91 赤信号、二人で渡れば恐くない。



aperitivo.02





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 もしこの場でフレンツォを殴り飛ばしたら、ジェロニモに迷惑がかかるだろうか――そんな事を本気で考えた時だった。
「つーか、いい加減にしろよフレンツォ。ふざけた事ばっか言ってっと話が進まねぇだろーが」
「まあ、クラウス。アタシの楽しみを奪うつもり?」
 からからと笑うフレンツォの手が肩から離れる。クラウスと呼ばれた赤髪は前髪を掻き揚げて、フレンツォの変わりに話を引き取った。
「レンツォは別に、お前らの身体に興味持ってるわけじゃねぇから、安心しろよ。物でも人でも綺麗なもんが好きな奴なだけで、そっちの趣味はねぇはずだ」
 するとフレンツォはクラウスの言葉に同意するように頷いた。
「アタシはね、薄汚い鼠は要らないの。生意気な野良猫なら大歓迎だけどね」
「はぁ?」
「つまりね……」
 そんな二人の遣り取りに柳眉を潜めれば、フレンツォはアーノンをルーカの傍に促しながら続ける。
 ロッティ家の始まりの土地、地元ではアルテジオ・ホームと呼ばれる街の話。田園に囲まれた長閑で優しくて、活気溢れるその街に、近い将来フレンツォはリストランテを開く心積もりでいるらしい。そしてそれはフレンツォが経営を担う、ロッティ家の経営とはまた違った趣味の店である、との事。外観から内装、スタッフまで、その全ての決定権をフレンツォが持つ、彼にとっては夢の事業――一つとして手を抜きたくないのだそうだ。
「それが、俺達にどう関係あんの」
 話の途中、意図を掴み損ねた短気者のアーノンは、話の腰を折るようにして不機嫌に言った。
 深い海の色の瞳は訝しげに瞬きを繰り返す。
「言ったでしょ、アタシは貴方達が気に入ったって」
「それは聞いたよ」
「アタシが作る予定のリストランテにはね、見た目も能力も最上のスタッフを雇うつもりよ。そこは欠かせない条件なの。そしてね、貴方達二人をぜひ、スタッフとして雇いたいの」
 唐突な申し出に、アーノンの唇がぱくつく。
「でもね、今の貴方達に到底最上の能力を求める事は出来ないでしょ? 幸いリストランテのオープンは数年後の話だし、それまでに貴方達には、必要な能力を身に着けて欲しいのよね。その為に必要だと思うから、まず学校にも行ってもらいたいし、それからシェフなりソムリエなりっていう専門的な分野に進んでもらいたいわ」
「……」
 絶句したままのアーノンを置き去りに、フレンツォの話はどんどん進む。ルーカが満面の笑みをたたえているという事は、彼にとっては既知の事なのだろう。
「貴方達13歳なんだってね? とりあえずハイスクールまでは卒業して欲しいんだけど、それまでには家庭教師でもつけて学んでもらうわ。覚える事も沢山あるからきついでしょうけど、その代わり衣食住と学費はこちらで面倒見るし、どうかしら?」
 そんな美味しい話があって良いのだろうか。たとえ彼の言うように自分達の見目が最上と呼ばれる部類に入るとしても、成功するかも知れないことにわざわざ金を使う程の価値があるのだろうか。そのリスクを考えれば、最初から両者を備えている者を見つけた方が早いだろうに。
 同じような事をアーノンとルーカの双子を拾ったラシードもしたが、彼の場合すぐに利益が入って来たのだから、リスクがあったとは言えないだろう。
 それが衣食住の面倒だけでなく、学費などの高額な費用も払う? ある意味では金を溝に捨てるようなものだ。
 見目を気に入っただけ? 数度言葉を交わしただけの自分達を、そこまで信頼出来るのか?
 アーノンにはどうしても裏があるようにしか思えない。
「アーノン、すごくない!? 学校だって!!」
 それなの片割れは無邪気に喜んで、瞳をキラキラと輝かせている。
 そんな様子をにこにこと見つめるフレンツォを観察するように黙り込む。
「ねぇね、フレンツォ。ところでソムリエって何?」
「食事に合ったワインをお客様にお勧めする役割ね。簡単に感じるけど覚えるべき知識は盛り沢山よ。興味ある?」
「僕不器用だから。料理とかは何時もアーノンにまかせっぱなしだし、たまにキッチン使うとアーノンに怒られたりするから……シェフよりはいいかなぁとか」
「まあ!」
 フレンツォは始終楽しそうにルーカの話を聞いていた。
「あとは給仕の仕事もあるわよ。ルーカも外食する時に見るでしょう? フロアで食事を運んだり会計をしたり――貴方達の美貌を、裏方の仕事で隠しちゃうのはもったいないから、アタシはソムリエやカメリエーレを推奨するわ」
「楽しそうだね!!」
「そう思ってもらえると嬉しいわね」
 アーノンはそんな二人の会話を耳に入れながら、黙考する。話はリストランテの事だけでなくアルテジオ・ホームと呼ばれるロッティ家発祥の地の話や、アルテジオ・ロッティという祖先にも及んでいる。
 願っても無い申し出だとは感じた。街を出ると決めたからといって、その後自分達の行く末たるは暗雲が広がるばかり。まだ13歳という年齢であるから、勿論仕事が出来よう筈も無いし、アパートメントを借りる事も出来ない。結局の所また身体を売って暮らす羽目にはなるだろう。昔よりはマシかもしれないが、浮浪者として街を徘徊するくらいしかきっと出来ない。
 それでももうマフィアには関わりたくない、それだけは確かだ。
 けれど目の前に居るフレンツォを、どこまで信用していいものか。
「信用出来ない?」
 ふいに視線を向けてきたフレンツォが、見透かすように言ってくる。少しだけ意地悪げに細まる瞳を見返しながら、アーノンは、
「勿論です」
 返した途端
「アーノン!!」「あっはっは!」
ルーカの叱責とフレンツォの愉快な笑い声が重なった。
「いいわ、アーノン! 貴方のそういうとこ、本当大好き!」
 フレンツォが強い力でアーノンの背中を叩きながら、抱きついてくる。
「でもね、得策じゃないわ。貴方はこの手を取るべきよ」
「……信用出来ない人間の手でも?」
「そうよ。それだからこそ利用してしまいなさい。貴方達が真っ当に生きていく為のチャンスとして」
 フレンツォが抱きしめる腕の力を緩める。至近距離で向かい合う瞳は、優しく微笑んでいた。
「アタシだって何も無意味な事を言ってるんじゃない。貴方達の未来を買うって言ってるのよ。仮にアーノンがバンドマンになりたいとか、政治家になりたいなんて夢をこの先持っても、叶わない。逃がさない。アタシは例え貴方達がこけたって採算を取る方法はいくらもある。でも貴方達はこの先の長い未来を、自由を、失うって事――リスクが高いのはどっち?」
 言う事に容赦が無い。どこかラシードに似ているな、と、見目も性格も似つかない相手を前にしてアーノンは思った。
「これは意味のある投資よ」
 それでもアーノンが踏み出せない理由は、もう一つ。
 アーノンは苦々しい思いで口を開く。
「あんたと俺達じゃ、住む世界が違い過ぎるだろ……」
 フレンツォの示してくれる未来は、真っ当過ぎて足が竦む。彼の過ごしてきた生活が彼の言葉の端々から窺えるけれど、それは綺麗で優しくて暖かい世界だ。自分達の今までとはかけ離れている。
 何も持つ事を許されない、搾取され続けた人生にうんざりした。死んだ方が楽だと思う事も幾度もあった。何もかもを捨てて逃げ出したいと切望した。
 けれどいざ、未来が開けば恐くなる。
 考えを覆される。夢を見たくなる。希望を持ちたくなる。そんな風に全てが変わっていくのが恐い。
 知らない世界に飛び込む勇気を、アーノンは持たない。ルーカの様に無邪気に受け入れる事なんて出来ない。
 頭でっかちなだけだと言われても。
 フレンツォの描く未来は美しい。語ってくれる故郷の風景は、長閑で暖かい情景をアーノンにも想像させた。けれどそこに、フレンツォが経営するだろうリストランテのフロアに自分が立つ姿は全く浮かんでこない。例えば学校とやらに通って、同年代の子供達と机を並べる様子も。
 ちっとも現実感が無い。
 アーノンはフレンツォの腕から逃れるように後ずさった。
「無理だ……」
 呟くように答えれば、フレンツォが不思議そうに首を傾げる。
 光り輝いた道を生きて来たフレンツォには分からないのだろう、そう思うと笑えた。唇は皮肉を含んで歪む。
 フレンツォとアーノンを隔てるように、窓から注ぐ陽光に部屋は光と闇の二つの世界を作る。ベッドの柱がその世界を別つように濃い影を床に落としていた。
 自分には、こちらの世界が相応しい。
 ルーカに視線をやって目を眇める。白いベッドに沈むルーカは、明るい日差しを受けて生き生きと瞳を輝かせている。
 ルーカなら、生きていける。光の道を歩いていける。純粋で穏やかで、けして汚れない真白な心は、きっとすぐにでも馴染むだろう。
「よく分からないけど」
 フレンツォが伸ばしてきた手を避けるように更に後ずされば、彼はためらう事も無くアーノンが境界線と感じたポールの影を簡単に越えてやって来た。
「貴方の言う境界線なんて、こんなもんよ。一歩踏み出すだけで行ったり来たり出来る」
 分からないと言いながら、アーノンが言葉にしなかった思いを指摘するフレンツォが、暗闇の中で笑った。
「クラウスなんて貴方よりよっぽどそっちの世界に嵌ってる。今だって、裏と面を自由に徘徊してる」
 背後で「ほっとけ」と不機嫌な声が呻った。
 ああそういえば彼は、どう見てもフレンツォの持つ空気とは相容れない。
「大事なのは、自分がどっちに居たいかでしょ」

 ダイジナノハ。

 手首を引っ張れられ、アーノンの身体は何の抵抗も無く境界線を越える。

 ジブンガ、ドチラニイタイカ。

 フレンツォの胸にすっぽりと収まって、また抱きしめられた。力強く打つフレンツォの心臓の音が耳に響く。
 すとんと、何かが自分の胸を滑り落ちた音がした。
「……借りは、返す主義でね」
 掠れた声で、アーノンはそれだけ呟いた。

 そうして二人は、フレンツォの手を取って街を出る。



 ――片腕の男がファミリーを継いだのを知るのは、数年後の話。


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 後悔は無い。
 今は、そう思える。
 あの過去があったから今があり、アーノンとルーカはかけがえの無い人に出会った。
 後悔は、無い。
 誰かに後指さされる過去でも。

 ただただ、感謝している。





fin.





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2009/03/16