91 赤信号、二人で渡れば恐くない。
aperitivo.02
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アーノンが生まれる十数年前、【ラピスラズリ】という名の薬物が大流行した事があった。鎮痛剤だとか、気持ちが良くなる薬だとか、という名目で、安価で安全な、合法な麻薬として世界各国で売り捌かれたのだ。
人体への悪影響も見られず、数年は医療薬品としても使われる程だった。
けれど様子が変わったのは、【ラピスラズリ】服用者の子供達に異常が発見されてからだった。
【ラピスラズリ】服用後の母体から生れ落ちた子供達の、実に約70%がその被害を受けた――と言われている。
結果だけを見れば、それは幸でもあったし、不幸でもあった。
ラピスラズリ患者と呼ばれる子供達は、一様に色白だった。栄養が全て成長に向かってしまったかのような長身痩躯の、白磁の肌のが特徴で。実際の年齢より遥かに早い成長を見せるので、二歳の子供が七つ程の外見になってしまう。そして彼らは、病弱だった。風邪など引こうものなら死に直面する程の危険だった。
ラピスラズリ病を抱えて生まれた赤子の50%は、十歳に満たない間に死亡する程だったのだ。
しかしその危地を生き延びたものは、細胞の活性を得て、見目にはそぐわない身体能力を誇る事になる。得手不得手はあったが、ラピスラズリ患者は常人とは比べ物にならない程、様々な分野で他を圧倒する。
スポーツの世界で上げれば、世界新記録が次から次へと生み出されるのだ。
ラシードもまた、死神の手をすり抜けた幸福なラピスラズリ患者だ。彼のIQもその恩恵、強靭な肉体や、大の男を片手で振り回せる力も然り。
身体の治癒能力も発達し、痛覚は麻痺しているのか、それ程感じないという。
――だからと言って、失ったものを再生させる程、化け物じみては居ない。
失った腕は、戻らないのだ。
「………」
誰もが驚愕を面に貼り付けて、ラシードから目を逸らす事が出来なかった。
彼の右腕に食い込んだ刀はあっさりとその先を切断し、切っ先から赤黒い血を滴らせる。その赤にラピスラズリの様な青い色が混ざるのが、ラピスラズリ患者の特徴だ。
切断された腕はぴくぴくと痙攣しながら、ジュラルミンケースの横に並べられる。
「――っ」
軽く呻いて、ラシードは肘を押さえた。
取り落とした日本刀と床の上に、肘から先を零れ落ちる血が赤と青い斑点の水溜りを作っていく。
「ラ、シード……!!」
彼の僅かなうめき声にいち早く正気を取り戻したアーノンは、彼以上に蒼白になりながら走り寄った。
「何て馬鹿な事っ!!!」
着古したパーカーの内ポケットからハンカチを引きずり出して、慌ててラシードの二の腕を縛る。そうすると残った左腕で、アーノンを抱きしめるようにして密やかな声が降って来た。
「無事で良かった」
「……阿呆かっ!」
罵倒して見上げると、流石に脂汗を浮かべて眉を寄せるラシードの瞳とかち合った。
その灰色の瞳に、アーノンはどうしようもない程の安堵を覚えた。いまだ窮地は変わらない。恐怖は消えない。それでも頭は奇妙に澄んで、涙は置くに引っ込んだ。
そんなアーノンを見て、ラシードの唇は微かに口角を上げる。
アーノンはもう一度「馬鹿」と呟くと、ラシードの左腕を潜るようにして、彼の体を脇から支える姿勢を取る。
「――いいな、これでチャラだ」
畏怖を宿した瞳で、マフィア達は道を開けた。扉へ向かう二人が何処へ向かうかなんて分りきった事なのに、止める意志は感じられない。
それはディアボロも同じだった。
「……分った」
乾いた答えを聞いて、アーノンとラシードは部屋を出た。
「戦争は、止めない」
それでもボスとしての矜持は、固い声でそう言う事だけは忘れずにディアボロに課す。
その言葉を聞き遂げるのがアーノンの仕事だったけれど、今のアーノンにとってはどうでも良い事だった――。
倉庫の騒ぎを聞きつけたのか、階上ではカフェのスタッフが奥の部屋から様子を窺うように顔を出していた。
その顔は、階上に出てきた二人を見て血の気を失う。
アーノンが支えるラシードのコートの右袖は、真っ赤だった。黒いコートなのであまり目立たないが、血を吸ってべっとりとしており、時々床に落ちて赤い点を作る。
そこまで来てラシードは「一人で歩ける」等とのたまったが、その足は若干ふらついていて、とても許容出来るものでは無かった。
けれど如何せん背の高さが響き、アーノンではラシードを引き摺るような格好になってしまう。
「……足は?」
「外に車置いてきた。……鍵だ」
「ちょっと待ってて!」
投げ渡された鍵を持って、アーノンは店を飛び出る。
敵陣に置いていくのは心配だったが、階下からディアボロ達が昇ってくる様子も無いし、スタッフは既に引っ込んでいて気配も無い。
躊躇は一瞬で、見慣れたラシードの車を大通りに探す。
車はすぐに見つかって、アーノンは焦れた様子でエンジンをかけるとすぐさま車を発進させた。当然免許など持ってはいないが、ラシードに教えられて何度か運転した事があったし、数回のそれで構造は理解した。
細い路地裏へ苦も無く乗り入れると、ラシードは裏口の外の壁にもたれ掛かってこちらを見ていた。
(また無理して!!)
助手席に乗り込むその動作も、危なげ無い。けれど流しすぎた血に顔面は紙の様に白く、乗り込んだ瞬間に背凭れに突っ込む様は、何時になくアーノンを焦らせた。
本来なら何時意識を失ってもおかしくない怪我だ。
それ所か命だって危ない。
幾ら【ラピスラズリ】の恩恵に賜ろうと、安心できるものでは無い。
そんな事は当の本人も分りきっているだろうに。
(――どうしてこの人はっ!!)
不規則な息を吐き出しているラシードを横目に見ながら、アーノンは唇を噛んだ。
今だって近場の病院に駆け込もうとしたアーノンを制して、「馴染みの医者だ」と二つ隣の街の住所を指示したりする。普通の病院がご法度なんて事は知っている。ろくでなしの彼らが明らかに事故では通せない傷を持って飛び込むには、適さない場所だ。
だからと言って怪我人本人が気にする事なのか。
アーノンには。
(分んねぇよ……!)
頭では分っている。けれど心は悲痛に叫ぶ。
(なんであんたはっ!)
分りたくない、と幼い心は悲鳴を上げる。涙を流す。
(なんでそんな簡単に!)
アーノンが必死に凍りつかせた心を、どうしてこうもあっさりと溶かしてしまうのだろう。
時々痛みに小さく呻きながらも、ラシードの瞳は前を見据え続ける。
迷いの無い瞳は、ずっとずっと先を、見つめ続ける。
(どうして――っ!!)
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声にならない疑問を抱えながら、アーノンは必死に車を飛ばした。
指示された病院は寂れた様子の、木造の建物だった。看板の名前すら掲げておらず、どこをどう見ても時代遅れのアパートにしか見えない。ともすれば古い日本に見られそうな○○壮という名前が似合いそうな。
五月蝿い排気音に飛び出て来たのは、何故かロッシだった。
ロッシは助手席のラシードを見止めると、上着の上からも分る右腕の様子に驚きを隠せないまま、素早くドアを開けた。
「何でラシードさんが!?」
中身の無い袖口は、その惨事を糸も簡単に想像させる。
ラシードが舌打ちして車から降りると同時、更に病院から医師と思われる白衣を着た壮年の男が飛び出て、ラシードを促す。
「早く中へ、おい手術の用意!!」
「ロッシ、ジェロニモに連絡しとけ」
医師はけして成り行きを問おうとはしない。言葉少なにそれだけ言って、背後に居た看護師を伴ってすぐに建物の中へと消えた。
アーノンはハンドルに突っ伏して、煩く鳴り続ける自分の心臓の音を聞いていた。
ここに来て、震えが全身を走る。どっと噴出した汗に、戦慄く。
「おい、アーノン! どういう事だ!」
だが、現実はすぐにやってくる。アーノンを落ち着かせてはくれない。
今度は運転席を開けて、ロッシが怒鳴り込んできた。
「ロッシさんこそ、何でここに……」
のろのろと車を降りて、疲れた様子で前髪を掻き揚げるアーノンの顔を、ロッシは心配そうに覗き込んだ。
「何だよ、お前も怪我してんのか?」
「いえ、俺は……」
「なら良かった。怪我でもしようもんなら、ラシードさんに殺されたわ、オレら」
兎に角来い、と手首を引っ張られながら、アーノンは小首を傾げた。
「……え?」
「知らなかったとは言え、大変な仕事押し付けて悪い。ロイエットも、流石にびっくらしてたわ。お陰でオレもジオもラシードさんの鉄拳食らった」
まあ自分達が悪いんだけど、と苦笑するロッシがそのまま病院へと入っていく。
「オレがここに居るのは、ラシードさんに待機しとけって頼まれたからなんだよね。お前が怪我してたら運んで来るからって――あの人自ら助けに行くとは思わなかったけど。最悪お前が死んでたら、覚悟しろよってドスの利いた声で脅されて、こっちは気が気じゃねぇし。あんなあの人見たの始めてでびっくりしたけど」
早口で捲くし立てたロッシが、既に手術を開始したのだろう締め切った手術室の前のベンチにアーノンを掛けさせる。
「オレの事情はそんな。で、何があったの、あの腕」
ロッシを通り越して、手術中のランプが赤く点灯するのが目に入った。
そこでやっと大きく息を吐いたアーノンは、ランプの光を見つめながら事の様を語り出す。
自分で記憶を反芻するように、刻み込むように。
そうする程にラシードの不可解な行動に、ある仮定がチラついて苛立ちを覚えた。
それは今までの己らの関係を、反転させるようで。
一通り聞き終えたロッシが苦笑して言う言葉が、それを裏付ける。
「……どんだけ愛されてんだよ」
その瞬間、アーノンの中で、何かが終わりを告げた。
2008/11/08