91 赤信号、二人で渡れば恐くない。



aperitivo.02





4

 フェデリコの部下に送られて家に帰り着いたのは、調度深夜零時を回った頃だった。車を見送ってから、アパートを見上げる。
 アーノンとルーカの部屋は三階の角部屋だったが、明りがついている様子は無い。
 ギシギシと五月蝿い階段を忍び足で歩いて、立て付けの悪いドアを潜ってやっと、アーノンは大きく息を吐く。
 人の気配の無い部屋の電気をつけると、アーノンが今朝家を出た時と何ら変わりない状態だった。シンクの中の汚れた食器も、脱ぎ散らかして放り投げたベッドの上の服も、記憶のそれと寸分変わらない。
 ルーカが恋人の家へ遊びに出てから、丸三日が経過していた。
「こりゃ、今日も帰らないか……」
 何時もであれば万々歳、と思わないでもないルーカの留守が、今はあまり許容できない。
 一人が、居た堪れない。
 目の前の生活感溢れた自分の家さえ、なんだか他人の家みたいに感じられて落ち着かない。
 それもこれもが、抱えて帰ってきたジュラルミンケースの所為だと自覚はしている。
 クローゼットの中から褪せたリュックサックを引っ張り出して、ケースをその中にしまい込む。それをまたクローゼットの奥に押しやって、アーノンは後頭部を掻き毟った。
 これまで目立たないように、上手くやって来たつもりだった。ラシードのお気に入りというのは不測の事態があっての事だったけれど、ラシードが組織にとっては諸刃の剣同然であったから、その末端であるアーノン等他の幹部にとっても歯牙にもかからないような小物として扱われてきた。何より立場としてはただの男娼なのだ。
 男娼仲間の間でも孤立もしなければ、突出もしない。けれど必要以上に関わらないスタンスでやってきた。
 所詮集団の中の一人でしかなかった。
 それなりに居心地の良い場所で、衣食住に困らない生活。ルーカと二人路地裏で蹲って震えていた時代からは考えられない程、裕福な暮らしだった。
 だけれど。
 こうなってはもう、覚悟を決めなければならない。
 問題は、『明日』。それを乗り切って、抗争が始まり次第街を出よう。
 この微温湯に浸り続ける事が出来ないのなら、アーノンがここに留まる理由は無いのだから――。



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 街中に見慣れない顔が増えたと言っても、増えた連中はいかにもな外見をしていたから、誰も彼もが彼らを見つければ避けて通るのも簡単だった。
 けれどその二人組は、その中にあって異質だった。
 最初にその二人組が姿を現した時期は二つの組織の対立が激しくなっていた頃で、時期だけを考えればどちらかの組織に組していると思えなくもないのだが、そのどちらとも関わっている様子が全く無かった。
 彼らは街の宿を使っていなかったし、時折街にやって来てはふらりふらりと街を散策しているだけだった。とは言っても観光客のように街の様子を楽しむ、という風情は感じられない。そもそも観光地でもなければ特別何か突出したウリがあるわけでも無いから元々外から来る者はそう無かったし、あったとしても数日の内に姿を消すのが常である。だからといって何かや誰かを目的としてやって来たという様子も無く、本当にただ街を歩き回っているだけというおかしな二人組みだった。
 一人は質の良い服を常に纏っていて、都会の街並みが似合いそうな紳士的な雰囲気があった。物腰は穏やかで品があり、身のこなしもスマートだ。長い髪を後頭部で束ねた精悍な男に、街中の女は釘付けだった。
 一人は牙を隠した獣のようで、整った顔立ちながらも瞳に宿る狂気の色は隠しようも無く、悪辣な気配が目立った。こちらはマフィアの一人だと言われても誰もが納得出来たが、その男はまるで従者の如く先述した男と連れ立って居た。
 金持ちの放蕩息子と、狼さながらの護衛が気儘に旅でもしているような――異様な二人組への印象は、大体がそんな所で留まった。
 この日も二人は街の中をうろついた後、カフェテラスで遅い昼食を取っていた。
 黒髪の美丈夫は優雅な仕草でラテを啜りながら、思い出したように顔を上げた。
「そういえばね、クラウス」
「あん?」
クラウスと呼ばれた赤髪の従者もどきの男は、咥え煙草で明後日の方向を睨んでいた視線を不快そうに男に向けた。どう見ても十代半ばの頃合であるクラウスの右手には、日中だというのに酒を告いだグラスが握られている。
「この間、すっごい美人な双子を見つけたの」
 うっとりする程のハスキーな声が紡ぐオカマ口調は淀みない。
「美女?」
「んーん、男の子よ。それに少年ね」
「……それがどーしたってんだよ」
 少しの興味を帯びたクラウスの瞳は、男の返答にすぐに翳った。その様子を見るに、男の口調は常のものであるようだ。
「アタシの見立てでは、あれはイイ男になるわよ〜」
 テーブルに肘を突き、組んだ指の背に顎を乗せて、男は微笑む。
「片方は勝気な不良、片方は無邪気な子供って感じ? でもすっごい色気があってね、その青い目は人を引き付ける魔力を持ってるの」
「フレンツォ」
「アタシの第六感が疼くのよ。アレを、手に入れたいって」
「……フレンツォ」
「どんな風に育つのか、すっごい興味があるわ」
「――レンツォ!」
 再三の呼び掛けを無視していた男――フレンツォは、凄みを増す声音が愛称を乗せるてからやっと、小首を傾げた。
「何よ?」
 大の男を糸も簡単に竦み上げさせるクラウスの瞳に睨まれながらも、フレンツォは臆す所か気にする風も無い。
 クラウスは煙草の紫煙と共に大きなため息を吐き出すと、声音を落とした。
「目的を忘れるなよ」
「忘れてないわよ。いいじゃない、ヒマなんだから。暇潰しくらいさせて頂戴」
「暇潰しで済まなそうだから恐いんじゃねーか」
「あら、だって仕方無いでしょう? 目を付けちゃったんだから。それにあの子達、アタシの計画に役立ちそうだと思うの」
 そこで給仕が皿を回収にやって来たので、フレンツォは得てしたりと給仕の男に声を掛ける。
「ねぇ」
 男は「はい」と事務的に答えて、続いたフレンツォの言葉に僅かに顔を顰めた。
「この街に居る、双子の少年についてちょっと聞きたいんだけど」
「――双子の?」
 そこに浮かんだ感情が嫌悪の類であった事を、二人は見逃さない。
「そう、双子の。多分あれは銀髪碧眼ね。すっごい綺麗な子達で、片方は泣きボクロがあって、」
「……アーノンと、ルーカ、だと思いますよ」
「アーノンとルーカ? 有名なの?」
 すぐに返った答えに、フレンツォが微かに目を見開いた。ぎこちない微笑を浮かべる男が皿を回収して去り際、固い口調で言った。
「有名も何も、ファミリアの男娼です」
 フレンツォが給仕の背中が完全に消えた後も視線を返さないでいると、相方は楽しそうに笑った。
「そりゃ色気もある筈だわなぁ!」
残念でしたーっと勝ち誇ったように更に煙草に火をつけたクラウスを、振り返り様フレンツォは言う。
「だから?」
「諦めろ?」
「アタシが、そんな事気にすると思って?」
「兄貴が許さねーぞ」
「今回の事は、兄さんには関係無いわ」
 ちっとも堪えて無いという風に笑うフレンツォの顔が、邪悪な面を浮かべた。
「なおさら欲しくなっちゃった」
 意志の強い闇の色の瞳は、子供のようにキラキラ輝いている。おもちゃを見つけた子供がそれが欲しいのだと訴えるかのようなそれが、どれだけ頑なかをクラウスは長い付き合いで知っていた。こういう顔をした時のフレンツォが人の話に耳を傾けるとは到底思えない。
 クラウスが出来る事と言えばフレンツォの暴走を傍で眺めている事だけだ。そして如何なる事態に陥っても、クラウスの本分を真っ当するだけ。
「知らねぇぞ……」
煙草の端を苦く噛み潰しながらたったそれだけ呟いて、クラウスはウレンツォの望みを受け入れるしかなかった。
 その苦渋の選択等意にも介さず、恐らく耳にすら入れなかったのだろうフレンツォはクラウスの言葉が終わる前に立ち上がって、一目散に駆け出した。
「――って、オイ!! レンツォ!?」
 訝しむクラウスの叫びを背中に受けて、フレンツォの向かう先には――。

「ちょっと、そこの少年!! アーノン!」
「……あんた、誰?」
 アーノンにしてみれば、呼ばれたから振り返っただけの事だった。ところが振り返って見れば、呼び声の主はアーノンの見知らぬ男だったのだ。
 人目で街の人間ではないと分る雰囲気の男は、高級そうなスーツに身を包む。長い黒髪を後頭部で一つに纏めた男の首元で、彼の動きに合わせて馬のしっぽのような髪が艶めいて揺れる。色黒とまではいかないが健康的に日に焼けた肌の上の、黒い双眸は汚れた部分など一つも見出せない。雲の上の住人程に手の届かない、上流階級の男だとすぐに分る。
 今のアーノンにとっては、何時も以上に警戒を向ける相手だった。
 何しろアーノンが背負うリュックサックの中身は、抗争の材料なのだ。
「アタシはフレンツォ・ロッティ。フレンツォと呼んで頂戴」
 アーノンの怪訝な視線を真正面から受け止めながら、男は笑顔を作って言った。
 名乗られても困る、という風にあえてアーノンは
「何の様だよ、おっさん」
「おっさんて、アタシはまだ24よ!?」
失礼ねーと言いながら傷付いたように胸を押さえる彼を、アーノンは苛立たしげに見つめた。
「だから、な・ん・の・用だよっ!」
聞いてねぇし知らねぇよ、このカマ野郎! と、その不信な男を心中で罵倒してから、
「俺、急いでんだけどっ」
「あら、何処いくの? 送ってこうか?」
「いらねーよ!! 用が無いなら行っていいかよ!?」
 再三聞いた用件を、「ああ」とまるで今思い出したかのうように手を叩いて笑う男。
 いけ好かない態度の二枚目は、事もあろうに今一番聞きたくない答えを寄越した。
「あなた、幾ら?」
 それが何に対する問いなのか、アーノンには良く分った。女にも、ともすれば男にも困らない容姿の男が、その気になればどんな相手だって金に有無を言わせて買える男が、アーノンの身体を要求している――昨日までは安泰であった職業が一転、自身の身を危うくしているというのに、その申し出を受け入れる筈も無かった。
「っのカマ野郎! 幾ら積まれてもてめぇに掘られる気はねぇよ!!」
 男を鋭く睨み上げてそれだけ言い置くと、アーノンは背を翻して走り出した。

 その背を肩を竦めて見送ったフレンツォだったが、背後に馴染みの気配を感じて振り返る。
「聞いた? 調教し甲斐があると思わない?」
 ちっとも堪えた様子も無く、フレンツォは楽しそうに喉を鳴らした。
 しかしぶつかった黄土色の瞳が浮かべる真剣な色に、怪訝そうに首を傾げる。
「どしたの、クラウス」
 煙草を咥えた唇が何か言いたげに歪んで、アーノンの消えた路地裏を目の端に映しているクラウス。
 問い掛けにもしばし躊躇した後、低い声で応じた。
「あのガキ、血の匂いがした」






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2008/09/29