91 赤信号、二人で渡れば恐くない。



aperitivo.02





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  ルーカはエルネストの事を、その名前と出身地程度の事しか知らない。兄の仕事を手伝っている都合上、兄にくっついて引っ越してきたのだという事や、年齢が19と、見た目と比べて若いのだという事。
 エルネスト自身が多くを語らない性質のようだったが、その分詮索をされる事もなかったので、ルーカにとっては心安くあった。
 あとから彼の正体を知れば成程と納得の出来る話だったが、エルネストはルーカの職業を知っても、それが生きる為の手段という事を理解した上で受け入れている節があった。エルネストはルーカが他の男の匂いを纏っていようと、それに否を唱えなかった。恋人らしい嫉妬で顔を顰める事はあっても、自分の匂いで消せばいい、とあっさり言うような男だ。
 その他の事に対してもそんな風だったから、自分に興味が無いのか?と若干の寂しさを感じても、その実聞かれて困るのは自分だという事は知っていたので、そんな思いは心の底に追いやった。
 何より、二人の間に情報など不要だった。
 抱き合えば何もかもを理解出来るなんて有り得ない話だったが、抱き合えば言葉以上に満たされた。その心地よさといったら、今までに感じた事の無いものだった。
 エルネストは始終優しい。丹念な愛撫も、最中も、終わった後ですらルーカの褪せた銀色の髪を愛おしそうに撫でながら、その身体を優しく抱きしめながら眠ってくれる。見詰め合う黒檀の瞳には何時でも愛情を見つける事が出来たし、時々それが微笑んでルーカの心を奇妙に震わせた。
 それはくすぐったい程幸せな毎日。
 永遠、なんてそんな、どこぞの乙女みたいな痛い妄想は、生まれてこの方した事は無い。ルーカにとってアーノン以外に永遠を感じられる者が居たためしがなかった。アーノンだけは――自分の一生だった。片割れを失えば、自分も長くはもたない。お互いがお互いのそういう相手だったから、彼だけがルーカの永遠だった。だけどエルネストとなら、そんな時間を紡げるのかもしれない、なんて、漠然とした期待をもったものだった。
 今までに無い優しさに、ただ酔っていたのだろう。
 だからルーカは気付かなかった。
 絶対の寄代であるアーノンが言った抗争など、街の険悪な雰囲気など、自分には関係の無いものとどこ吹く風だった。
 自分の立場を軽んじた。
 否――本来なら路傍の小石程度に歯牙にもかからない自分だ。自分の生活が脅かされるなんて、考えた事も無かったのだ。
 身体を売る、という行為さえ許容していれば……。


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 エルネストは市内のホテルの一室を仮の住まいとしているようだった。兄と借りている家もあるようなのだが、彼は趣味の絵画に没頭する為、別行動をしているとの事だった。
「俺は兄貴のオマケだから。一応共同経営者、のような格好を取ってはいるが、全部兄貴任せさ。お陰でこうやって、悠々自適に過ごせてる」
 一度そんな風にして尊敬している兄について語ったエルネストに、ルーカは
「じゃ、僕と同じだ」
と屈託無く笑って応えた事があった。瞠目した彼に、自分もアーノンに頼りきりだからと簡単に自分の状況を話して聞かせると、エルネストも笑って「そうか」とだけ言って、その話はそこで打ち切った。
 だからエルネストの部屋に気兼ねなく通っていたルーカが、その部屋で過ごす時間を次第に延長させていったのは自然の成り行きだった。

 その日も、もう数えて三日間、ルーカはアパートに帰らずにエルネストの腕の中に居た。
 少しだけアーノンや仕事の事が気掛かりだったが、結局は思うだけに留まってエルネストの傍を離れられずに居る。
 情事の後の気だるさを払拭するように、エルネストの長い指がルーカの髪の毛を梳かしている。その優しい手付きに、白い胸を跳ねさせながらもルーカは安息した。
 次第に落ち着いていく息遣いの合間、ルーカは訥々と意味の無い話を投げていく。
「今日、天気良かったよね……」
「ん……」
「星、綺麗だろうな」
「そうだな……」
 取り留めの無い日常のそれを、エルネストは何時もしっかり受け止めてくれた。
 大抵思いついたまま、何の意味も無く吐き出される言葉達だ。だからどうした、と言われてしまえばそれまでの事。今までの恋人の多くはルーカの言葉に意味を探して、意味が無いと知れると「黙ってろ」という様なニュアンスの言葉や行動で会話を打ち切られてしまっていた。無理矢理唇を塞がれる事もあったが、どうやらルーカのそれは鳥の囀り程度に煩わしくも感じられるらしい。特に情事後の甘い雰囲気の中でルーカの頭が空っぽな発言を聞くのは、どっと疲れるらしいというのは前彼の言だ。
 エルネストは嫌な顔一つせず、それ所かルーカの中身の無い会話も、黒檀の瞳を細めて楽しそうに聞いてくれる。
 だからルーカは、情事後のこの時間が今は嫌いじゃ無い。
「昔ね、寝る時に見上げると満天の星があったんだ。何にも無い平原に寝てる感じ、分る?」
「ああ」
「見渡す限りの星空で、僕バカだから、逆立ちすれば星の上を歩けると思ってて」
 エルネストの逞しい二の腕を枕に、ごろりと向きを代えて仰向けになる。そうすると薄暗い部屋の天井に、その時の美しい星の海を思い浮かべる事が出来た。
「その頃逆立ちなんて出来なかったんだけど、逆立ちが出来るようになれば星の空を歩いて渡れるんだって信じてた。アーノンに話したら鼻で笑われたけど」
「歩けたら、いいな」
「うん。それって有り得ない事だけど、すっごい気持ち良いんだろうなって思う」
 見えない空に向かって手を伸ばす。
「星空見上げながらの夜の散歩とかも、すんごい好き」
 額から脳天にかけて、エルネストの骨ばった指が髪を梳かしていく。時々指にひっかかるのか髪の束が引っ張られる感触がしたけど、エルネストが時間をかけて梳いてくれるので次第にさらさらと流れる様な音が聞こえてくる。
「 本物には叶わないけど、」
「うん?」
 擦り寄ってきたエルネストの唇が、ルーカの耳元で低く呟いた。
「俺が幾万の星空を描くよ。その上を、歩かしてやる」
 瞬間、鷲づかみされたかのように心臓がきゅっと縮んだ。酷く切なくて、わけもなく泣きたくなって、喉元から毀れかけた嗚咽を唇を噛む事で耐える。
 こんなちょっとした事に感動して、エルネストに抱きつきたい気分だ。
 エルネストの表情は、彼が照れてそうしたからか、あるいはただ単に眠かったのか布団を引き上げて顔を隠すように寝の姿勢に入ってしまった為に見えない。からかいを含んでいるのか、あるいは真剣なのか、それとも呆れているのか分らない。
 けれど兎に角ルーカにとっては、どんな告白よりも嬉しい返事だった。
「……うん」
 聞こえるか聞こえないかの大きさで頷いたけれど、エルネストからの返しは無い。
 ――それで良かった。
 究極の現実主義者の片割れはきっと一笑するだろう。馬鹿な夢に対して。不確かな愛に対して。言葉では何とでも言える、と最大の皮肉笑いを持って一蹴するだろう。
 エルネストに倣って布団に潜り込みながら、恐らく今宵も、独りで眠る片割れを思ってルーカは少しだけ泣きたくなった。


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 目覚めの時間にはまだ早かった。
 薄っすらと開いた瞼の向こう、室内は寝入った時と同じように薄暗い。ベッドサイドの明りだけが唯一、カーテンの向こうも恐らくまだ闇の気配が濃厚だろうと思えた。
 ベッドにエルネストの姿は無い。
 布団の中で軽く身じろぐと、エルネストの寝ていたのだろう空間が潰れた。温もりはまだ消えては居ない。
 のそり、と起き上がるが、行動自体は無意識で頭はまだ半覚醒だった。
「……やあ」
 聞きなれない声に、はっとして振り返ったルーカの瞳が凍る。
「お目覚めかい、ルーカ」
「……あ、なたは……」
 普段使われないドレッサーの椅子に、男が掛けていた。
 洗練された印象は薄く、荒々しい雰囲気を纏っているというのに、背筋を伸ばして足を組む姿はその人に似ていた。マフィアという単語の凡そ似合わない、エリート然としたその人に。
 けれど今目の前に居るのは、線の細い見目にそぐわない凶暴な性を剥き出しにしていた。表情にも外面にもそんな気配を一切残さないのは、彼がその人に似せようとしているからなのだろうが――ルーカは、人の内面に敏感だ。男の本質に誰よりも気付いている。
 顔面には笑顔を浮かべているのに、その奥には隠しきれない残忍さが潜んでいる。
 それよりも何故、この男がここに居るのだろう。
 警戒するように布団を手繰り寄せ、一緒に寄せたエルネストのシャツを急いで着込む。
「お楽しみの邪魔をしたのだったら悪かったね」
 ルーカの様子を楽しそうに見ながら、男は笑った。寛いだ様子で足を組み直す。
「何故、貴方が、」
 掠れた声が喉で詰まる。
 ハバロファミリーの幹部の一人が、エルネストの部屋に居る理由が分らない。ルーカにとっても、早々目通りする機会も無い相手だ。そもそも直属といえる上司のラシードにだって、アーノンとの繋がりがなければ関わる理由も無い。
 ルーカ達男娼にとって幹部というのは、雲の上のお人程度に遠い存在だ。
「何故?」
 男が笑みを深くする。
「しらを切るつもりか?」
「……シラ?」
 男の言っている意味が分らなくて、ルーカは眉根を寄せた。意味は分らないが不穏な空気は分る。鼓動が早鐘のように五月蝿く響く。
 男の名はサルヴァトーレ・ヴェラチーニ。父親の代からハバロに尽くす根っからのマフィアだ。幼い頃からファミリーに属していたからかボスからの信任は厚く、年配の幹部の中にあっては異質な存在だ。ラシードが頭角を表すまでは、サルヴァトーレがファミリーの脳だったという。その自負からか、ラシードとは猿と犬のように仲が悪い。
 次のボスの座を狙っているとも聞く。
 幾ら待ってもサルヴァトーレは次の句を告がず、ルーカの焦りを見てか、ただ微笑むばかりだ。
 この部屋の異分子を見つめながら、ルーカはふと思う。
「――エルネストは……」
 疑問のまま声が零れると、サルヴァトーレの視線がドアの奥へ向いた。開け放たれた先からは明るい光が漏れている。
 ルーカがベッドを降りるのを、サルヴァトーレは止めなかった。
 それがルーカの中の焦りを強くする。ワケも無く震える身体で転がり出るようにして部屋を出て行くルーカを、サルヴァトーレも追ってくるようだった。
 エルネストのシャツだけを羽織ったルーカは、シャツの裾から飛び出た悩ましい白い足を必死に動かして、這い出るようにしてその場に立った。
 キッチン続きのリビングには、サルヴァトーレの部下だと思われる黒服が、直立不動の態勢で控えていた。
 しかしそれよりもルーカの大きな瞳が捉えたのは、黒服二人の間に座した人物。
「エルネストっ!!」
 悲鳴交じりの叫びに、椅子の上の身体がピクリと反応した。
 両手両足を椅子に拘束され、猿轡を噛まされ、視界は黒いネクタイで縛られているエルネストは、酷く殴られたのか変形した唇から赤黒い血を滴らせていた。裸の上半身には出来たばかりの痣や傷が存在を主張している。
 走り寄ろうとしたルーカの身体を、そう強くないサルヴァトーレの腕が留める。
「どうしてっ!!」
 批難じみたルーカの訴えに、サルヴァトーレが笑う。
「どうして」
 ルーカの言葉を繰り返す、楽しそうな笑い声。
 目の端にそれを捉えながら、ルーカの瞳は絶えずエエルネストに向けられる。
 エルネストは必死に身体を動かしながら拘束を外そうとでもしているのか、ぎしぎしと椅子が鳴る。声は布の奥で「んー」というくぐもった言葉にしかならない。
 サルヴァトーレの指が、黒服の部下に何事かを指示する。
 部下の一人がエルネストの口を解放すると、エルネストはすぐさま言った。
「ルーカに、手を出すな……」
 今だ事情の欠片すら知り得ないルーカは、その言葉に動揺を濃くする。
「手を出すな?」
 背後のサルヴァトーレが笑みを納めたと思ったら、強い力に髪の毛を引っ張られた。
「うっ」
 そのまま強引な腕はルーカを壁に押し付ける。顔面から壁に激突したルーカは衝撃に呻く。
「ルーカ!!」
 エルネストの叫びを耳にしながら、瞳を零れた涙と鼻血を自覚する。
 信じられない思いで痛む鼻を押さえる。
 何事か自問するがちっとも理解出来ない。
 頭が後ろに仰け反って、もう一度壁に打ち付けられた。
「がっ」
「止めろ!!」
 悲痛な色の濃いエルネストの声が制止を求めても、鈍い音は何度か続いた。
  その度にルーカは潰れた蛙のような醜い声を漏らし、やっと解放された時には床に突っ伏すしかなかった。
「ルーカ」
 サルヴァトーレは這い蹲って涙するルーカを、何事も無かった様に穏やかな声音で呼ばわった。
 脅えた表情で見上げれば、潤んだ視界の中で自分を見下ろしてくる冷たい視線に出会う。
「痛い目に合いたくなければ、素直に答えろ」
「……」
「エルネスト・ルッソに何を喋った」

 ――誰の事を言っているのか、何の事を言われているのか、すぐには理解できなかった。





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2009/01/10