91 赤信号、二人で渡れば恐くない。



aperitivo.02





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 名前を呼ぶと、彼は何時もくすぐったそうに肩を竦めた。
 その反応が新鮮で、ルーカは意味も無く彼の名を繰り返す。
『エルネスト』
 頭を撫でていた大きな掌が、肩に回されて抱き寄せられる。ふわりと香る彼の匂いは、香水なんて不純物の混ざらない男の匂い。その匂いが好きで、ルーカは彼の胸元に鼻を摺り寄せる。
 脳天に柔らかい彼の唇が落ちてきて、誘われるように見上げると瞳が合った。
 鋭い眼光を放つ黒檀の色の瞳。長い睫毛が縁取る切れ長の眼。吸い込まれそうな闇の色が、微笑んで細まると、とても魅力的だ。
 その瞳に見つめられると、ルーカの心臓は早鐘を打つ。
 頬を桜色に染めるルーカを見下ろす彼の唇が笑みを形作って、今度は彼がルーカの名を繰り返し呼ぶ。
 そんな他愛も無い時間が、何より好きだった。
 でもその感情を伝える言葉をルーカはあまりにも知らなくて、幸福感に浸りながら何時も、少しだけ泣きたくなった。
 紡げない愛の言葉の変わりに、ルーカは彼の唇に唇を寄せて。
 何時も、優しい腕と甘い時間に逃げた。
 確かなものが欲しかった。
 けど、確かなものの存在を、誰より何より恐れてた。
 そんなルーカの心情など知らない筈の彼は、それでも何もかもを知るような理知的な瞳で、絶えずルーカを見つめてくれる。
 優しい彼の、黒檀の瞳が笑む。

 それが何より、大好きだった。


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 これは、何の痛みだろう?
 鈍い痛みを身体の至る所に感じて、霞がかった思考でルーカは考えた。
 情事の後の疲労感とか怠惰感とか、身体に感じる慣れた痛みとは程遠く、特に頭痛にも似た頭の痛みが酷かった。
 鼓動と一緒に目の端が疼くと、脳までがかき混ぜられるような不快感がある。
「……う……」
 一度その感覚を覚えてしまうと、最早無視して眠り続ける事は難しかった。
 呻いて、一気に覚醒していく。重い瞼を上げると、暗闇の中だった。
 それでも虚ろな視界が闇に慣れると、そこが寒々としたコンクリートの壁の部屋だと分かった。
 室内には何も無い。窓の一つも無いから、そこがどういった用途の部屋なのかさっぱり分からなかった。
 一つだけ設置された扉は強固な鉄扉。
 寝転がった姿勢でそれを確認してから、ふ、と自分の体に生じた違和感に気付いた。
 両手首は背中で固定される様にして、両足首は揃えて、ロープのようなもので縛られていた。
 その瞬間、自らの身に起きた出来事が思い出された。
「っ」
 ホテルの一室で、睦み合っていた幸せな夜。けれどその後にやって来たのは、死に直面する恐怖と暴力。
「ぅあ」
 思い出したそれが、まるで今起こっている事のように錯覚される。恐怖に染まったか細いうめきを漏らしながら、ルーカの身体は震えた。
 その足先に、何かが触れた。
「……」
 柔らかい、衝撃。
 まだ確認していなかった部屋の隅に視線をやる。
「っあ!!」
 足先が触れていたのは、同じように縛られて転がる人の太腿らしかった。
 ただし様子が、少し自分とは違う。
 縛られた足首から先、露出した裸足の爪先。剥き出しの上半身。長い髪の間に覗く腫れ上がった顔。その全てに痛々しいまでの痣と傷が刻まれていた。
 そして何より。
「……エル……っ」
 見知った身体だった。だからその名を呼び掛けた。
 見開いた瞳に涙が盛り上がる。
 愛しい人の変わり果てた様相。
 その最たる部分は――。
「エルネストっ!!」
 無造作に投げ出された身体。その左手の、肘から先が失われている。そこだけ手当てがされていて、消失した切り口を包帯が包んでいるようだったが、どす黒くそまったそれが、あまりの衝撃をルーカに与えた。
 芋虫よろしく這い出して、ルーカはエルネストに近寄る。
「エル、ネスト……っ」
 腹部が呼吸の為に動いているから、生きているのは知れる。けれどこのまま放置されたのでは分からない。
 滂沱の涙で視界が歪む。
 自分の体の痛みより何より、エルネストの惨状が辛かった。
 唯一救われるのは、彼の利き手が無事な事だろうか。美しい景色を描く彼の腕が生きている事は幸いだろうか――否、そんな筈も無い。
(どうして……?)
 出会わなければ良かったのか?
 あの日、あの時、彼の瞳に捕らわれた事が間違いだったのか?
 彼の優しさに溺れた事が?
 一緒に居たいと思った事が?
 それとも何も知らずに、無知を通した自分が悪いのだろうか。
 エルネストの素性を知っていれば、離れられただろうか。近付かなかったのだろうか。
 もう少し上手く身を潜めて、隠れて逢瀬を重ねていれば?
 そうしていれば、良かった?
 ルーカは泣きながら、己に問い掛けた。
(でも僕は、エルネストと出逢えた事は、後悔してない……)
 馬鹿で良い。浅はかで良い。それでも彼を恨んだり憎んだり、罵ったり、まして出逢わなければ良かったなんて思えない。
 それだけはルーカの中で確かな思いだった。
 それでも、悲しくて泣けるのは――この先の未来が、二人の未来が、がらがらと音を立てて瓦解したのを感じているから。もし、無事にここから逃れる事が出来たとしても、もう二人の道が交わらないのを悟ってしまったから。
 繋いでいた手は離れてしまった。

「……泣いて、るの、か……?」
 啜り泣きが響く部屋に、突如掠れた声が混ざった。
 ハッとして、ルーカは視線だけを上げる。
 大好きな黒墨の瞳が、見えた。実際は腫れぼったい瞼に隠れて見えなかったが、ルーカを見据えているのが感じられた。
「エルネストっ!!」
 叫んで、ルーカはまたエルネストに這い寄った。顔を覗き込むようにして、声を掛ける。
「大丈夫? ねぇ、大丈夫なの!?」
「泣く、な……」
 喉から絞り出すようにして、エルネストが紡ぐ。唇が微かに開閉する。その合間に、隙間風のような音が漏れる。ひゅーひゅーと、息をするのさえ苦しそうに喘ぐのに、何故そんな風に。
「ルーカ、泣く、な……」
「泣いて、無い」
自分の身より何より、ルーカを慮ってくれる言葉が、今は嬉しいより苦しい。
 ルーカはだから、唇を噛んで耐えた。
「す、まない……」
 エルネストは尚も言葉を紡ぐ。
「……酷い目に、合わせ、た……」
 時々苦痛に喉を詰まらせるような声。ハスキーを通り越してガラガラで、力強さも生気さえも乏しい、まるでエルネストらしくないか細い音。
「俺、は……」
 残った右手が、ルーカの肩を掴んだ。
「知ってた」
「え?」
「知って、たよ……コレが、どれだけ、危ない橋か……お前と一緒に、居る……事が、どれ、だ……け、危ういか、」
 どこにそんな力が残っていたというのか、ルーカの肩をぐいと引っ張って、抱き寄せた。エルネストの胸にすっぽりと収まる、ルーカの小さな身体。触れた裸体は氷の様に冷たいのに、頬に触れた左の二の腕は燃えるように熱かった。
 怪我を負った腕にルーカの頭を乗せ、まるで情事の後の寝入るスタイルのように、エルネストがルーカを抱き締める。
 その瞬間、包帯に更に血の滲みが広がって、ルーカは目を見開いてもがいた。エルネストの腕から逃れたいと思ったのは、これが始めてだった。
 それなのに、何時の間にか背に回されたエルネストの右腕は、ルーカの動きを戒める。
「エルネスト、離して!! 腕がっ!」
 ルーカの懇願を無視して、エルネストは更に身体を密着させてくる。
 もうどうしていいのか分からずに、ルーカは泣き喚いた。
 声が喉に張り付いて、言葉にならない。
「おねがっ、っ!!」
「それでも、お前を、手放せなくて……」
 懺悔とも告白とも取れる言葉が頭上で囁かれる。
「……お前と……一緒に、居た、くて……っ」
「ねえ、もういいから!! 分かったから!!」
「ごめん、な……」
「そんなのいいから!! ねぇ! エルネストっっ!!」
「それでも、俺は……」
 繰り返されるそれはうわ言の様で、最早ルーカの声は耳を素通りしてるかのようで。
「僕だって、一緒に居たかったから!!」
 器用なエルネストの右腕は、熱に浮かされた中でもしっかりと、ルーカの腕の戒めを解いた。
 解放されたばかりの両手は痺れて上手く動かない。それでもルーカは身体を起こしエルネストの右腕から頭を外す事に成功した。
 それが最後の意識だったのか、エルネストはくたりと、今度は簡単にルーカを胸から手放した。
 鈍い痛みに襲われながら、ルーカはエルネストの足首のロープに手を伸ばす。固く縛られたそれは中々解けない。エルネストは片手で糸も簡単に解いてみせたというのに――何時も繊細な絵画を生み出す器用な指が、こんな時は羨ましい。
 しゃくり上げながら、ルーカは必死に指を動かした。
「エル、ネスト……ねぇ、エルネストっっ!!」
 もう、言葉は返って来ない。
 不規則な息遣いが、時々ひゅっと喉の奥に消えて止まる。
 その度にルーカの心臓は竦み上がる。
「死なないで、死なないで、死なないで、死なないでっ!!」
 祈ることしか出来ない。
 願うことしか出来ない。
「エルネストっ!!」
(神様っ!!)
 もうとっくの昔に、記憶の隅に追いやった存在を呼ぶ。
 けして救いをくれない、無慈悲のそれ。絶望から救い出してくれなかったただの概念。
 もうとっくの昔に、捨て去った存在。
 それでも。
 縋れるものなら何にでも。それこそ悪魔でもいいから。
「お願いだからっ、エルネストを死なせないで!!」
 温もりを失っていく、血の気の失せた身体。
 残った右腕を手にとって、逃げていく温もりを留めようと胸に抱く。
「お願いだからっ!!」






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2009/01/26