91 赤信号、二人で渡れば恐くない。



aperitivo.02





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 形ばかりの見舞い、と花束を持ってラシードの病室へ向かうと、そこは既に見舞いの品で溢れんばかりになっていた。果物の篭に、この度発覚したラシードの日本びいきの故か、彼がディアボロの元に愛刀を置いてきたと零した故か、病室には似合わない類のものまで置かれている。壁際で存在を主張している甲冑に軽い眩暈を感じ、アーノンは病室に入るなり額を押さえた。
 ルーカの方に付っきりでラシードの元を訪れたのは、彼が入院した翌日で、その時にはこんな有様では無かったのに。
 ただ一人の病室の住人は辺りの様子など目もくれないで、扉の前で固まっているアーノンを見据えていた。
 彼が手を払えば、見舞い客であった者達はすぐさま部屋を出て行く。
「……別に、いいのに」
 ラシードに話があってやってきたというのに、二人きりにされると途端に居心地が悪くなってしまう。
 アーノンはラシードのベッドに歩み寄りながら、低く呟いた。
「邪魔者は居ない方が良い」
 サイドの丸椅子に掛けると、ラシードの右手が伸びてきてアーノンの手を掬い取る。
「……あっそ」
「ルーカは、大丈夫か」
「うん。もう元気。――あんたは?」
 白を基調とした室内に白い病人服を着たラシードには、違和感を感じてしまう。彼の部屋は打ちっぱなしのコンクリートと黒とシルバーで質素に纏められていて、彼自身の雰囲気と共に寒々とした印象しかなかった。ラシード自身が黒を好む所為か着衣も暗黒色ばかりに見慣れているせいか、窓からの明るい光の中に存在するラシードは、アーノンの知らないそれのようだった。
 緑がかった黒いざんばら髪が日の光を浴びて、明るい木々の色に見えるのもその一端だ。
 長い前髪の隙間から僅かに除く鼠色の瞳は、瞬きもせずアーノンを見つめているようだった。
「どう見える?」
 問いに問いを返され、アーノンは逡巡してから答える。
「元気そう、だ」
「じゃあそうなんだろう」
 単調な会話も何時も通りだ。
 声音に起伏が乏しいから、どうやっても盛り上がった会話にはならないのが常の事。アーノンの言葉もつられてぶっきら棒になる。
「そうって、自分の事だろ」
 肩を竦めてみせる仕草。何時ものラシードであれば纏わない柔らかい雰囲気。寛いだ様子。そのどれもがアーノンの知らない彼だった。
 左の袖が、開け放たれた窓から吹き込んだ強い風に、まるで今にも飛んでいきそうな程はためいた。
 ――ラシードは、義手をつけ無い事に決めたらしい。
 人工とは言え、その技術が生み出された頃とは格段に進化した今となっては、神経を繋げて作られる義手はすぐに人体に馴染むらしい。脳からの伝達にコンマ何秒という差異は生まれても、元々のそれと同等の働きは出来るというのに――ラシードは頑なに、義手を拒んだ。
 繋ぎ目さえ綺麗に整形してしまえば、人の目では人工かどうかなど分からない。それでも本人にとっては喪ったものは戻らない。もうその時点で自分の体ではなくなる。
「俺が自分で選んだんだ」
 どんな顔で彼の左腕を凝視していたのか、ラシードの声に呼び戻されたアーノンにはすぐに理解できた。
 思わず視線を上げて、かちあう瞳から彼の思いを感じようと試みるが、その目には何の感情も読み出せない。
「たかが腕だ。何の枷にもならない」
 たかがといえてしまう程簡単なものか? 思わず皮肉んだ笑みが上る。
「何も変わらない」
 何をするにも不便で無いと?
「そうだろう? 腕代わりは誰でも出来る」
 荷物を運ぶのも、扉を開けるのも、煙草に火をつけるのも、食事だろうが、着替えだろうが。
 そういう風に人を使える立場だからと?
 慰めのつもりなのか、いやに饒舌にラシードが紡ぐ。
「困るとすれば、セックスの時くらいのもんだ」
流石の俺でも情事に第三者が居るのは御免だ、と、軽く笑う。何時もなら口にしない軽口に、アーノンの胸には苛立ちが募った。
 ラシードはそうする事で、何時もの二人を取り戻そうとする。
 アーノンが何時もの様に短気を発揮して、怒鳴るのを。もういい、と呻ってそっぽを向くのを。阿呆らしいと、諦めたように笑うのを。勝手にしろと、踵を返すのを。
 何時もの空気を取り戻そうとする。
 分かっていながらアーノンは、ラシードの言葉を断ち切るようにして、黙ってそれを聞いていた。
 口を開けば多分、ラシードの望むように詰るか馬鹿にするかの言葉しか出ない。
 数秒が、何時間ものように長く感じられた。
 アーノンは大きく息を吸い込んで、真っ直ぐにラシードを見つめた。
 こんなにも穏やかな気持ちで、揺らぎもなく、ラシードを見つめるのはどれくらい振りだろう。
「ラシード」
 躊躇い無く名前を呼べば、ラシードは諦めたように嘆息した。
 ああ、この人はこんなにも、人間だった。
 機械みたいに正確で、感情の乏しい、愛も理性も持ち合わせていない、異邦人。そんな人だと感じていたのは、アーノンが目を逸らしていたからなのか。
「俺とルーカは、街を出るよ」
 薙いだ海のようにただ静かに、アーノンは言う。
「あんたには、感謝してる」
「いい」
 けれど繋げた言葉を無理矢理、ラシードが切り捨てた。
「聞きたい事は、もう無い」
 上司の目に戻って、冷たい視線がアーノンを射抜く。
「……じゃあ、俺は、もう行く」
 だからアーノンも、言いたい事は、伝えたい事は、身の内から溢れるように生まれたけれど、そのどれもがこの場に相応しくないと分かって。
 ただ立ち上がって、踵を返した。
「元気でやれ」
「あんたもな」
 曖昧に始まった関係だから、こんな終わりが相応しいのかも知れない。別れの言葉も感謝も、謝罪も、その何一つが口を出れば、ただの音にしかならない。滑り落ちて拾われないまま、ただ風に飛ばされて消えるようなものにしかならない。
 一時温もりを共有して、触れ合っただけの事。
 お互いがお互いの中にある孤独に、少しだけ彩を添えただけの事。
 手を離しても、何ら変わらない。
 歩いていける。

 愛なんて、二人の間に存在しなかった。

 扉を閉めて、アーノンは笑った。
 眦を零れ落ちた雫が、何故だか無性に愛しかった――。


---------------


 ラシードの病室に別れを告げて次に向かった所は、愛着のある家だった。
 思えば自分達が家を持ったのは始めての事だったんだ、とそう考えれば感慨も一入だ。ファミリアに荒らされて殆どのものがもう用を成さず、運び出すようなものは既にジェロニモの倉庫へ避難済みだった。
 荒らされたままの部屋を眺める。褪せた色の壁紙、寝室の天井にはルーカが恐いといって泣いた事のある、髑髏にも見える染みがある。寝相の悪いアーノンがどんなに寝返りを打っても転げ落ちる事の無かったキングサイズのベッドに、80年代の無駄に大きな箱型のテレビ。アーノンが秘かに集めていたクラッシックのレコード。積み上げられた漫画雑誌。猫足のバスタブではルーカが何時も泡風呂を用意してはしゃいでいたのを思い出す。
 自分達が始めて持った、家。始めて寒さと飢えに苦しむ事無く、心安く眠れた家。何時だって二人を迎えてくれた家。
(さよなら)
 声に出さずに心の中で呟いた。
(いってらっしゃい)
と、答えが返って来た気がした。


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 ぶつくさと文句を言う不機嫌な運転手に帰宅を伝えると、彼は猛スピードで車を走らせてあっという間にジェロニモの倉庫へアーノンを送り返してくれた。その後アーノンを降ろした彼は、繁華街の方向へと消えていったが。
 アーノンが真っ直ぐルーカの部屋へ向かうと、部屋には客人が居るようだった。
「ただいまー」
と控え目に呟いて静かにドアを開けると、一番に目に入ったのは壁にもたれる赤髪の青年だった。獰猛な瞳がちらりとアーノンを見、会釈を返すアーノンに頷くようにして応えた。ひどく殺伐とした雰囲気を纏っていたが、もうそういう相手にはここ最近慣れた。ジェロニモの部下か何かだろうと踏んで、その向こうで手を振っているジェロニモにも頭を下げた。
 どうやら邪魔では無いらしい、と手持ち無沙汰に室内に入り、天蓋付きのベッドに何気なしに目線をやる。
「……」
 予想外の男が、ルーカと楽しそうに談笑していた。
「!!」
 忘れもしない、艶やかな馬の尻尾のような黒髪。上質なスーツを着こなす引き締まった長身、その上の整った顔。
「あんたっ!!」
 ぎょっと目を剥いて、アーノンは男を指差しながら叫んだ。
「あ、アーノン!」
 先に気付いたルーカが朗らかに笑う。
 それからゆっくりと振り返る男の顔には――自信に満ちた笑み。
「あら、おかえりなさい」
「なんであんたがココにいるんだよ、変態っ!!」
「あら、随分じゃな〜い?」
 立ち上がって歩み寄って来る相手に、アーノンは思わず後ずさった。
 邪悪な笑みが男の顔に浮かぶ。
「アーノン、何て事いうの!!」
 ルーカからは非難じみた叫びが上がる。ジェロニモと赤髪の青年は顔を合わせて、今にも笑い出しそうな口を押さえているが、アーノンからは勿論背後の事なので見えはしない。
「アタシはジェロニモの立派な客よ?」
「僕を助けてくれたんだよ!」
 ルーカと男を代わる代わるに見てから、アーノンは背後を振り返る。勢い良く振り返った形相が酷かったのか赤髪は吹き出し、ジェロニモは何とか声を拳で封じると、肩を震わしながら頷いた。
 それはどちらの言にも間違いないという事だろうか。
「貴方には一度名乗ったと思うけれど?」
「……覚えてるよ、フレンツォ――」
 嘲笑うかのような言葉に思わず応えて、はっとする。尻すぼみに続く言葉を消して、アーノンは男をまじまじと見た。
「……ロッティ……」
 ルッソファミリーを追ってやって来た、古くから続く有名な商家。裏稼業を持たない正規のルートで、多岐に渡る仕事を展開している。そしてハバロ・ファミリーとルッソ・ファミリーの抗争を止めたという、そのロッティ家の三男坊は一人のお供を連れているだけ。
 ロッティ家がどんなに有名だと言って、それがどれだけの規模なのか知る由も無い話だが、ただ今目の前で見るフレンツォ・ロッティには確かに王者の風格がある。
 それに、ルーカの話ではルーカを墓地の地下倉庫から助け出してくれた、一応の恩はある。
 一応というのはルーカと違ってアーノンには、そんな事になる前にさっさと片を付けてくれれば良かった――あるいは、ルッソをここまで逃走させていなければ良かったと、当然思ったからだ。阿呆のルーカはそこまで考えが至らなかったようだが、どちらかと言えば二人はロッティ家とルッソ・ファミリーのいざこざに巻き込まれたものなのだから。
「それで、そのフレンツォさんが、何の用でいらっしゃってるんですか?」
 アーノンはフレンツォに一睨み効かせてから、再度ジェロニモを振り返った。相変わらず壁の置物みたいになっている二人組は、まだ笑いが収まらないらしい。
「さあ、本人に聞いたらいいんじゃないかな?」
「はぁ?」
「用があるのは君達みたいだから」
 アーノンの肩に、ゆっくりと、けれど強い力を持ってフレンツォの手が置かれた。振り返る事も許さない力強さで、身体が固定される。
 耳元に、生温い吐息がかかって、アーノンの背中に鳥肌が立った。ぞわり、とした気持ち悪さが全身に広がる。
 くすり、と小さな笑い声が耳元でした。
「アタシ、貴方達が気に入ったの」
 言われた意味をすぐには理解できず、アーノンはしばしの間動けなかった。







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2009/03/05