノンの背を叩いて歩くよう促した。躊躇いがちにジェロニモの後に続くと、ロッシが背後から声をかける。
「ジェロニモさん、アーノンをよろしくお願いします。……アーノン、また、明日」
 強張ったまま頭を下げるアーノンと、陽気に頷くジェロニモとを残して、ロッシは足早に病院を出て行った。



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 玄関先で待っていた車に乗り込むと、既に後部座席で待っていたセンツァディーオが煙草を吹かしながら「遅い」と文句を垂れた。
「あはは、ごめんごめん」
悪びれない態度で笑うジェロニモだったが、その様子に間に挟まれたアーノンは少なからず驚いた。
 アーノンの知る幹部はラシードくらいのものだったが、それでもマフィアにとっての上下関係は厳しいものだとは知っている。ラシードの派閥は甘いと言っても流石にラシード相手に気軽く接する者も居ない。
 しかしセンツァディーオは煙草を消す様子も無いし、ジェロニモを呼び捨てて呼ぶし、これではどちらが幹部なのか知れない態度で座っている。
 ジェロニモも気にした風も無く、窓の外を見ながら鼻歌を歌っている始末だ。
「大体なんで俺がこんな事……」
「自分の蒔いた種でしょうが。責任持って最後までつき合わすからな」
「面倒臭いんだよっ謝っただろ!?」
「別にオレはいいよ、どっちでも。ラシードにもう一回殴られる覚悟があんならね」
 ぶつくさと、しかめっ面でそんな愚痴を零すセンツァディーオとジェロニモは長年連れ立った友人でもあるかのように、砕けた口調でそんな会話をし出した。
「……もう御免だ」
「じゃあ諦めれば〜」
 センツァディーオは不機嫌も露に舌打ちする。
 ――そうこうしている内に車はアパートの下に辿りついて、アーノンはセンツァディーオと共に一度車を降りた。
 降り様、
「びっくりしないでねー」
と、何だか分らない忠告をジェロニモから受けて首を傾げたが、その理由は部屋に入るなりすぐに分った。

「――何ですか、あれ!!」
 車に戻るなりの第一声は、それだった。持っていく物なんて着替えくらいのもので、鞄に詰め込んだそれだけを抱えて再度中央に腰掛ける。
「うん、ねー」
 しかし返って来たのはそんな言葉で。
「ねー、じゃなくってですね!!」
 部屋の中は強盗でも入ったのかと見紛う程に、荒らされていた。棚という棚の中身は全て床に放り出され、割れたガラスが散乱したキッチンに、クローゼットの服はぐちゃぐちゃ、ベッドの布団はボロボロ、壁に掛けられたなんだか分らないルーカの趣味で飾っていた絵画は引き千切られていた。何かの意味を持って、探し物でもされたかのようで、しかし元々無いに等しい金目のものなんてちっとも手付かずで残っていて。
 びっくりするなという位なのだから元々ジェロニモはその惨状を知っていたという事に他ならない。
 センツァディーオを連れ立たせたのも、恐らく護衛か何かのつもりだったのだろう。
「うん、あのね。結論から言うと」
 いきり立つアーノンとは裏腹に、ジェロニモはのんびりと口を開いた。
「君ラ双子ね、今ファミリーの裏切り者扱いなんだけど。まあ、そういうワケで今日の午前中――ああ、もう、昨日だね」
 腕時計を見ながらそんなどうでもいい注釈を入れて、ジェロニモは続ける。
「幹部連中が家捜しに入ったんだ」
「裏切り者って、何でです!?」
「ルッソと繋がっていて、ハバロの情報横流ししてるってサルヴァトーレの馬鹿が言い出してね」
「はあ!?」
「でもまあ仕方ないよね。君の片割れがルッソと繋がってたから」
「……ルーカが?」
 淡々と紡がれる言葉に、ゆっくりと全容が露にされていく。
 サルヴァトーレは、ハバロのボスの左腕の幹部だ。しかしフェデリコと違ってその立場は酷く危うい。噂ではラシードに取って代われれるんじゃないかと言われている位だ。
 フェデリコはハバロが引退する時には自分もそうだと言って憚らないから、そのサルヴァトーレとジェロニモ、ラシードの三人が次期ボスの座を争っている形になる。最もジェロニモ自身はそれを辞退しているから、実質サルヴァトーレとラシードの一騎打ちだ。
 野心の強いサルヴァトーレは自分の立場を確立しようと、何時だってラシードの周りを嗅ぎ回って足を引っ張る糸口を探しているようだった。
 今回のルッソの介入によって、武力勢力はすぐに開戦をとボスに発破をかけていたが、ラシードのまずは調査をという提案に足踏み状態だった。ボス自身も元々力で伸し上がって来た生粋のマフィアであるから、どちらかと言うとフェデリコやサルヴァトーレら武力勢力に偏っている所だった。
 そしてサルヴァトーレは、ラシードを追い落とす切欠を見つけたのだ。
 それが、ルーカだった。
 ディアボロの弟、ルッソファミリーの二人のボスの一人、エルネストの泊まるホテルに、ルーカが入り浸っていたのだ。
 ルーカが新しい恋人と呼んだ相手が、そのエルネストなのだ。
 ただの男娼であるルーカが、ハバロの秘密なんて知る筈も無いし、横流し出来る程の大した情報なんて持ち合わせている筈が無い。
 それでもその二人が繋がっている事実があれば、それで十分だった。
 ラシード派の男娼がルッソと関係している――それは、サルヴァトーレにとってラシードを失墜させるに相応しい理由になった。
 そこまで説明されて、アーノンは声音を落とした。
 ハバロとルッソがその後どうなったかなんて、ラシードが今どんな立場にあるかなんて、アーノンには関係が無かった。
「……ルーカは、無事ですか」
 自分が届けた抗争の種は、ルーカと一緒に居る筈のエルネストの腕だった。ラシードがそのエルネストが生きてはいる、とディアボロに言っていたのを覚えているので、エルネストは既にラシードの手の内に居るという事なのだろう。その時点でラシードの名誉は守られているといって過言で無い。
「うん、無事だよ。ウチで保護してる。ただ――うん、大きな傷は無いんだけどね、脱水症状が激しい。二日間飲まず食わずで拘束されてたようだから」
 向けられたジェロニモの優しい視線に、アーノンは唇を噛んだ。

 ――また一つ、自分の決断の遅さに後悔を持った。





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2008/11/15