91 赤信号、二人で渡れば恐くない。



aperitivo.02





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 ――誰、だって……?

 エルネスト・ルッソ。
 それが自分の恋人のフルネームなのだと理解しても、頭の回路は繋がらなかった。
 エルネストに何を喋ったか?
 問われた意味が分らない。
 結局サルヴァトーレは何をしに来て、どうしてエルネストが捕らわれていて、何故自分はこんな事になった?
 疑問ばかりが頭を巡り、幾つもの情報は宙ぶらりんに脳を彷徨う。
 長い沈黙下、ルーカはサルヴァトーレをただ見上げていた。
 大きな明るい空色の瞳を見開いて、不思議そうに瞬くルーカが、事の次第を理解している様子は全く無い。
「愚図が」
 吐き捨てるように言ったサルヴァトーレの足が、ルーカの腹を抉る。
「かはっ!!」
 重い衝撃に襲われて、抵抗する間も無くルーカの身体は背後の壁に激突し、背中を強かに打ちつけた。腹を抱えて丸々ルーカの眦に、涙が盛り上がる。
 激しく噎せ返るルーカの声に、エルネストが反応してルーカの名を呼ぶ。
「誰の差し金だ?」
「? 何……」
「ルッソのボスと、まさかただの恋人ですなんて言わないだろう?」
「――」
 ルッソのボス。
 這い蹲って震えるルーカの前髪を、近付いて腰を下ろしたサルヴァトーレの指が、もう一度掴む。
 無理矢理に持ち上げられる身体に背筋が弓なりにしなる。
「仮にお前が知らないとして、エルネストはどうだと思う? 有名なハバロの男娼を、ルッソのボスともあろう人が知らないとでも? そのリスクを鑑みて、本気で恋人になろうと?」
「関係ないっ!!」
 サルヴァトーレの嘲笑に、エルネストが吼えた。
 それに興を削がれたのか、舌打ちしたサルヴァトーレがルーカを引き摺りながらエルネストに歩み寄った。
 上質なラグマットの白をルーカの流す血と涙が汚す。
 中指に指輪を嵌めたサルヴァトーレの容赦ない拳は、エルネストの端正な顔を壊していく。
「誰がお前に答えろと言った?」
 鼻の骨が折れる音に、ルーカは叫んだ。
「止めてっ!」
 必死に歯を食いしばるエルネストが、逆に痛々しかった。
 ここに来てやっと状況を理解しても、エルネストに対するルーカの感情は変わらない。
「お願いだから、止めてよぉ……っ」
 ぼろぼろと涙を流し、今だ解放されない頭上の手に縋るようにルーカは手を伸ばす。
 懇願は冷たい睥睨によって拒絶される。
 それでもルーカに出来るのは、請い、願う事だけ。
 アーノンとルーカの容姿は、どうあっても目立つ。ただ街を歩くだけで、人の目を引き付ける。ただ見目麗しい子供です、とは言えない、独特の色気を振りまく双子は街では知れ渡ったマフィアの男娼だ。誰の耳にも簡単に入り込む情報で、何よりエルネストはルーカの仕事を知っていた。この街で身体を売るという事は、もうそれでハバロの男娼だと公言しているも当然である。お互いにそれを口に上せた事は無かったが、ルーカの正体など話す必要も無い程当然の事だった。
 しかし対するエルネストの正体を、ルーカは知らなかった。働いている様子も無いくせに、高級なホテルの一室を借り切って、金に糸目をつけない生活をしているエルネストは、確かに不思議だった。この街に何の目的あってやって来たのか、聞いた事も無い。けれどそんな事はルーカにとってまったく興味の無い事だった。
 ただ彼が兄と共同経営者というような形を取っている、といっていたからそれだけを信じた。
 確かに、ルッソファミリーのボスは二人居た。強大なバックを持った新進気鋭の若い組織の筆頭は、兄と弟――アーノンから聞いていた。
 けれどそれが何故エルネストと繋がろう?
 ルーカの知るエルネストは、マフィアらしさなんて微塵も無い。ただ気儘に暮らす、金持ちの坊々さながらに自由な男性だ。趣味の絵画に没頭し、魅力的な瞳でルーカを捕らえた。
 それで良かった。
「……これが仕事じゃないってんなら、お前はハバロの仕事を放棄したも当然だな?」
 ファミリーからの連絡がつかない場所に入り浸っている、という事実が差すのは、確かにサルヴァトーレの言葉通りの意味だった。
「逆に仕事なら、敵のボスを相手に選んだのは、誰なんだろうな……?」
 ゆっくりと紡がれるサルヴァトーレの言葉が、ルーカを追い詰める。
 やがてサルヴァトーレの指がルーカの頭から離れても、ルーカはそこに這い蹲る事を止められなかった。
 事実無根なのだから堂々としていれば良いものを、身体は見っとも無く振るえ、瞳は無意識に俯いてしまう。
 傍から見れば、やましい事でもあろうと邪推させてしまうような状態だ。
「なぁ、ルーカ?」
 優しい声音が更にルーカを追い詰めようと降って来る。
 何故マフィアの人間と言うのは皆が皆、捕食者の顔をしているのだろう。舌なめずりをするハイエナの如く、野卑た獣の顔を持っているのだろう。
「エルネストに、何の情報を売って、どんな見返りを?」
「……っそんな事、してません……」
 呻りと共に吐き出す。
「僕が、エルネストに話せる事なんて何も……」
「お前の知り得るファミリーの情報なんて、まあたかが知れているだろうな」
「それでなくても、僕はっ! 僕とエルネストはそんなんじゃ……!!」
 思わず顔を上げると、間髪いれずに踏みつけられた頭がまた地面に沈んだ。
 一瞬、脳が頭の中を跳ねたような感覚に襲われて、眼裏で星が散った。
 次いでやって来る痛みに、声の無い悲鳴が上がる。
「でもお前は、ラシードの子飼いだろう?」
 ゆっくりと力が加わっていくサルヴァトーレの足に、頭蓋の中身が押し潰されるような感触。顔面に血が集まり、熱い。眼球がどくどくと脈打つ。だらだらと口から唾液が零れていく。
 遠い昔、抵抗する術もなく蹂躙された過去が思い出される。
 痛みと屈辱に、吐き気がする。
 サルヴァトーレは真実など欲しちゃ居ない。
「ラシードのお気に入りがルッソのボスのお相手? どんな偶然だろうな?」
 ラシードの執着の相手はアーノンで、けしてルーカではない。ルーカを見るラシードの瞳には全く色が無くて、それが蟻や路傍の石ころでも見下ろすようなもので、だからそれが過去を思い出させて、ラシードを嫌悪させていたというのに。
 サルヴァトーレの求める答えなんて、真実の欠片だってありはしない。
 それでも、いいのだ。
 ラシードを追い落とす切欠になりさえすれば、それで。
「素直に吐いた方が身の為だ。お前にとっても、エルネストにとっても」
 嘘をついて今解放されたとして、その後は?
 疑問に対する答えは容易に想像が出来る。
 どちらにせよ自分は裏切り者にしかならない。
「お前の片割れも、保証しよう」
 勝者の笑い声がこだまする。
 サルヴァトーレは既に、ルーカの答えを微塵も疑っていないのだろう。逃げ道を完全に塞ぎ、拒否権を奪い、心身ともに疲弊した子供など、彼の前では赤子程も力を持たないに違いない。
 ルーカに、選べる道は無い。
「ぅあ……」
 それともこのまま抗って、生を手放す方が利口なのか。
 ちらと思考を巡った考えに、ルーカは小さな笑みを口元に結んだ。
 出来もしない事を考える辺り、相当参っている証拠だ。
 自分は猫を噛む鼠にはなれない。
 頭上で、回答を待つように沈黙するサルヴァトーレ。押し黙った三人の黒服の気配が遠くにある。エルネストは気絶でもしたのか、身じろぐ気配も窺えない。
 幾ら待とうと助けは来ない。
 自分はアーノンのように頭が良くないから、活路なんて見出せない。
 今考えられるのは、愛する人の笑顔だけ。もう一度の暖かな腕に戻りたい。
 開いた唇からか細い息が零れた。
 酷い圧迫感に喉で声が潰れて、言葉にならない。
「僕、は……」
 絶え絶えに紡がれたルーカの声に、サルヴァトーレは片眉を満足そうに上げる。
 虚ろな視線をラグの上に投げて、その後吐き出された言葉は無意識の、ルーカの抵抗だった。
「何も、知らない……」
 強い衝撃に脳が揺れて、ルーカの意識は闇に呑まれた――。

 思わず、渾身の力でルーカの後頭部を蹴りつけてしまった。
 小さな身体は無抵抗にラグの上を跳ねて、ソファに激突して止まった。
 荒い息を吐き出しながら、サルヴァトーレは舌打ちする。
 まさか羽虫に抵抗されるとは思わなかった。
 苛立たしげにスーツの内ポケットを弄り、咥えた煙草に火をつける。
「死んだか?」
 予定外の事態に気絶したエルネストの脇腹に蹴りをくれてから、幾分落ち着きを取り戻した声音でルーカに目線をやる。
 くたり、と倒れ込んだルーカの身体は動く気配が無い。
 サルヴァトーレの声に反応して黒服の一人がルーカに近付いて、その首元に指を当てる。その後見上げてきたサングラス越しの瞳は、感情を消した無機質さ。
「生きてます」
「しぶといな」
 言いながらも安堵する。
 こんな所で大事な駒を失くす気は無かった。どうあってもこの駒を使ってラシードを失墜させるのだ。
 冷静な思考を取り戻して、サルヴァトーレは笑う。
 最早ルーカが最初に感じた、一人の男の模倣は完全に消えていた。
 サルヴァトーレがその男を擬態していたのは、その方が自分に都合が良かったからだ。自分の前をうろちょろする蝿、最大の邪魔者、ラシード――あの男の鼻っ柱を挫くのに、必要だったから。
 それも最早必要なくなった、と、掌で煙草を握り潰して。
「ここじゃ面倒だ。帰るぞ」
 飢えた獣の瞳は、ぎらぎらと剣呑に輝く。
 部屋を出て行くサルヴァトーレを、エルネストとルーカを担いだ黒服が追う。

 ――まだ、悪夢の夜は明けない――。





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2009/01/18