91 赤信号、二人で渡れば恐くない。



aperitivo.02





3

 センツァディーオを追う時、どうしても歩幅の違うアーノンは小走りで追う形になる。ろくでなしの名の通り、追者の事など一つも考えない態度で、「どこへ向かわれるんですか」などというアーノンの質問すら無視だ。
 地下バーへの階段を上り街路へ戻ると、黒いコートのポケットに両手を突っ込み乱暴な足取りで車道を突っ切ろうとする。車が走って来ているというのに全く気にしない様子で横断する彼を、アーノンは驚きを面に浮かべて見送った。
 急ブレーキで止まった車の運転手が当然の様に「死にたいのか」と叫ぼうと顔を出すと、それに向かって「てめぇ目玉ついてんのかよっ」と横暴な言動を吐き出す始末だ。明らかに非が自分にあるというのに、あまつさえ呆気に取られて固まるアーノンをやっと振り返ったと思えば、「さっさとついてこねぇか、のろま!」とのたまった。
 彼には逆らうべからずと早々に悟ったアーノンは、近くの駐車場まで駆け足で続いた。
 駐車場に入るとセンツァディーオは迷い無い足取りで一台の黒塗りの車の前まで向かうと、その助手席の窓を乱暴に叩いた。するとすぐに、運転席のドアが開いて男が飛び出てくる。
 センツァディーオよりもよっぽど強面の男だったが、いやに腰が低い。
「ディーオさん、早かったですね!!」
「いいからさっさと開けろ、うすのろ」
 四角四面の男は頭を引っ叩かれながらも、へらへらと頭を掻きながら後部のドアを開けた。――それぐらいなら自分でやれば良いものを、と思ってもアーノンはそんな愚かな言葉は口にしない。
 その様子を突っ立ってみていたアーノンにも、ろくでなしは矛を向けた。
「早く乗らねぇか!!」
言うが早いかアーノンの腕を強引に引っ張ると、車の中に蹴り入れた。
 顔面からざせきに突っ込み、腕やら足やらは狭い車内に引っ掛かる。ぞんざいな扱いにも程があった。
 センツァディーオが隣に乗り込み運転手が車を発進させる頃、冷えた頭はそろそろ限界を訴え出した。顔の筋肉が引き攣って歪な表情しか作れない。
 堪えろ、耐えろ、と自分に言い聞かせて、弟にはすぐさま短気を発揮するアーノンが必死に唇を噛んで、爆発しそうな感情を押さえ込んでいると。
「お前、運びはやった事あるか」
唐突にセンツァディーオが口を開いた。今まで何度アーノンが質問しようと無視であったにも関わらず、だ。
 それでもやっと仕事の話が聞けそうなので、アーノンは頷きながら答える。
「何度かは」
とは言っても、薬物はご法度にしている組織の中での運び屋業はそう難しいものでは無い。特別違法として引っ掛かるような代物は、銃器の類くらいか。但し警官に見咎められれば幹部の一人や二人が責任を負わないとならない様な場合もあったから、簡単と言い切れないのも確かだが。その特色上、運び屋はアーノン達のようにどの街でも違和感の無い子供が使われる事が多い。警備の目を欺くのも逃げおおせるのも小回りが利く子供の方だ。何より子供達はまだ組織の人員としては目を付けられていないのだ。
 アーノンとしては評価されるような仕事は好ましく無いので、運び屋としての仕事は他の子供達に譲ってしまう事が殆どだった。
「俺は適当なの見繕って来いって上に言われただけだからな、詳しい事は着いてから聞け。まだお前に決まるかもわからねぇが、俺の仕事は連れてくまでだ」
「……上って、ジェロニモさんですか?」
「ボスだ」
「!?」
 事も無げに吐かれた言葉に、アーノンは目を剥いた。
「ボ、ボスの仕事って事ですか!?」
「そうだ」
 そんな大事に巻き込まれる気は毛頭無い。そもそもアーノンら身売りの少年が、ボスに会う機会等一生無いのが普通なのだ。そんな機会は無い方がいい。少なくともアーノンの人生においては。
 混乱した頭は、
(っていうかこの人、意外に会話になるんだな)
等と明後日の事まで考え出す始末だ。
 何とか頭を振って、逃避しかけた思考を振り払う。
「無茶です、ムリです、無謀です!! 俺には荷が重っ」
「うるせぇ、黙れ!」
 アーノンの言葉を遮って、センツァディーオが怒鳴った。アーノンも運転手も貴方の方がうるさいです、とはけして言わない。
「時間がねぇんだよ、こっちは! 約束の時間は三十分後だ!」
 それも貴方の都合です、とはアーノンはけして言わない。酒なんて飲んでないでもっと探してれば良かったんじゃ?ともけして言わない。
「だからって、何で俺が……」
「ラシードにも、ロッシにも、ジオにも気に入られてんなら、問題無い。ついでにロイエットのお墨付だ」
 幹部を堂々と呼び捨てて、センツァディーオは声音を落とした。
「せいぜいボスにも気に入られて、俺の株を上げてくれよな、オイ?」
それこそ知った事じゃないと、喉の奥で引っ掛かった言葉をアーノンは噛み殺した。



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 緊張した面持ちで、アーノンは良く沈むソファに腰掛けていた。
 対面の社長イスには、葉巻を口にした小太りの――ボスの姿。そしてそのボスとアーノンとの間に掛けるのは五人の幹部の姿だった。ラシードとジェロニモの二人を除いた、酷く貫禄のある連中だ。
 センツァディーオは言葉通りにアーノンをボスの元に送り届けると、そのまま立ち去ってしまった。
 よってアーノンは頼る者も無く――最もセンツァディーオが残っていた所で助けになる筈も無いが――ただ勧められるがままにソファに腰掛ける事しか出来なかった。
 しかしその状態で誰彼一切口を開かず十数分も放置されてしまうと、どうにも落ち着けない。アーノンの緊張は極限まで達して倒れそうにまでなっていた。
 ボスが口を開かないとなると幹部達もそれに倣い、ただ黙々と煙草を吸い続けた。
 部屋中に煙が立ち込め、空気は灰色を纏う。緊張とその息苦しさに喉がからからに渇いていた。
 殊更大きく紫煙を吐き出して、ボスはやっと口を開いた。
「フェデリコ」
しかしそれはアーノンに当ててでは無く、左隣に掛けていた幹部に向けてのものであった。
 ボスの右腕であるフェデリコの名は、アーノンとて良く知っている。武装派としてかなり悪どい仕事をこなしているという一派で、抗争が起こると先陣を切る。厳しい顔には裂傷の跡が残っていた。
 フェデリコはボスの言葉に頷くと、背後に控えていた黒服の男に何事かを指示し、その男が奥の部屋に消えるとまた前を向いて黙った。
 すぐに奥の部屋が開き、男が正方形のジュラルミンケースを持って戻る。それから幹部が囲む長方形の机の真ん中に、厳かにケースを置いて壁際へ去った。
 その様子を黙ってみていたアーノンは、合点がいって背筋を伸ばした。
 センツァディーオの言っていた「運び」の仕事、そのブツがこれなのだろう。
 と言うことはボスのお眼鏡に適ったという事であり、アーノンの拒否権は完全に奪われたという事だ。
 ごくりと唾を飲み込んで、アーノンはケースを凝視した。
 シルバーのケースは小脇に抱えられるノートパソコン程度の大きさで、厚みも重さもそんなに無い。子供でも軽々と持ち運びは出来るだろう。
 ただジュラルミンケースを持つ子供などそう居ないのは確かだ。リュック等に入れて更に隠して持つのがベストだろうか。
 拒否権が無いのならば、完璧に仕事をこなす他ない。ボスの依頼である以上、失敗すれば命の保証は無いのだ。例えボスに許されたとして、組織の息が掛かった街で生きるには肩身が狭すぎる。
「これを運べば、良いんですね?」
 瞳は真っ直ぐボスへと向けて、言われる前に問いかけた。
 その淀みない瞳を、ボスは満足そうに見返して。微かに唇が笑みの形を作る。
「明日の午後二時」
 五人の幹部は値踏みするような、明け透けな視線をアーノンに投げ掛けている。
「場所はそう遠くない」
 淡々とした口調で、ボスの代わりにフェデリコが言う。
 そして届け先として告げられたのは、アーノン達の街から二駅先、最近出来たばかりのカフェだった。
 アーノンは言われるや、目を見開いた。
 昼下がりのカフェであれば、待ち合わせには最適ではある。衆目がある方が警官を欺きやすいので、今までの運び屋業でも落ち合う場所として指定される事は多かった。
 けれど告げられたカフェの名前が、アーノンの記憶間違いで無ければ組織と対立しているマフィアの本拠地である、という噂のあるカフェだった。表向きはカフェだが、地下では武器を貯蔵しているとも聞くし、売りの店だとも聞く。
「中身を見て相手が、開戦するか、退くか――その返答を持って、帰って来い」
 その言葉の持つ重要さに、アーノンは咄嗟に返事を忘れた。
 ボスの仕事という事だけでなく、いよいよ持って大事であった。
 つまりケースの中身は、抗争の切欠になりえるものだという事で――それを運ぶアーノンの身は常ならぬ程危険である、という事。
 そんな大事をただの男娼に勤めさせるのも、相手を軽んじている事を暗に語る為であろう。
(冗談じゃない……っ!!)
 言ってしまえばアーノンは、捨て駒だ。無事に帰ろうが、激昂した相手に切って捨てられようが、組織の腹は痛まない。むしろアーノンが撲殺されでもした方が、組織にとっては抗争の良い理由になるというわけである。そしてただの街民であるアーノンのような子供が殺されたとなれば、民衆の同情も買える――頭の悪い安易な考えだ、と思わざる得ないが、その実それがどれだけの効果をもたらすかも少し頭を働かせれば分る。
 アーノンは俯いて、唇を噛み締めた。
(だから、ラシードの姿が無いのか……っ!!)
 名ばかりの幹部であるジェロニモがこの場に居ない理由は納得が出来たが、ラシードの姿が無い事が、アーノンは最初から不思議でならなかった。
 ラシードであればこんな古臭い手法は一蹴するだろう。ラシードの唱えるマフィアの形は先進的で、ある種のビジネスと取れるようなものだ。暴力と悪意が全て、法などあって無いものという組織を完全に覆すような考え――それが頭の固い古参の幹部達には煙たがられていたし、ジェロニモの後押しが無ければ瓦解していたような派閥がラシード派であったから、組織の中での立場は酷く危うかった。それでもラシードの頭脳が、組織にとって無くてはならないものである、というのも事実――。
 抗争が始まってしまえば、ラシードも否を唱える事など出来ない。
 だから今、ラシードはここに居ないのだ。
「やってくれるな?」
 まるで路傍の草でも見るかのように、感情の無い瞳を向けながら、ボスが言う。否を許さないくせに尋ねる形を取った口調に、アーノンは彼らを喜ばせるだけだと知りながらも表情を歪める事しか出来なかった。
「ラシードさんのお許しが頂ければ、」
「私から言っておく」
 意味がないと知りながらの最後の抵抗は、呆気なく砕かれた――。






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2008/09/19