91 赤信号、二人で渡れば恐くない。



aperitivo.02





5

 件のカフェに辿り着くと、アーノンはそれなりの賑わいを見せる店内のレジへと真っ直ぐに向かった。
 レジカウンターの中で、笑顔の青年が言う。
「いらっしゃいませ、何か御用がおありですか?」
 アーノンは固い表情で頷いて、
「ファミリアからの使いで来ました」
アーノンの属する組織はハバロファミリーと呼ばれるが、敢えてファミリーとだけ名乗ったのは、ボスの意向に乗っての事だった。組織のテリトリーに侵入してきた相手を、あくまで格下と扱う為の。
 しかし恐らくはただのアルバイターであろう青年は笑みを顔に貼り付けたまま、何の感慨も無く答えた。
「裏口に従業員出入り口があります。そちらに回って下さい」
「分りました」
答えて、素直に踵を返すアーノンを、青年は接客用の挨拶で送り出した。
「ありがとうございました」

 裏口に回るとすぐにその扉が開いて、今度は見るからに人相の悪い男が、煙草を吸いながら顎をしゃくった。
 半歩分身体をずらしてアーノンが入り込む隙間を作ってくるので、アーノンはその隙間から男の脇を潜り抜けて店内に入った。
 すぐさま男は背を翻し、「ついて来い」と素っ気無く言って歩き出す。
 入った所は簡素な控え室で、扉が二つ。開け放たれたドアの向こうはロッカールームで、もう一つは閉ざされていた。ドアの横の丸窓からは白いコック服が動く姿が見えるので、恐らくはキッチンなのだろう。
 ロッカールームに入ると更に奥に扉があって、無人の部屋には何も無い。ただ階下へ続く階段だけが備わっていた。
 螺旋を描く階段を下りた先は薄暗く、天井から吊られたオレンジの丸電球に照らされた室内は煙草の煙に満たされていた。
 極少数の人間の気配と、煙草の匂いを感じながら長い階段をただ下っていく。
 無意識に前に回していたリュックサックを抱き締める。
 カツンカツンと男とアーノンの二人分の足音がやけにこだまして、その音に気付いた階下の四人組が、顔を上げた。
 電球の明りの下、木箱の上に腰掛けた四人組はカードゲームの真っ最中らしく、ちらりとこちらを見ただけで、すぐにゲームに戻った。
 負けているらしい男がカードを見つめながら舌打ちして、紫煙を吐き出した。
 アーノンは男の背を追いながら身を縮ませる。
 壁も床も天井も味気の無いコンクリートで、地下の駐車場のような雰囲気の寒々とした空間だった。広さは車が十台くらいは止められそうで、倉庫にでもしているのか、壁際にうず高く積まれたダンボールには有名なコーヒーメーカーの名前が記されていた。
 その一角に重厚な鉄扉が姿を現して、男は真っ直ぐにそちらへ向かうと、扉に開いた丸窓を叩いた。外からはスモークの張られた窓の中は窺えない作りになっているようだ。
 すぐに内側に開くような扉が開いて、男の顔を確認すると次いで大きく開いた。
「ボス、ハバロからの使いのガキが」
「ガキ?」
 男が入っていった扉から中の様子を伺いみると、中央のソファに悠々と座す男が見えた。葉巻を噛んだサングラスの男は、以外に若い。ボスと呼ばれたその男がサングラス越しに外のアーノンを見据えた。
「入れ」
 ごつい指輪を中指に嵌めたボスの手が、葉巻を灰皿に押し付けて消す。その手つきが苛立たしさを僅かに窺わせた。
 命じられてアーノンは、萎縮しながらも部屋に入る。
 その背後で重い扉が無機質な音を立てながら閉まると、逃げ道を塞ぐように一人が扉の前に立った。
 密室に敵ばかりが四人。けして歓迎されない訪問者となったアーノンを、高圧的な視線が襲った。
 唇を噛んで俯くと、ボス・ディアボロが笑った。
「ガキが使いたぁ、舐められたもんだな」
 同意を求めるようにアーノンを連れて来た短髪の男を見返る。その声も表情も、押し殺した怒りを上せていた。
 これまで男娼として相手をしてきた客の殆どは羽振りの良い子供嗜好のおじ様や一般人だった。時々マフィアに名を連ねる強面も居たが、客としてみるそれらはおよそ好意的だった。裏の世界に片足を突っ込んでいるといってもその程度であったから、今のようにマフィアと対峙する機会は終ぞ無かったし、これからもある筈が無かった。こんな風に自分の身や命が危険に曝される事なんて、露とも考えていなかったのに。
 これ程暴力的な視線など、アーノンは知らない。瞳だけで人を射殺せそうな悪意など、知らない。
 こんなにも殺伐した空気も。
 ハバロファミリーのボスと幹部と対峙した時も、あれとてひどい疲労と緊張を強いられたというのに、あそこにあったのはアーノンを検分するだけの視線だった。彼らにアーノンに対しての感情など一分も感じられなかった。ただ彼らはマフィアの幹部としてそこに存在しただけ。
 ただ存在するだけで、恐ろしい程の威圧感を放っていただけの。
 けれどこの場で感じるのは、アーノンを通して背後のファミリーに向けられた、殺意と憎悪。
 それが身震いする程恐ろしい。
 蛇に睨まれた蛙さながらに、逃げる術を失ってただ立ち竦む。
 さっさと用を済ませてこの場から立ち去りたい、と、震えだす身体を見っとも無い等とは思わずにアーノンの心が訴える。
 抗争の合否など知った事では無い。さっさとこの腕の中の荷物を渡して、逃げ帰りたい。
 ハバロファミリーのボスの思惑を悟った時は、自分の命を軽んじられた事に憤り、誰が思惑通りに従ってやるものかと思った。彼の考えに従えば恐らく待っているのは死であったから、長けた口八丁を使って出し抜いてやる気でいた。逃げる術など簡単に浮かぶと思っていた。
 けれど今、震える唇をやっと動かしてこう言うだけでやっとだった。
「……お届け、ものを……」
 乾いた喉から何とかそれだけ絞り出して、アーノンはリュックサックを慌てて探った。
 中から取り出したジュラルミンケースを、取り落としたリュックサックの代わりに胸に抱く。
 それをディアボロの目が命じるままにソファの前の机に乗せて後ずさって。
 用は終わだとばかりに、ディアボロを見つめる。
「運べと言われた、だけで……」
「鍵は」
薄い唇が紡ぎ落とした言葉を頭の中で反芻してから、アーノンは目を見開いた。
 コバルト・ブルーの瞳が限界まで見開かれる。
”カギ”。
「――あ」
 そうだ、カギ。
 ジュラルミンケースには二つ鍵穴があるが、閉ざされたそのケースの他に鍵を渡された記憶がアーノンには無い。
 完全に失念していたのはアーノンだけだろう。
 ハバロは、フェデリコは、敢えて鍵を渡さなかった。
 その表情を見て唇の端を引き上げたディアボロの空気が、更に淀んだ。
 その空気に呼応するように、背後に控えていた長身痩躯の優男が動く。
 乾いた音と弾丸を吐き出すサイレンサーを手に、二度引き金は引かれた。
 鍵をこじ開けたんだと認識する前に、ディアボロの足がジュラルミンケースを蹴り開けて、アーノンの視界に開いたケースの背が現れる。
 そして同時に、アーノンは膝から崩れて尻を突いた。
「……ボス……」
 控えめに呟いたソファの裏の優男の声音は厳しかった。
 何が起こったのか最早分らない。
 ただ、ディアボロの殺気が膨らんで、弾けた。気配だけで空気を切り裂いて、致命的な一撃を食らったかのような衝撃を、アーノンの身体は受けた。
 あまりの恐怖に、呻きが喉を漏れる。
 それを合図にしたかの様に、ディアボロが怒鳴った。
「どういう事だっ!!」
 いまや剣呑な雰囲気を纏うのはディアボロだけでは無かった。
 四人が四人とも憎悪と混乱を宿した瞳で、アーノンを見下ろしてくる。
 わけが分らずにアーノンは震える事しか出来ない。
 どういう事だ、等、アーノンの方が聞きたい。
 何をいきなりいきり立って、何がどうなって今、こんな風に殺意を向けられなければならないのだ。
 けれど声に出す事も出来ずに、アーノンはボスの次の言葉を待った。
 言葉の代わりに、ディアボロはジュラルミンケースの中身をアーノンにも見えるように反転させた。
 何とか立ち上がって、びくびくしながらも箱の中を覗き見る。
 ――目でしっかりと認識しているのに、すぐにはそれが何か考え付かなかった。
 初めに思い浮かんだのは
(何故こんな手の込んだものを作ったのだろう)
という疑問だ。
 柔らかそうなシルクの上に横たえられていたのは、精巧な人形の腕だった。肘から下あたりからのその白い腕は、武骨な作りから見て男の腕を模したものなのだろう。

 ――否。

 そこまで考えて、アーノンの顔が蒼白に染まった。
 まじまじと見つめていたその腕に、肌に、断面に、人体の特徴を見た。それが人工物ではなく、人の身体から切断された腕である事に、気付いてしまった。
 それは、人の、腕だ。
 透き通るように白い肌の下にうっすらと浮かぶ毛細血管、刻まれた皺、渦を巻く指紋に、爪の痛み具合といい、どう見ても人間の。
 胸元をせり上がった吐き気にたまらず口を押さえて後退すると、その身体を背中から押さえ付けられ、崩れ落ちそうになる身体を無理矢理支えられた。逸らそうとする顔を固定され、アーノンの眼前に腕が晒される。
「俺の弟の腕だ」
 静かに言うディアボロの声をどこか遠くに聞きながら、アーノンはケースの中の腕の中指にも、ディアボロと同様のごついシルバーリングが嵌っているのを観とめた。
 ハバロファミリーのテリトリーに侵入してきたルッソファミリーの事を、アーノンは詳しくは知らない。
 ただラシードがセックスの後に愚痴程度に呟いた内容だけが、記憶にある。
 ルッソの大本であるイタリアンマフィアはその中でも五指に入る組織で、アメリカの巨大組織と契りを結んでいる。ここ数年で派生したルッソファミリーが躍進しているのも、その巨大組織の後押しがあっての事だという。大元であるイタリアンマフィアの首領の息子兄弟がボスの座に着くルッソは、若いだけあってかなり精力的に活動しているようだ。
 それによって打撃を受けたハバロだが、巨大組織の参入を恐れてルッソを叩けないでいる――というのが、アーノンの知る唯一の情報だった。
 だからこそハバロとルッソの間に小さないざこざは起こっても、抗争には発展せずに鎮火してきたのだ。
「弟をどうした?」
「知らない!! お、俺は何も知りませんっ!」
 アーノンはディアボロを見つめて必死に弁明した。
「この中にこんなモノが入ってるのも、貴方の兄弟の事も、何も聞いてないんです! ただ届けて、それから――ルッソファミリーが戦争を始める気があるのか無いのか聞いて来いと言われただけで……!」
早口で捲くし立てると、背後からアーノンの顔を戒めていた男の指が緩んだ。顎に食い込む強い力は消えたのに、背中越しに感じる高圧的な雰囲気は消えない。
 ディアボロは鋭く呼気を吐いて、苦笑した。
「そうだろうな。――お前は下っ端だ。弟の行方なんざ知るはずがねぇ」
乾いた笑い声が室内にこだまする。
「ただ巻き込まれただけだ。同情すらする」
 けれど言葉程、声の質に優しさは含まれない。
 伏せた面からは窺えないが、ディアボロの身体から迸る冷気はアーノンの身体を凍り付かせる。
 パスっと空気の抜ける音がアーノンの耳を通り抜け、後方に備えられていた鏡が割れて砕け落ちる音に変わった。
 ガラガラと崩れ落ちる割れた鏡に、拳銃を構えるディアボロの姿が幾つも映る。
「だが、今は」
 ディアボロの手が小さく二回跳ねる。
 一つはアーノンのつま先近くの床を穿ち、もう一つは背後の壁に突き刺さった。
 硝煙を上げる拳銃が、アーノンに固定される。  最早声も無く、アーノンはか細く息を吸いながら、ただただ震えた。
 心臓ががんがんと鳴り響き、死の恐怖に全身の産毛が逆立っているのが分る。
 眦を涙が滑り落ちていく。
 歪んでいく視界で、ディアボロが吼えた。
「お前がっ!! ハバロにとって何の痛手でも無いこたぁ分ってる!」
立ち上がって苛立たしげに、机の上の灰皿を蹴り払う。ステンレスのそれから投げ出された灰が宙を舞い、床を跳ねた灰皿が五月蝿く鳴った。
「それでも、お前を殺さずにはいられねぇ!!」





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2008/10/08