91 赤信号、二人で渡れば恐くない。



aperitivo.02





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 アーノンが居心地が悪いと評したジェロニモの倉庫の子供部屋は、ルーカにとっては何だかとても居心地が良い場所だった。この部屋の用途はどうにも分からないが、自分達がもしまともな子供時代を過ごせたのなら、こういう部屋に暮らしていたのかなと、想像を膨らませられるくらいには楽しめた。
 最もどう見ても女の子供部屋である。
(本当に、どういう部屋なんだろう……)
 まだ傷は痛むが、順調な回復を見せるルーカは、部屋を見渡しながらそんな事を考えた。
(……エルネスト……)
 しかし思考は、唐突に愛しい人を脳裏に浮かべる。黒檀の瞳を思い出す。優しく名前を呼ばれる度、幸福に浸った日々。逞しい身体に抱かれて眠った夜。
 じわりと胸の内から湧き上がった感情に、ルーカは唇を噛んで自嘲した。そうして、肘を使って身体を起こしてから、ゆっくりと息を吸い込む。
 思い出される数日間は、僅かにルーカの動悸を早めた。それでも過去の経験故か、ただ単に図太いだけなのか、心に負った傷は身体の傷と共に癒えていく。
 傷は過去になり、思い出になり、記憶になる。
 たった数日前の事であるのに、恐怖の代名詞であるその傷はルーカにとって最早過去でしかなかった。

 エルネストに泣き縋って、彼の命の灯が消えないようにだけを祈って過ごした遅遅としか進まない時間。それがどれだけの時間か把握する事も出来ず、放置され続けた。エルネストのか細い息が途絶えない事にただただ安堵して、その不安に、恐怖に震えた。彼を失うかもしれないと思うと涙は止まらず、自分の先行きさえ見えない事に発狂した方がマシではないかと思えた。
 次第に思考は低迷し、視界は暗闇に飲まれ、虚ろな視線だけを部屋の隅に投げて。動きを止めた身体の代わりに心だけが悲鳴を上げていた。
 それから次の記憶では、見慣れない顔の男に覗き込まれていた。どうやら膝の上にルーカを乗せているらしい男は精悍な顔つきで、肩口で結んだ黒髪が胸に流れていた。意志の強い瞳の色はエルネストと同じ黒で、エルネストのそれより幾分か明るかった。
「ルーカ」
 優しい声に名前を呼ばれた。気遣う色が強かった。
 誰だろうと首を傾げたら、眩暈に襲われてうめき声が漏れた。
 慌てた男に抱え上げられて、その背後の男がエルネストに肩を貸しているのが見えた。うな垂れて力なく、ただ男に荷物のように引き摺られて。
 声にならない言葉でエルネストを呼ぶと、黒髪の男が小さく微笑んで。
「大丈夫、生きているわ」
「まったくしぶといね」
 しかしエルネストの傍らの赤髪は皮肉るように言って、口にした煙草を噛んだ。青年と呼ぶにはまだ幼い赤髪の男は、獣のように鋭い瞳をルーカに向ける。
 ルーカは思わず、悲鳴に喉を詰まらせた。
 恐ろしい記憶が、痛みが、思い出された。赤髪の男の黄土色の瞳は、マフィアの男達にも負けぬ温もりを持たない輝きを秘めて。
「大丈夫、心配しないで」
 強張ったルーカの背中を男の大きな掌がゆっくりと撫でた。耳元で囁かれる声はどこまでも優しくルーカの体に染み渡る。それだけで緊張は解けて行く。
 ルーカの表情から怯える色が消えたのを見て、男は背後を振り返って赤髪を睨んだ。
 赤髪は飄々とした態度で肩を竦めた後、幾分丁寧にエルネストを抱え上げた。意識の無い人間は何時も以上に重いときいた事があるが、赤髪は自分よりよっぽど体格のあるエルネストを苦もなく持ち上げている。
 その様子に呆気に取られている間に、男は開け放たれた扉から外に出ていってしまう。
 ルーカの不安を見てとってか、すかさず男が言う。
「病院に連れてかないと、危険だわ。勿論貴方も…だから安心して頂戴。あの子……クラウスはちょっと人相が悪いだけで、心配しているようなマフィアの人間では無いから」
ちょっと所では無い悪辣さではあったが、ルーカは何故だかすんなり男の言葉を受け入れて思うより早く頷いていた。
 男はあからさまにほっとした表情を浮かべて、ルーカに断ってからゆっくりと立ち上がる。ルーカはお姫様抱っこで室内から運び出された。
 闇に慣れた瞳には蛍光灯の明かりさえ眼に痛い。
 眩しさに目をすがめると、視界を遮るようにして男が顔を覗き込んでくる。
「本当にごめんなさいね……こんな事に巻き込んでしまって」
 申し訳なさそうに沈む表情。
「もっと早くに捕まえる事も出来たのに……一網打尽にしようなんて欲を出したせいで貴方を恐い目に合わせたわね。万が一があったらって思うとぞっとする。完全にワタシの落ち度よ」
悔しそうに唇を噛む男の言っている事が全く理解できず、ルーカは戸惑った。むしろ助け出してくれた事に感謝しているのに?
「貴方のお兄さんにも、申し訳なくて……」
「――アーノンを……?」
知っているのか、と続けた言葉は掠れて声にならなかった。男は小さく微笑んで、恐らく地上に続いているのだろう階段を昇り出した。
 かつかつ、という男の靴音が無機質な空間に奇妙な程反響する。
 次第に寒々しい鉄の壁から、土塊の壁へと階段が変わっていく。昇る程、篭った黴臭い空気が外の清涼なそれと混ざって、次第に冬の匂いへと変わる。
 長い階段を見上げていると、唐突に天井に終わりが来た。四角く切り取ったかのようなその先には、満天の星空が広がっている。
(……夜だ……)
 それでも空から注ぐ月明かりは十分な程辺りを明るく見せた。
 静かな夜の気配が濃い外界へ、男はためらう事なく踏み出した。
 瞬間、ルーカはぎょっと目を剥いた。
 見慣れた、とは言い難いが、そこはルーカとて良く知っている街の一角だった。それでも立ち寄る事はそう無い。特に夜のそれに近寄るには不気味が過ぎる。
 思わず男の肩口をぎゅっと握り締めると、男が歩みを緩めた。
「大丈夫?」
 心配そうに沈む声音に何とか頭を振るが、視界は通り過ぎていく背後に固定されたままだ。
 十字に切り出された白石の群は、月光を浴びて夜の中に浮き出ている。何十、何百ものそれが規則的に並んでいる。
 ――墓場だ。
 ルーカと男が出てきたのはその墓場の奥に位置する、地下への階段。一時の死体安置所として使用されたり、あるいは墓守が寝食に使うような簡素な部屋があったと記憶している。という事は、自分はもしかしたら、死体があったかもしれない部屋に閉じ込められていたのではないか――そう考え付いた時、背を恐怖以上の戦慄が駆け上った。
 何時か何かの映画で見た事があった。誘拐だったか取引だったのかその仔細は忘却の彼方だが、兎に角何らかの理由で男が一人、同じように墓地の用具置き場か何かの地下へ閉じ込められていた。墓地ともなれば好んで近付く輩は少ない。人目を憚る悪事を行うにはうってつけといって良かった。何より男は死を待つばかりの身で、死んだ男をすぐさま埋めて隠せる場所となれば一石二鳥というやつだった。
 その映画をアーノンと二人で見ていた時、ルーカにとっても人事で、「安易過ぎる」というアーノンに合わせて笑えるくらいだったのに。
 ともすれば自分も、死体となった折にはここの何処かに埋められる運命だったのかもしれない。
 そう考えると、今こうして外界に脱せた事はまさに幸運だった。
 ルーカの震えをどう取ったのか、男は控えめな手付きでルーカの背を撫でた。男の両肩にしがみ付く様な形で背後を見つめていたので、赤子があやされているような格好になっている。男の手は魔力でも持っているのか、不思議とルーカの気を落ち着かせた。
「ミスタ、ミスタ・ロッティ!」
 辺りを憚るようにして、ふいに男に声が掛けられて、男は歩みを止めた。
 駆け寄ってきたのは警官とスーツ姿の二人組みで、先頭のスーツは髭を蓄えた四十男だった。しかしその襟元には階級章と思われるものが数個光っており、すぐにそれが警察の、それも上位の相手だと知れる。
「ああ、そちらは終わったの?」
「ええ、万事滞りなく」
敬礼して姿勢を正す男に臆する事無く、ルーカを抱いたままの男は頷いた。
 ロッティ、と呼ばれていたようだ。
「クラウスは?」
「先程、エルネスト・ルッソを連れて病院に向われました」
「そう」
「そちらの……少年はいかがいたしますか?」
「勿論、病院に連れていくのに決まっているでしょう。見て分からないの」
淡々と答えていた男の声音が瞬時に低く研ぎ澄まされる。怒りを帯びたそれに、警官が息を呑むのが分かった。
「失礼しました。おい、お前、代わりにお運びしなさい!」
「はっ」
 慌てた上司に言われて一歩踏み出した警官を、
「いえ、結構」
 男は素気無く拒絶して、ルーカを抱いたまま二人を通り過ぎる。一瞬呆気に取られた二人がややあってから後を小走りについて来た。
「ごめんなさいね、ルーカ」
 ルーカに対する声音は優しいのに、背後の二人組みは脅えたような色を表情に上せている。
 ルーカは不思議に思いながら、億劫そうに数度頭を振った。
「いえ、あの……有難う、ございます……」
 やがて墓場を出たのか、外で待機していたらしい黒塗りの車が、先に回った警官の手によって開かれると、男はルーカを抱いたまま優雅な動作で車に乗り込んだ。
 程なくして車が走り出すと、男は気遣うようにルーカの肩を抱きながら
「……眠ってよいわ、もう恐いことは、何も無いから……」
 魔法使いの声は、ただひたすら優しい。ルーカを誘うように前髪から瞳が撫ぜられる。その所作に、とろり、と瞼が落ちてくるのを感じた。
「眠って、そうして……元気になったら、改めて」
「――あなた、は……」
 遠くなる意識の端っこで、ルーカは問いの答えを聞いた。
「フレンツォ・ロッティ……また、会いましょう……」
 闇の中に柔らかく届いた名前を、後にルーカは知る。
 世界に名だたる商家・ロッティ家の三男坊と――。

 そこから先の記憶は、ルーカにとって曖昧だった。
 精神も身体も疲弊しきっていたから、病院では点滴に繋がれて泥のように眠っていたのだという。栄養失調と肋骨の皹、それから内臓からの出血があって手術もしたらしい。
 手術が終わって次の日にはジェロニモの家に避難して、アーノンと再会するまでルーカはまた眠りの淵を彷徨い続けた。
 よっぽど眠りが深かったのか、夢も覚えていない。
 ただ思い出せる夢は、真っ暗闇を何かから逃げるようにひたすら走り続けていた事。エルネストやアーノンの名を呼んでも自分の声が奇妙に木霊するだけ。時々その闇よりも濃い黒い手が自分を追って伸ばされているのが分かって、ルーカは恐怖に叫びながらただひた走った。その手に捕まったら終わりだと感じていた。
 その手に捕まったら、痛くて、苦しくて、死よりも残酷な仕打ちが待っている気がしてならなかった。
 だから目覚める度、自分の居る場所がまだ夢の中なのか平穏の中なのか分からずに、叫び狂った。
 自分にかけられる声が、微かに響く音が、恐ろしくて堪らなかった。
 アーノンと再会してからやっと、自分の置かれている状況が夢の中でも夢の外でも理解出来るようになって、随分と落ち着いている。
 ジェロニモから聞いた事の顛末も、難しい所は端折って理解した。
 エルネストの素性。組織での立場、情勢、そして――フレンツォ・ロッティの事。どういう成り行きでそうなったのかは難儀過ぎてアーノン程理解出来なかったが、どうやらラシードとそのフレンツォの手腕によってルッソファミリーは解体されたという事。それからルーカを恐怖に陥れたサルヴァトーレの失墜があって、ようやくハバロファミリーにも安息が戻ったのだ。
 だからルーカとアーノンが謂われない罪を問われる事はないのだ、とも。
「当然だ」
と憤慨していたアーノンには悪いが、ルーカにとってそういった事実関係はどうでも良い事だった。
 ただこれからどうしたら良いのだろう、と漠然とした不安を感じていただけで。
 アーノンがハバロファミリーを抜けるとそう宣言したから、自分もそれに続くだろう。アーノン無しの生活はルーカには到底想像が出来ない。アーノン自身もそれは当たり前の事として考えてくれているのが嬉しい。
 ラシードに話つけてくる、と意気揚々と出掛けたアーノンが帰るまでには後どれくらいだろうか。自身の傷が癒えるまでは世話になる、というのは総意のようだったが、それから後は――?
(アーノンは、どうするつもりなんだろう……)
 かといって自分に話が振られても答えられないのだから、どんな道を行く事になっても着いて行くだけなのだろうが。
(――エルネスト)
 そしてまた、思考は繰り返す。
 拭っても拭っても、頭の中から追い出そうとしても、一度息をつけばその人の名前が蘇る。
 忙しく頭を働かせていれば、考えなくて済むと思われたのに、元来が”考える”という行為自体苦手な質なのでそういう意味では失敗だった。
 それでも幸か不幸か、部屋のドアをノックされた事で、ルーカの試みは成功した。
「はい?」
 ルーカの返事の後静かに開かれた扉からは、ジェロニモが顔を覗かせて
「お、起きてるな?」
返事をしたのだから当たり前だ。しかしそんな事にはお構いなくジェロニモは白い歯を剥いて笑った。
 室内へ入ってきたジェロニモに続くのは――
「フレンツォさん!」
「良かった、元気そうね」
 明るい中で見る彼は一層魅力的だった。かっちりとしたスーツ姿の彼の後ろからは、獣の従者も入ってくる。
 火のついていない煙草を噛み潰した赤髪は、苛立たしげに後頭部を掻いている。
「……どう、調子は?」
「はい、えっと……もう、大丈夫、です……」
 ベッドの端に手をついて顔を覗き込まれると、反射的にルーカの顔は真っ赤に染まった。それ程端正な顔だった。
 自分とて彫刻のように整った麗しき美貌の主であり、同じく片割れの顔と見慣れているにも関わらず、フレンツォのそれは直視し難い魅力を持っていた。
 生き生きとした黒い瞳、太陽に焼けた浅黒い肌、自信に満ちた微笑みは、人を引き付けてやまない輝きを放つ。
 自分やアーノンの持つ人形のような美しさとは違う。生命力溢れる、生きた美しさだ。
「おやおや〜?」
 得てしたりとからかいを含んだジェロニモの声に、ルーカは俯いた。
 フレンツォは可笑しそうにルーカの頭を撫でる。そんな風に躊躇いも無く触れてくる相手は数少ないものだった。
「元気そうで安心したわ。今、アーノンは留守なんですってね」
「あ、はい。あの、でも……すぐに帰るって言っていましたから」
「そうですってね。ジェロニモから聞いたわ」
 そのままベッドに腰掛けて、フレンツォの指は何故だかルーカの頭を撫で続けた。独特の感触を楽しむように左右に分けた前髪を梳かしてみたりする。
 くすぐったさに肩を竦めるルーカの顔にも、自然と微笑みが上る。
「組織、抜けるんですってね」
「――それも、ジェロニモさんに?」
「……まあ、そうね」
 何とはなしに向けられた言葉に首を傾げれば、何故だかフレンツォの歯切れが悪くなる。ぱちぱち、と瞬く間に
「それで、その後はどうするつもりなの?」
「えぇっと……」
 今度は、ルーカの言葉が途切れた。助け舟を求めてフレンツォ、ジェロニモ、そしてクラウスにまで視線をやって、困ったようにはにかむのみ。
 その答えを、ルーカ自身は持っていないのだ。
「あのね」
 ジェロニモとクラウスは答えない。ただ成り行きを見守るように、少し離れた壁に凭れて視線を明後日の方向に逃がして、耳だけをこちらに向けているようだった。
 フレンツォの優しい声が、更に続ける。
「アタシの所に、来ない?」







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2009/02/27