91 赤信号、二人で渡れば恐くない。



aperitivo.02







 言い訳をするつもりじゃないけど、そういった言葉で表すなら、
『生きるために仕方無かった』
んだ。
 誰だって死にたくない。生きる為に必死だ。
 俺達も同じように、ただ今よりいい生活がしたい、そう底辺で祈る子供だった。
 卑しくゴミを漁るのも、物乞いみたいに縋るのも、冷たい石畳の上をはだしで徘徊するのも、路地裏で寒さに震えながら寄り添って眠るのも、もう嫌だった。暖かい布団の中で眠りたいし、腹が膨れる程の食事にだって有りつきたい。
 明日の心配の無い生活が出来るなら、悪魔に魂売るくらいどうって事無かった。

 ただ、生きる為に選べた術が、それだけだったとは、言わないけれど。

 俺達が【売春】を手段に選んだのはそう言った理由からで、そんな生活を抜け出した今でも後悔一つしちゃいない。
 だから誰彼憚る事なく、胸を張って言えるさ。

 理由が必要ならそう、『生きる為に仕方なかった』それで納得できるだろう?



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「アーノン」
 か細い声で、ルーカがアーノンの名を呼んだ。
 鏡で映したように自分とそっくりな顔と身体で、自分とはまったく似通わない性質のアーノンの双子の弟は、震える身体を掻き抱いていた。
 青い瞳の眦にある黒子は、まるで彼が心で流す涙の表れのよう。
 アーノンとルーカの違いは、ほぼそれのみだった。
 成長するにつれ感性や趣味の違いが二人を別個の物たらしめたが、この頃二人を別つものは何一つ無かった。
 ただやはり気性というのだろうか。よくよく知ってみれば、ルーカはその性格を表す様に何処かおどおどした弱さが窺えたし、逆に血の気の多い勝気なアーノンは言葉や態度の端々にその性格が表れていた。
 ともあれこの頃、アーノンはこの弟を何処かで疎んでいた節があった。それは自分一人であればもっと上手くやれるのに、といった苛立ちでもあったし、それでも弟を捨てられない自分への苦悩でもあった。結局の所どんなに粗悪に扱ってみようと嫌悪しようと断ち切れないのが二人の繋がりであり、二人を生かす綱でもあった。
 どちらかが欠ければ残った自分も長くもたないであろう事を、二人ともが良く知っていた。
「何だよ」
 アーノンは素っ気無く言いながら、頬に跳ねた返り血を手の甲で拭った。
「死んで、無い?」
「死んでねーよ」
 怯えた顔でアーノンに殴られて地べたに這い蹲った男を横目にみながらのルーカに、アーノンは舌打ちを漏らす。
 こういった事は、何も始めてでは無かった。
 アーノンはちょっとばかり人より運動神経が良いらしく、俊敏な動きはさながら猫のようだった。相手を挑発させる口八丁にも長けているのだと気付いてからは、道行く者をわざと挑発しては路地裏に連れ込み、殴る蹴るの暴行を加えては気絶した相手の懐を漁るのが癖になっていた。
 もう、これは趣味に近かったかもしれない。
 何せルーカは殆ど役立たずで、売春で身体を売っていても、一度好いた男が出来るとその仕事すら放棄してしまうのだ。のめり込んだ上で捨てられると仕事も手につかず食事すら億劫だと泣き暮らす。
 だからアーノンは身体を売る他に、時々こうやって憂さを晴らしながら小金稼ぎをしているのだった。
 今日とて今し方蹴倒した男の服を漁りながら、アーノンは舌打ちして立ち上がった。
「しけてやがる」
 男の古びた皮財布はひっくり返してみても硬貨が数枚と、札が一枚だけである。ズボンの後ポケットからも数枚の硬貨が出たが、それでも大した金額では無い。
 それなりに高そうな服装だったのに、とんだ見掛け倒しというやつだ。
「ま、待ってよ」
 そのまま路地を戻りだすアーノンに数秒送れて、ルーカは光の差す方向へ走り出す――。


「――何だ、来てたの」
 恋人の元へ向かうルーカと別れ、アーノンが真っ直ぐに家に帰ると、ベッドの上で煙草をふかす男を見止めた。
 瞬間眉根を寄せて、やっぱりどこかに寄ってくれば良かったと内心で舌打ちを漏らす。手に入れたばかりの小遣いでバーにでも入ろうかとも思ったのだが一杯が精々のそれだし、馬鹿馬鹿しくて今日は寝てしまおうと考えていたのに。
 それ以上に運が悪い事態に陥ってしまった。
「今日は、何」
「ルーカは?」
 相変わらず人の問いに答えない男の言葉に、今度こそ舌打ちを漏らす。
「男んとこ」
 それでも律儀に答えてしまうのは、数年の間に覚えこまされた弱肉強食の掟でもあった。
 男はアーノンとルーカに売春を斡旋する、この街の裏社会を牛耳る組織の幹部だ。アーノンとルーカがこの街で生きていく為に、決して逆らってはいけない相手である。
「ふーん」
 男は聞いたものの然程興味の無さそうな体で、ハンガーに上着を掛けていたアーノンに寄り添った。密着したまま、頭二つ分高い男はアーノンのくすんだ灰色の髪に顔を埋めた。
 元々は艶やかな銀色をしていた髪は、汗や埃に塗れてべとついて、汚れている。
 それでも男は上機嫌に「アーノンの匂いだ」等と呟いている。
 男とアーノンはけして恋人、というわけでは無い。ルーカの様に、ただ愛し愛される関係をアーノンは知らない。お互いに利用しあうそれしかアーノンは持たない。
 だから、アーノンと男の関係は、ただ都合の良いだけのそれだった。
「ラシード」
 近付いて来た男の顔に目を伏せて、アーノンは小さく彼を呼んだ。
「ん?」
 男はアーノンの柔らかな肌に唇を寄せながら。
「シャワー、浴びたい」
「後にしろ」
吐息と共に呟いて、男のかさついた唇がアーノンの唇に触れた。


 物音がして、アーノンは重たい瞼を上げた。
 開け放した窓の外、天に浮かぶ月の光が部屋に注いでいる。
 ――いつの間に、夜になったのだろう。
 朧な頭で記憶を探るが、アーノンは情事の最中、三度目に失神した所で記憶が途絶えていた。
 気だるい腕を何とか動かして、体を起こす。
 暗闇に蠢く影があったが、アーノンは怯えるでも無く、小さくため息をついて言った。
「……帰ったの」
 影はゆるりと振り返ってから、壁際の電気のスイッチを付けた。
 突然の明かりに呻きが漏れる。
「ごめん、起こした?」
「いや……」
 申し訳なさそうな声の主はルーカだった。
 ルーカは布団から出でたアーノンの上半身を見て、眉根を歪める。その体には情事の跡が生々しく残っていた。
「……ラシード、来てた、の……」
 ルーカの凝視に気付いて、アーノンはもう一つ、ため息を落とす。
「ああ、うん」
 そこにはうんざりとした響きが強かった。
 どうやら自分は素っ裸のようだが、汗や汚れについては綺麗さっぱり拭われているようだ。むしろ普段の自分の後始末より丁寧なぐらいである。
 ラシードは見た目はすこぶるマフィア向きの男だったが、こういう所は有り得ないくらいスマートで紳士的で、それがまたアーノンの癪に障る。
 そしてルーカもまた違った意味で、ラシードに不満を持っていた。
「今日の仕事は?」
「無いって」
「最近少ないね」
 話を逸らすように言ったルーカの表情がほっと緩む。
「何喜んでんだ、仕事無きゃ食ってけねーだろ」
「それは、そうだけど……」
 批難を込めて言うが、ルーカの顔は緩み続けている。
 仕事、というのは勿論身売りだ。アーノンやルーカに出来る事は今、それだけだ。そしてそれ故に組織に飼われている。だからこそ組織に逆らう事を許されず、逃げる事も最早叶わない。
 アーノンは既にその運命を受け入れていたが、ルーカはと言えば決まった恋人が居る時には殊更この仕事を嫌がる。
 相手の男の方も恋人が他の男に抱かれる、という状況が許容できる筈も無いので、結局長く続きもしないのだが。
 アーノンにしてみれば、そんな刹那的な恋愛に振り回されるルーカは滑稽でしかない。
 アーノンの不機嫌を悟ったのか、ルーカは更に早口で続けた。
「そういや、何で最近仕事少ないのかな。やっぱり食べて行けないのは困る、よね」
「お前はそれで無くても断り過ぎだけどな」
「うっ」
「その度に俺がお前のフリする羽目になんだ」
 何かと理由を付けて仕事を拒否するルーカに最近では抗議するのも無駄だと悟り、アーノンはそれを変わる事も少なくない。最近はその色が特に顕著で、アーノンの事を気遣いながらもルーカはそれに甘えている状況だ。
 悪い、とは思っている――そんな顔でルーカは表情を歪める。
「まあ、いいけど。で、最近の仕事量、だっけ?」
 ぱさついた灰色の髪を掻き揚げながらアーノンはため息を吐き出す。
「恋愛惚けしてんだろ? 最近の街の状態、お前ちゃんと見えてるわけ」
「え、何……?」
「最近別の組織がこの街で仕事してるの知ってる?」
「は?」
「だから俺らの仕事も減ってるわけ。分捕られてるから」
「な、何それ!!」
「しかも相手は無駄にでかい新進気鋭の組織らしい。それもあって、ウチの組織内もぴりぴりしてやがるし、仕事してる場合じゃないってわけ。
……ラシードは特に言わなかったけど、抗争が始まるんだと思うぜ、近々」
 へぇ〜と感心したような声が聞こえる。
「何で分かったの?」
 学の無い二人だったが、アーノンはルーカに比べると優秀過ぎる程優秀だった。ちょっとした感情の機微ですら気付ける。
 ――それに。
「激しかったからな」
 少し皮肉んで笑うとルーカが嫌そうに顔を歪めたので、それが可笑しくてアーノンは声を上げて笑った。
「想像しちまった?」
「っ馬鹿!」
 真っ赤になったルーカの顔は、それでも少し笑っていた。

 ――久しぶりに。
 本当に久しぶりに、二人は声を合わせて笑った。
 一時二人の心は溶合い、そして、束の間の幸福にたゆたう。
 生まれる前、真に二人が一つだった頃の、残骸の様でもあった――。







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2008/05/24