91 赤信号、二人で渡れば恐くない。



aperitivo.02





2

 しばらくの間、ラシードからの連絡は無かった。
 ルーカはそれを馬鹿みたいに素直に喜び、恋人の元に入り浸っていた。
 アーノンは何をするでも無く、街を徘徊した。
 仕事が無い、という事は、生活に困るという事である。畜生程度の蓄えは一月の家賃にもならない。部屋自体組織から賄われているもので住む場所にはけして困らないが、食費は自分達の体を売って稼いできたので、その仕事が得られないとなれば死活問題だ。
 こんな時はルーカの様に手軽な財布が居た方が便利だな――けしてルーカ自身がそういう考えで恋人を作っているわけでは無いが――とアーノンは独りごちた。
 それにしても最近の街は、物騒だった。
 新鋭のアメリカ系マフィアと古くからの、アーノン達が末端として働く組織との抗争は表面化していなかったが、暗雲となって街中を覆っているようだ。
 見慣れない顔の強面も増えた。
 その所為か街からは活気が消え、住人も剣呑な雰囲気を察してか足早に行き過ぎ、家と会社と所用との往復をしているだけに見えた。
 アーノンが何時も餌とするようなチンピラすらナリを潜めた結果、アーノンにとっての憂さ晴らしは皆無と言えよう。
 行き着けの地下バーに入ると、見るからに子供のアーノンは場違いというにも関わらず、顔見知りのバーテンダーが軽く会釈して来た。
 奥からはマスターが顔を出して、「おや」という風に片眉を上げた。
「久し振りだね、アーノン。何か飲む?」
「テキーラ」
「了解」
 子供に勧めるような酒ではけして無いのだが、これももう暗黙の了解というやつだ。元来未成年の飲酒に関して寛容なお国柄であるし、アーノンは何十人と居る中の一人であってもマフィアの一員だ。街を取り仕切る組織に対して、叛旗を翻すような素振を見せる店などこの街には一つとして無かった。
 マスター自ら酒を注ぎ、アーノンに差し出してみせる。
「顔色良くないね」
 続け様に出されるのはトマトのパスタだ。
「サービスだよ」
「ありがと」
 トマトソースに和えただけという簡単なものだったけれど、空腹を訴える身には十分すぎるくらい有難かった。
 アーノンが無心でパスタにあり付くのをしばらく笑顔で見ていたマスターだったが、
「ゆっくりしてってくれ」
多忙の彼は言って、手を上げて去っていく。
 変わりにアーノンの前を陣取ったのは、こちらも顔馴染みのバーテンダーだった。
「調子はどうだ?」
 イタリア男ならではの陽気な風情を醸しながら、濃藍の瞳を眇めて見せる。
「見た通り」
 しかし男を見ることも無く、アーノンは素っ気無く言った。元々こういった底抜けに明るいタイプは好きじゃない。
 一度か二度、買われた事があるが、仕事で無ければお近付きにもなりたくない。
「久し振りに今晩どう?」
「真面目に仕事しなよ」
 男の誘いを瞬間的に切り捨てると、男は白い歯を剥いて笑った。
「はは、相変わらずつれないなっ」
降参するように両手を上げて言いながらも、アーノンを見つめる瞳には熱が篭ったままだ。
 いいおっさんが子供相手に欲望丸出しでみっともねぇと内心舌打ちするアーノンは、自分がそういう相手を仕事に選んでいるという事は棚上げだ。
 それでも顔も体も中途半端なくせに自信満々な所が、その男を嫌悪する最たる部分だったので、微妙な誘い文句にも欲情する瞳も目障りでしか無い。
「でも組織の内情はこっちも知ってるんだぜ? そんな青白い顔して、断っちまって大丈夫か」
「……それが?」
 脅しのつもりなのだろう、勝ち誇った相手を睨み据えながら一蹴する。この回りくどい遣り口も気に食わないのだ。
 アーノンは不機嫌に言った。
「安月給にたかる程落ちてない」
「じゃ、お前の言い値で買ってもいい」
「御免だね」
 カウンターに上半身を乗り上げて伸ばして来た男の手を避けるように体を仰け反ると、男は更に興奮したようだった。
 追うのが好きなのか、と悟り、自分の今までの行動が逆効果だった事を知る。
 ――が、男はそこで、不恰好な木偶人形の様に、まるでぎしりと音が鳴りそうな不自然な挙動で動きを止めた。
 首を傾げながら男を見ると、その視線がアーノンの後ろ、更に上の方で凍りついた。
「お、お邪魔ですね……」
 引き攣った笑いを浮かべて頭を掻く男は、どうやらアーノンの背後の人間に向かって言うと、そそくさとバックへと入ってしまう。
 アーノンはその救世主を振り仰ぐ。
「……ジオ、さん……」
 黒いスーツを着崩した坊主頭が、それらしき風情のある顔で顎をしゃくった。
「いらっしゃってたんですね」
 慌てて席を立ち軽く頭を下げながらアーノンは言う。
 ジオという壮年の男は、煙草を胸ポケットから取り出しながら小さく笑った。ライターの火が闇の中で揺らめく。
「おう、ちょっと顔貸せ」
 幹部候補であるジオは、アーノンにとっては上司だ。
 アーノンが組する組織では幹部と呼ばれる派閥が七つある。その一つを組織する幹部がラシードで、ジオはラシード派の幹部候補の筆頭だ。武力勢力で知られるジオはアーノンにとって直属の上司では無い。アーノン達身売りを含む子供勢を管理するのはまた違った幹部候補の男だ。
 それでもラシード派のアーノンにとってはジオも頭の上がらない相手であるには違いなかった。
 言われて断るわけにも行かず、奥へ向かうジオに従う。
 入り口を入ってすぐのバーカウンターは、どちらかというと一般の客が多い。小さなフロアにはハイテーブルが犇き、しっとりとしたジャズが流れるこ洒落た雰囲気がある。けれど階段を更に降りたフロアは、ゆったりするというには危うい人相が多い。上のバーフロアから見下ろす形になるフロアはマフィアが好んで集まるので有名だ。バーフロアの床下のフロアは、更にどす黒く淀んだ空気を醸している。
 ジオはどうやらアーノンが普段寄り付きもしないその階下へ向かう様だった。
 最奥の一角でやっとジオは止まりソファに掛けると、今までジオの大きな背中で遮断されていたアーノンの視界が開けた。
 同じテーブルに掛けていたのは、三人の男だった。
 思わず背筋を伸ばしたアーノンの名を、一人が気軽に呼ぶ。
「アーノン、久し振りだな」
「お久し振りです、ロッシさん」
 固い面持ちで返すアーノンの手を強引に引いて、ロッシは自分とジオの隣にアーノンを腰掛けさせた。
「へぇ、このベベちゃんがラシードさんのお気に入り?」
 ロッシはラシード派の幹部候補で、アーノンの直属の上司の一人だ。彼らによってアーノンに仕事が回ってくる。
 残りの二人は見ない顔だが、ロッシとジオの態度を見る限り、どうやら同じ幹部候補の様だった。どちらも気兼ねない様子で卓を囲んでいる。
「俺はロイエット(弾丸)て呼ばれてる。で、こっちはセンツァディーオ(ろくでなし)、通称ディーオね」
「二人ともジェロニモさんとこの幹部候補だよ」
「……あ、はあ……」
 ロイエットとロッシは笑顔でそう紹介してくれたが、センツァディーオの刺す様な視線に射竦められてアーノンは居心地悪く頷いた。
 ジェロニモ、というのは組織のボスの息子だ。といっても放蕩息子と有名で組織には名だけ置いているという位置付けにある。そのジェロニモが次のボスの座を蹴ってラシードを推しているというのも有名な話で、ジェロニモ派とラシード派はとても仲が良い。
 その変わり者のジェロニモのお達しで彼の派閥の組員が通称で呼び合うというのもどうやら本当の様だ。
 言葉少ななジオはもうアーノンには興味無いという様子で煙草をふかしつつ、明後日の方向へ目をへやっている。
 一方ロイエットとロッシもアーノンそっちのけで何だか分らない話で盛り上がり始めてしまった。
 居た堪れない思いでソファに腰掛けながら、今だ自分を嘗め回すように――とは言っても好色なそれでは無い視線を向けてくるセンツァディーオに、アーノンは控えめな態で声を掛けた。
「あの、俺……に、何の用でしょうか?」
 センツァディーオはそれでも、アーノンの言葉に答えなかった。
 小馬鹿にするような薄笑いを浮かべて、アーノンからは視線を外さずにグラスの中の酒を煽る。飲み干したそれに、すかさずアーノンはボトルから酒を注ぐ。
「わーぉ、ベベちゃんやるーぅ」
からかいを含んで、ロイエットは手を叩いた。先程からアーノンをベベちゃん(赤ん坊)と呼ぶロイエットではあったが、彼よりよっぽどセンツァディーオの方が感じが悪い。
「当たり前でショ? ウチのカーポが直々に教えこんでんだよ?」
「で、ラシードさんがご執心だってのは本当なんだな?」
「そうだよ」
 話に入ってくれたのは有難い事だが結局何の答えにもなっていない上に、当事者のアーノンは更に居心地が悪くなって曖昧に笑う他無い。
 ラシードがアーノンに目を掛けている、というのは本当の事だとアーノン自身も自負していた。ラシードの相手は面倒ではあったが、気に入られないのと気に入られるのとでは話は違う。気に入られていた方が何かと得なのは事実だった。
 ラシードの好意は、アーノン自身というよりもアーノンの身体や顔や、それから抜け目の無さに向けられている。ラシードは時々、「幹部候補生にしてやってもいいぞ」と冗談とも本気とも付かない調子でアーノンに言うが、それこそがアーノンへの最大の賛辞だ。取引の材料でも、睦言の前の甘い囁きでも無く、ただ単純にアーノンを評価しての言葉。そしてアーノンがそれを「遠慮する」と拒否するのも決まりきった事で、ラシードは「残念だ」と笑って帰って行く。きっと承諾してしまえば楽なのだろうが、アーノンはマフィアという職業にどっぷり浸かるつもりは無い。生きていく手段として利用はしても、逃げられなくなるまで付き合うのは御免だった。
「でもあのラシードさんがねぇ……よっぽど具合がいいのかな?」
「下品な言い方すんじゃねー」
「まあ、でも……」
楽しそうな、でもどこか阿呆な会話を繰り広げる二人が、じっとアーノンを見つめた。値踏みするような目線で、ロイエットはにやりと笑みを作る。
「半端者にも見えねぇし、ラシードさんの秘蔵っ子でこの見た目なら都合がいいんじゃない?」
 なあ、ディーオ?と話を振られて、やっとセンツァディーオが口を開いた。
「……そうだな、いちお連れてってみるか」
口調は更に嫌悪感を持たせる類の、人を見下す気配がありありと窺えた。
 アーノンが首を傾げるのも知らず、残りの三人は胸を撫で下ろすような素振りを見せる。
 センツァディーオは立ち上がり、上着を羽織ながら言った。
「おい、小僧」
 淀んだ灰色の瞳がアーノンを見下ろす。
「はい」
 何とか答えて、アーノンも席を立った。その呼び方に苛立ちを覚えたものの、上手の相手に対して自分が座っていては失礼だと感じたのだ。その様子を隣のロッシがうんうんと頷いて見ていた。
「付いて来い、仕事をやる」
 背を向けてフロアを外へと進んでいくセンツァディーオを、ワケが分らないまま追う。
 背後でやけに明るいロイエットの声が、叫んだ。
「頑張ってね、ベベちゃん!」






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2008/09/01