91 赤信号、二人で渡れば恐くない。



aperitivo.02





13


 ジェロニモに連れられた先は、ハバロファミリーが拠点とするビルでも、ボスの豪奢な邸宅でも無く、街の外側に位置する一階建ての長屋だった。隣家は遠く、小高い丘の上に森林に囲まれてひっそりと立っている。
 隠れ家、という様相そのままだった。
「ここ昔倉庫として使われてたんだけど、今色々取り締まり厳しいからこんな簡単な所に置いておけるもんがなくてね。で、使われなくなったここをオレが第二の棲家として使ってるんだけど。知ってるのは親父とこいつらくらい?」
 言いながら、ジェロニモはセンツァディーオの肩を抱き寄せた。
 嫌な顔をしながらも拒絶しないのは、どうやら幼馴染の故らしい。もう慣れた、とセンツァディーオは鼻を鳴らして勝手知ったる家に入っていく。
 ジェロニモに誘われて続いた時にはもう彼の姿は無く、「多分自分の部屋じゃない?」とジェロニモに説明されてアーノンは呆気に取られた。ジェロニモの第二の住処に、幼馴染とはいえ他人が自分の部屋を設けているものなのか?
 しかしそんな疑問を感じている場合じゃない。
「あの、ルーカのとこに案内してもらえますか?」
「ああ、そうだよね。ゴメン気が利かなくて」
 何か飲む?と聞かれてそう返すと、ジェロニモは本当に忘れてでも居たのか、目をパチクリと瞬かせた後に慌てて踵を返した。
「じゃ、こっちだ。そっちリビングだから」
 倉庫、という割に中は立派に住居だ。扉続きの部屋が多いのは倉庫の名残のようではあるが。
 ルーカの身を案じながらもしっかり観察する事だけは忘れずに、アーノンはジェロニモのひょろ長い背を追った。
 しばらく進んでから、ジェロニモは一つの扉の前で止まった。他の簡素な鉄の扉とは違って、不釣合いな程優美な紋様の描かれた白い扉は、そこだけ異次元だった。
「多分、眠ってると思うけど。時々起きて、ちょこぉっと情緒不安定に陥るんだけどね。またすぐ寝ちゃうんだ」
 困ったように肩を竦めて、ジェロニモは鍵を開けてノブを回した。
 アーノンが頭を下げて室内に入ると、ジェロニモは頷いて扉を閉めた。
 どうやら二人きりにしてくれる気遣いはあるらしい。
 しん、と静まった室内を見回してから、天蓋付きのベッドを見やる。
 室内の壁は仄かなピンク色で、家具も同色で揃えられている。可愛らしいキャラクターものの壁時計が笑えた。子供部屋、といった印象の強い部屋だが、ジェロニモに子供が居るという話は聞いた事が無い。
 ベッドに歩み寄ると、不似合いな子供が寝ていた。
 唯一布団から出た顔は晴れ上がって、目と口を残して包帯やらで隠されている。
 清潔なベッドの中で、ルーカは眉間に皺を寄せて眠っていた。
 時々魘されるように顔を振って、呻く。
 躊躇いがちに近付いて、ベッドの横の椅子に腰掛けた。
 相当な怪我を負ったようだが、どれも命には関わりが無いという。
 寝入るルーカを見ていたアーノンの口から、無意識の吐息が零れた。安堵に凝り固まっていた身体が緩む。
 どっと湧き出た疲労感にもう一度大きく息を吐いて、アーノンはルーカの顔を見つめた。
 ルーカが家に帰って来ない、とアーノンが気付いたのは今となっては五日前。アーノンがボスからの依頼を受けた夜は、既にルーカの身は監禁されてたのだと言う。ルーカの留守に頓着しなかった自分が、今となっては恨めしい。
 ルーカの身に起きた出来事をジェロニモから語られた時、アーノンは目の前が真っ暗になる、という感覚を始めて知った。
 鼓動が常に無く早まり、胸に去来した何とも言えない痛みに呼吸が止まった。
 悲しさとも苦しさとも違う、心臓を鷲掴みにされたようなそれは、言いようのない不安と、自分の足元の不確かさを自覚させた。
 あんなに離れたい、と、捨てたいと感じていたルーカを失うかもしれないという恐怖が、アーノンを脅えさせたのだ。
 誰よりもルーカに依存していたのはアーノンだった。
 ルーカが居たから、強い振りが出来た。強くある事が出来た。振り返れば一歩後を着いてくるルーカが必ず居たから、アーノンはただ前を向く事が出来た。
 その安心感たるは、相当なものだった。
 何もかも、二人で居たから出来た事だった。
「……」
 アーノンは布団の中に手を潜り込ませて、ルーカの手を控えめに取った。
 微かに触れる温もりに、心が解けていく。
 怪我を労わりながらも、指を絡ませるようにして弱く握り締める。
 生きていてくれて良かったと、今は心からそう思えた。

「……アーノン?」
 名前を呼ばれた気がして、うとうととまどろんでいたアーノンの瞳が開いた。
 何時の間にかルーカの布団に突っ伏して寝てしまっていたらしい。
 慌てて身体を起こすと、ルーカの空色の瞳と目が合った。
「アーノン」
 掠れた声にもう一度呼ばれて、
「うん」
 アーノンはただ、それだけ答えた。
 そうするとルーカの瞳が柔らかく細まって、微笑を浮かべる。同じ色の瞳の筈なのに、夜の海と評される自分のそれと違って、ルーカの瞳は明るい日の光を浴びた空の蒼――久し振りに見る片割れの瞳に、深く深く満たされる心がある。
 それはルーカも同じようで、握っていた指が握り返してきた。
「もう少し、眠りな……」
 自然と、柔らかい言葉と声が喉を滑り出た。何時だって強張った冷たい声しか返せなかったのに。
 瞬いたルーカが、安心したようにまた瞼を下ろす。
 暫くして、健やかな寝息が室内を満たした。

 ルーカの表情は、とても穏やかだった――。



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 ――それから、二日。
 その夜を皮切りに、剣呑な街の雰囲気は嘘みたいに鎮火して、元通りの賑わいが戻っていた。
 ジェロニモの好意に甘えて二晩倉庫にお邪魔していた二人だったが、アーノンはその日一人で、街に戻った。
 ルーカの方は全快するまで面倒を見てくれるというジェロニモに、恐縮しながらお願いした。
「いいよ、これくらい。それに罪滅ぼしってやつさー」
 ジェロニモの視線を受けたセンツァディーオは舌打ちしながらも何も言わず、それからジェロニモのお達しでアーノンの運転手に駆り出されている。
 不機嫌な仏頂面で車を運転するセンツァディーオは、不思議な事に最初程恐くも無いし腹立ちもしなかった。
 ジェロニモとの掛け合いを見ていて、ぐっと親近感が沸いた所為だろう。

 アーノンがルーカと再会した夜、二つの組織に激震が走った。
 まさに激突しようとしていた組織に介入したのは、警察だ。
 それによってルッソファミリーは糸も簡単に解体されたのである。
 話は、こうだ。
 巨大イタリアンマフィアのボスを父に持ち、アメリカンマフィアの支援を受けていると思われていたルッソは、下手を打ち二つの組織から縁を切られていた。正規のルートを荒らしまわった挙句、そのルートを指揮している会社に追われて逃げて来たというのだ。
 逃げ出した先のこの街で、彼らは尻尾を掴まれた。
 逃げ切れたと思ったのが間違いだったのだろう、とジェロニモは笑って言っていた。
 彼らが手を出したロッティ家という商家は、手広い事業を展開する裏の無い表の会社だ。しかしその実、闇の世界より容赦が無いという。
 蛇の如き執念深さで、静かに背後から這いよって長い舌で綺麗なまでに飲み込んんでしまうのだ。後に何の憂いも遺恨も残さない、それこそスマートなやり方で。
 そこにどんな遣り取りがあったのかは知れないが、兎にも角にもそういう事情で踏み込んだ警察とロッティ家の二人の使いによってルッソはお縄についた。
 そしてまたハバロでも、サルヴァトーレは監禁罪と殺人未遂で捕まり、サルヴァトーレと共に脛に傷持つ幹部や構成員が沢山逮捕された。
 誰もが唖然とした中、ラシードだけは全てを知る顔で居た。それもその筈全ては、ラシードの手の内で行われたのだ。
 ラシードの不在は実の所ルッソファミリーの調査の為に街を離れていた為であり、彼がルッソの実態を掴んで戻った事により収拾した。
「親父もサルヴァトーレを取るなんて馬鹿なんだから。ま、これで少しは大人しくしてくれるだろうよ」
 などとあっけらかんと笑ったジェロニモは、父親が逮捕された事に対してもそんな風だった。
「どうせすぐに出てくるよ」
というのも、まさしくその通りなのだうが。
「何にせよ親父は引退を余儀なくされるし、これで良かったかもね。ハバロも変わるぞー」
 その事がよっぽど嬉しかったのか、二晩続けて酒盛りをしていたジェロニモは二日酔いに沈んで今はベッドの中だ。
 それから――エルネスト・ルッソ。
 ルーカが聞きたいとせがんだので、アーノンも一緒に聞く羽目になったどうでも良い相手の話だ。
 彼はファミリーの仕事に関わりが薄いとは言っても、そこはボスの名を冠していたのだ。勿論例外無く逮捕される事になる。出血が酷くしばらく意識不明の重体だったというのだが、今は命を取り留めて病院に収容されている。
 そこまで聞いてルーカの表情は曇りに曇った。
 けれど彼の絵を気に入ったらしいロッティ家の三男坊が、彼の保釈金を払って、あまつさえ義手の手術をさせて専属の絵師として雇うらしい、と聞くと、自分の事のように笑顔を浮かべて、涙を流した。
 一つ憂いが晴れた、と微笑む顔に、悲しみは無い。
「だって、彼が生きている事が嬉しい」
 疑問に首を傾げたアーノンの思いに、ルーカはそう答えた。
 自分を裏切った恋人だというのに全く目出度いものだ、とこれまた口に出さずに嘆息すれば、続いた言葉はこうだ。
「エルネストはそんな事しないよ。彼は何時だって優しくて正直な僕の恋人だったもの」
 でももう別れは済んだから。納得して別れたから。だから悲しくないのだと、そう言うルーカの表情はひどく晴れやかで。
 よくそうも歯の浮く言葉が並べられるな、と、アーノンは肩を竦めてそっぽを向いた。
 事の顛末は、そんな所。
 こうして呆気ない程簡単に、終幕を迎えたのである。

 アーノンは車の中から、見慣れた街並みを見つめる。
 たった二日離れていただけなのに、今では別世界みたいに瞳に映るのは、アーノンが既に決別を決めた為だろうか。
 自分の生きる世界はここでは無い、と決めた為なのだろうか。
 見知った顔も、良く世話になったバーも、アパートの迎いのカフェや、毎日のように歩いた大通りも。
 全てが、遠い過去のものに思える。
 この町で過ごした五年と言う月日は、苦痛では無かった。忌み嫌われる仕事も、敬遠される身分も、どうって事無かった。
 身体を蹂躙されて逃げ出した幼い子供。辿り着いた先でも同じこと、と言ってみればそれまでの事だったが。
 けれど路地裏で寒さに震えていた冬の日、手を差し出してくれた存在が居た事に、今は感謝する。
 冷たい鋭利な瞳で見下ろした、酷く殺伐とした雰囲気のスーツの男。金のタイピンにはマフィアの証の印章。長い黒いコートを翻して、彼は一言「ついてこい」とだけ。従っていたニヤケ面の青年がアーノンとルーカを立ち上がらせ、ルーカを担ぐ。その後ろのスキンヘッドがアーノンを抱き上げた。触れた人肌に凍えかけた身体が暖まる。
 牙を剥いたアーノンの罵倒を、先頭の男は黙って聞き流した。もがいて暴れる子供をスキンヘッドは苦笑しながら、ニヤケ面は大笑いで戒めた。
「人攫い」
と叫んだ思い出は、今となっては笑い話だ。
「お前ら、身体を売れ。まだガキだがその顔なら高く売れるだろ」
 そんな風に何の説明もせず宣告した男・ラシードを、本来なら恨んでも憎んでも足りないだろう。
 けれどアーノンにとってその簡潔さは、不快で無かった。
 三食飯つきの上、寝る場所まであるのか!? と、ルーカと一緒になって喜んだ幼い日。
 それからラシードは上司になり、身体を許す関係になった。
 ニヤケ面のロッシ、スキンヘッドの強面ジオ、それから多くの男娼仲間。傍から見たらどうしようもないならず者でも、その場所は以外に居心地が良かった。
 今はただ、感謝している。
 誰もが見て見ぬ振りをして通り過ぎた、小汚い子供を拾ってくれた事。
 死の淵から救い出して、与えてくれた温もりを。
 そしてこれから、その手を離れて生きる事を許してくれた事を。
 ただただ、感謝している――。







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2009/02/04