91 赤信号、二人で渡れば恐くない。



aperitivo.02





6

 親の顔は、覚えてない。
 記憶の限りでは、気がついた時には路地裏に潜む浮浪者の中に居た。
 その中の誰かが親だったのかも知れないし、ただ捨てられたのかも知れぬ。
 当時は街の一角に浮浪者のスラムがあって、ゴミや段ボールを拾って来て、雨風しのぐ姿を真似た。誰も彼もが汚らしい格好をしていたが、世に疲れ切っているとか、陰気な印象は無かったように思う。
 スラムの人間は陽気で気さくで、アーノンとルーカを大変可愛がってくれた。大きな家族の様に協力し合って暮らしていたから、幼子であるアーノンとルーカは彼ら皆の息子のようにして、それなりに幸福に過ごす事が出来た。
 けれどそれも六つか七つの年に崩壊した。
 街の美観を害うという理由でスラムは強制的に閉鎖され、そこで暮らしていた住人も散り散りになるしかなかったのだ。
 それでも幼い二人は仲の良かった浮浪者と連れ立つ事が出来たので、僥倖だった。スラムの外を知らなかった二人だから、気の置ける彼らと色んな景色を見て旅をする様な生活は、逆に新鮮で楽しかった。
 浮浪者のネットワークは細いが縦横無尽に存在したから、何処に居ても衣食住にそれなりに困らないのは幸いだった。概ね浮浪者たちは、同じ立場の者に優しかったのだ。
 けれど家族として育ったスラムの浮浪者とは違って、時々アーノンとルーカを不穏な視線が襲う事があった。
 味気の無いがりがりで細い身体でも、その見目は十分に魅力的だ。相手が少年だという倫理の壁なんて飛び越えて、男達は双子を性欲処理の対象と捉えた。
 優しい手が一変、抗い得ない暴力になった。無理矢理に押さえ付けられ、圧し掛かった重さに、乱暴な挙動に、野卑た笑みに、獣のようなぎらついた瞳に、恐怖以外の感情は生まれなかった。
 その時の事を、二人は一生忘れないだろう。
 助けなんて無い。救いなんて無い。
 割り開かれた後孔の痛みが癒える日は無い。
 ただ搾取されるだけの人生を始めて呪い、神を詰った。
 行く末に男娼として働く未来があったとしても、その頃の双子はまだ純粋に、光の世界に満たされていた。
 だからこそ、突然に響いた瓦解音に耳を塞ぐ術さえ持たなくて。
 ただ、蹂躙される事を不幸と思う事しか出来なくて。
 
 あの頃、アーノンは何度、死を願っただろう。
 絶望の淵に立って、光が見えない闇の中で這い蹲って、何度死を夢見ただろう。
 全てに悲観して、それでも死を選ぶ自由さえ持たなくて、人形のように無抵抗に身体だけが犯される日々の中――アーノンは逃げる事すら忘れて。
 あの時。
 同じように悪意の底に叩き落されたルーカが。
 手を引いて逃げ出してくれなかったら。
 あの時。
 ただへらへらと笑うか、泣き喚く我侭な子供でしかなかった、無能な弟が。
 汚泥に沈みかけた自分を引き上げて、支えてくれなかったら。

 今、こうして、ここには居ない。
 今。
 生きたい、と。
 死にたくない、と。
 涙を流して。
 願う自分は居ない。

 アーノンは恐怖に歪んだ視界で、ルーカの笑顔を探した。
 無意識にルーカに助けを求めた。
 あの時の様に、自分を死の淵から助け起こしてくれまいか、と。
 愚鈍でしか無い、愚かで、浅はかで、煩わしいだけの、そう思っていた弟に――。
 震える唇は、言葉にならない名を呼んだ。


(――ルーカ!!)



 けれどそんなに都合の良い助けが無い事も、知っていた。
 ルーカは今頃恋人と一緒で、家にアーノンの姿が無い事も知らないのではないだろうか。
 だから、そんな風に、助けが期待できない事を知っていた。
 自分で道を切り開くしか無いのに、恐怖が勝って、アーノンは怯えて泣く事で精一杯だった。
 情けないと、一片だけ残った勇ましい自分が胸の内で吼えるけれど、何が出来るというのだろう。
 両の腕をそれぞれがっちりと固定され、二人の男に支えられる形で立っているアーノンの額に、目の前のディアボロが銃口を合わせる。
 ディアボロの口が動いた。
 けれど自分の心臓の音に耳を奪われるアーノンには、彼が何を言ったのか分らない。
 分らなかったけど。

 どれだけ待っても、アーノンの意識は刈り取られる事が無く、銃口は火を噴く事も無かった。



 ――恐らくは地下への階段を走り降りているのだろう、カンカンという音がやけに五月蝿く響いた。
 今日は訪問者が多い日だ、とカードに夢中になっていたルッソファミリーの下っ端達は、煩わしげに顔を上げる。
 上階から差し込む明りを受けて降りてくる男は、シックな黒いコートを羽織った、けれど同業者としれる空気を纏っていた。
 見知らぬそれに、あいつは誰だと叫ぶ言葉も発す事が出来なかったのは、仲間の一人が突然背後に吹っ飛んだからだ。
 まだ階段を下りている最中で、近付いてさえ居ないというのに。
 攻撃を受けたのだろうという推測は出来ても、あまりに得体のしれないそれに、残った三人は致命的な遅れを取った。
 吹っ飛んだ仲間の腹部にめり込んだ缶コーヒーを見止めるまで動きを止めて、そのありえない攻撃力に目を剥いている間に、相手は三人に肉薄し、足蹴り三発で一人ずつ仕留めてみせた。
 派手な音が響く中、男は意識のある一人を引きずるようにして奥を目指した。
 片手はコートのポケットに突っ込んだまま、細い身体のどこにそんな力があるのかという程、簡単に大男を引っ張っていくその顔は、無表情だった。
 奥の扉が開いて、銃を手にした男が一人飛び出て来ようとするが、男は焦る様子も無い。
 右手で引き摺る相手の襟に力を込めると、またもや軽々と持ち上げて、自身を狙い澄ます男に投げつける。
 その動作一つ無駄が無い。
 驚愕の内仲間の重みに潰された扉の前の男が、部屋に雪崩れ込む。
 ディアボロと、男の瞳がかち合った。
「――なんだ、テメェは!!」
 倒れる二人組を跨いで、男はゆっくりと室内に入ってきた。
 緑がかった長い前髪の奥、理知的な灰色の瞳が光る。
 男は向けられた銃口を意にも介さず、部屋の隅に転がった少年をチラリと睥睨した。
 涙を流してへたり込んだ美貌の少年は、まだ息をしていた。
 その奇妙な闖入者のお陰で、首の皮が繋がった事をまだ知らない。
「ハバロのラシード」
 長いコートの裾を翻して、ディアボロに向き直った男は、静かに名乗りを上げる。
 ディアボロはそこで合点が言ったように笑った。
「ハバロ随一の頭脳か」
 ラシードという名のハバロの幹部は、名の知れた相手だった。なんたらという有名な大学を首席で卒業しながらもマフィアに入った変り種で、武力派勢力の多いハバロにあって唯一とも言える頭脳派だ。ハバロを敵に回す時点で、ディアボロにはラシードの情報が入っている。彼がどれだけ優秀か、知っている。
 だからと言って、幹部である。幹部とボスは同等では無い。それが例え敵対しているファミリーであってもだ。
「一人で乗り込む度胸は褒めてやる」
 ディアボロが銃をおろすが、代わりに前左右を残った三人が近距離で銃を構えた。コートのポケットに相変わらず手を突っ込んだラシードを、撃鉄を上げた三つの銃口が狙う。
 それでも、ラシードの表情は変わらない。紡がれる言葉も、声も、無機質だった。
「ウチの馬鹿の非礼を詫びる」
 ラシードの視線がジュラルミンケースの腕に移った。
「あんたの弟はまだ生きてるよ」
「何!?」
「幹部の一人が先走った真似をしたが、俺はこんな事許可した覚えは無い。――ボスの決定だから今更否とも言わんが。抗争は最早やむを得ない、」
 淡々と言葉を紡ぎながら、ラシードは、
「だが、そっちのガキは俺の所有物でね。ハバロには関係が無い。返してもらおうか」
 アーノンを指差しながら飄々と言ってのけた。白い手はとても戦う拳には見えなかったし、細い指は銃を握るのも似合わない風情だ。
 それなのに貫禄十分な風情を醸すラシードに、取り囲む三人の方は圧倒されていた。
「偉そうな口を叩きやがる」
 ディアボロだけが、生来の気質か、あるいは経験の差か、気圧された様子なく真っ向からラシードと対峙していた。
「弟が生きているなら幸いだがな、こっちゃあそれで、はいそうですかと答える気は更々無ぇ。もう沸騰しちまっててなぁ、そいつもお前も返す気はねぇな」
 腕が送られてきた事が既に、その舐められた状況が既に、ディアボロの逆鱗に触れている。
「それもそうだろう」
 首肯して、あっさりとラシードもそれを認めた。



「ウチの馬鹿の非礼を詫びる」
 聞き慣れた、感情というものが欠乏したかのような声色に、アーノンはゆっくりと思考を取り戻した。
 最初に目に入ったのは床の上でひっくり返った灰皿で、それからディアボロの殺気に満ちた視線と向けられた銃口を思い出して、ぶるりと震えが走った。
 思わず自分の肩を掻き抱いて、その身体が自由である事を不思議に思った。
 今の今まで両腕を戒められていた筈なのに?
「あんたの弟はまだ生きてるよ」
 声に導かれるように顔を上げて、その目に飛び込んで来たものに、アーノンは思わず目を剥いた。
(ラシード!?)
 あまりに驚いて涙も引っ込んだし、頭も冷えた。
 数日前から留守にしている筈のラシードが、何時もの黒い質素なコートに身を包んで、しかも何故か銃口に曝されている。
(どういう状態だ!?)
 最早アーノンの存在は忘れ去られたといっても過言でない。ただの傍観者と成り下がったアーノンは息を潜めて必死に状況を探った。
 続いた言葉からどうやら、ラシードが自身を助けに来たような気配が窺えて、更に呆気に取られてしまう。
 ありえない人物が、こんな時に、ヒーローのように現れて自分の命を救うなど、普段であれば有り得ない展開なのである。ラシードという人が、アーノンを助ける為だけに、たった一人で乗り込んでくる筈が無い――そう思ってそれが、自分の都合の良い妄想でしかないんじゃないかと不安になって。
 けれどディアボロの拒否の言葉が、また自分を奈落に落としていくものであったから。
 ただ都合の良いだけでないそれだったから。
 また少し希望を感じたりして。
 アーノンが我知らずラシードを凝視していると、その彼が常に無く優しく微笑んできたので、またもや有り得ない状況に地獄に舞い戻り。
 秘かにパニックを起こすアーノンの前で、ラシードはコートの中からある物を取り出した。
 それが、夢ではなくまごう事ない現実なのだとアーノンに知らしめた。
「……何のつもりだ」
 ディアボロまで、困惑に満ちた表情を浮かべていた。
 ラシードの手に握られるのは、彼が脇腹からズボンに突っ込んでいたのだろう――日本刀だ。
 ラシードが日本びいきだと知るのは、アーノンくらいでは無いだろうか。武士という存在の精神が素晴らしいのだ何だと、けして興奮しない口振りながらも訥々と語るラシードは記憶に珍しく無い。彼が趣味で日本刀を集めているというのも、ラシードの部屋で夜を明かす事もあるアーノンは知っていた。
 だから、そんなこの街でお目にかかれない代物を、こんな時に持ってくるような、アーノンにも予想出来ないような行動をもってして、それが現実なのだと思わせた。
「これでチャラにしてくれ」
 茫然と、誰もが立ち竦んだ。
 あまりにも。
 あまりにも、だ。
 ラシードの行動が、常軌を逸するものであったから。

 右腕を捲り上げると、白磁のような腕が現れる。筋張ったそれをディアボロの前のテーブルに乗せると、何時の間にか抜き放たれた日本刀が、ラシードの右腕の、手首と肘との調度中間に刃を乗せる。
(まさか、)
 凍りつく。
 時間が止まる。
 誰も、何も、言えない。
 ただ、彼の行動を見据える。

 躊躇いの無い左手が、刀を振り上げる。
「っラシード!!」
 叫び声にもぶれる事無く、ラシードの顔色を変えないまま、光を反射する磨きこまれた刀身が、その腕に沈んだ。





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2008/11/02