09 人の話を聞きやがれ 後編


 何もかもヤル気になれなくて、その日私は夕飯を食べた直後、寝る気満々でベッドに横になっていた。まだ時間は八時過ぎで、当然のように眠気はやって来なくて、考えたくも無いことばかりが頭の中を巡って、不機嫌が増すばかりで。
 腹立ち紛れに枕を投げてみても、ちっとも治まらない。投げた枕を自分で回収しなくてはならなくて、それが逆に気分を刺々しくさせる。
 あの人は、一体何なのだろう。
 私の気持ちを引っ掻き回す相手、高橋健。
 鈍感で、ガキで、自分本位で、こっちの気持ちに気付かないだけならまだしも、私を傷つけて止まない。
 考えれば考える程、憂鬱になる。あの日の事を思い出すと、涙が出そうになる。こんなに脆い私は知らない。
 だからもう嫌だって、何も考えたくないって、布団に入った筈なのに眠れない。
 悪循環。
 本当はどうするべきかは分かっているけど、もうあと一歩が踏み出せない。
 私がそんな風に布団の中で悶々としていると、十時を示す携帯のディスプレイが闇の中で光り出した。ロッキーのテーマ曲のオマケ付だ。
 私から見た彼女のイメージの着信音は、中々鳴る機会が無い。羽田から電話がくるなんて、滅多に無い事なのだ。
 とても誰かと話をする気分ではなかったけれど、よっぽどの用件なのかと受話ボタンを押す。
『菅野!?』
 瞬間、怒鳴り声。まだ耳を近づける前で良かった。
「……なに怒ってるの、羽田」
『そりゃ怒りたくもなる! アンタ、アレねぇ……』
「はい」
 彼女の物言いに、何故だかベッドの上で正座をしてしまう。
 大きく息を吸い込む気配が電話口からする。私も我知らずそれに倣う。
『高橋は、やめた方がいい!!』
「……は?」
『マジで! アイツはほんと、ただの馬鹿だよ!! 仮に付き合ったとしてみ? アイツに振り回される事必至。間違いない!! 大体奴に菅野は勿体無いっていう話――』
「あの羽田、何なの一体」
 一体彼女は何をいきり立っているのか。普段から彼女の沸点は低い方だけれど、尋常じゃないぐらい怒っている。
『いいから、聞け? マジね、あの鈍感ありえないから。何回相談に来ても意味ないから、アイツ』
「……相談?」
『そうそう。それがちっとも進歩しないんだわ。謝る謝らないの話じゃねぇから、まず菅野の気持ちを考えろっつってんのに「皆の前でキスしたのが悪かった」しか言わないんだよ。そんなんでここまで無視って今時あるかっつーの!!』
「……羽田に相談、してるの? あの、高橋が?」
『そうだよ。ったくあのカス、全く分かってない。小学生だってもうちょっと勘が働くんじゃない?』
 羽田の言葉を意識したのはそこまでだった。そこからは申し訳ないけれど、彼女の話は右から左。
 私はただ、高橋が羽田に相談しているっていうその一点だけに思考を奪われてしまっていた。
 だって、あの高橋だ。
 面倒事が嫌いで、あまり物事を深く考えたり追及する事を知らない。自分の興味が向く事にはとことんなくせして、こっちが振った話に興味が無ければ、おなざりに相槌を打つこともしないで無視とくる。
 そして相談相手が羽田だ。
 彼女は確かに今一番私の心情を推し量れるだろう。彼女はこちらの事情の全てに明るい。抜きん出た洞察力と刑事並の推理力、冴え渡る勘、すべての能力を遺憾なく発揮して、こちらが言葉にしない事全てを把握してしまう。
 けれど彼女の性格は、とても相談の聞き役には向かないと思う。容赦の無い言動も然ることながら、やはりリスクが高いことが一番のネック。何がどう、ということではないのだが、言うなれば”タダでは済まない”のだ。
 頼もしくもあり、厄介な友人、それが羽田。
 多分この認識は友人一同共通だろう。
 今までの経験上、高橋が羽田に関わって何事も無く済んだ事は皆無だ。何時かの放送ジャックも羽田の言動に乗せられて、結果職員室で説教を受けた後に反省文を提出させられたらしい。バレンタインにはチロルチョコ一個を何十倍にさせられたらしい。高塚君が口をすべらせた事だけど、ホワイトデーの映画デートは羽田に券をもらったおかげだったが、一部始終をつけられていたらしく今でも時々からかわれている――勿論、高橋だけが。
 そんな経緯あって、羽田に相談するなんて手段に出るくらいなら、きっと高橋は「気の済むまで怒らせとけばいいや」でくると思っていた。
 こちらが折れなければきっとそれっきり。
 時間が経ってなあなあに元に戻るか、あるいはこのままお互いを知らなかった頃に戻るか。
 もうこれ以上傷付かなくて済むのなら、それもありかと考えた。このまま想いが風化していくのを、漫然と待つ――そうしたらもう、高橋に振り回されなくていい。胸が窮屈になるのも、痛むのも、悲しいのも、全部全部、無くなって――穏やかな日々を過ごせるのなら。
『――菅野、聞いてる!?』
「あ、はい聞いてます」
 不機嫌な声に促されて思わず返事をすれば、何故か敬語になった。羽田が不思議そうに【ならいいけど、】と挟んで言う。
『もうとにかく、このままバイバイかアンタが告るしか進展ないわマジ。時間経っても変わんない。ここでアンタが許して元に戻っても、また同じような目に合うの分かりきってる』
 散々怒鳴って気が済んだのか落ち着いた羽田の声に、うん、それ、今私も思ってたって心中で頷く。
『もう当って砕けちゃえ! そんだけ!!』
 言いたい事を言って満足したのだろう、三十分も電話をしていたくせに切るのは驚く程呆気無かった。
 というより砕けるの前提って、友達としてどうなんだ。彼女なりのエールなのだとしても、せめてそこはもうちょっと言い方を考えて欲しいものだ。
 自分の体温で生温くなった携帯を握り締めて苦笑が漏れる。
 それでも不思議と気分が軽くなったのだから、感謝すべきなのだろう。
 恐らく羽田との電話中に受信していたのだろう、メールが三通。
【佐久間です。高橋はただの阿呆ですが、一応あの子なりに色々考えているようです。愛想尽かすのはもう少し待ってやってくれると嬉しい。】
【理子ちゃん、こんばんヮ。あのね…高橋クンってすっっっっごく鈍感だケド!! 何かチョット憎めません。理子ちゃん、まだ高橋クンの事、許せない?】
【タケはお子様なので色々大変だけど、頑張って。応援してっから!!  BY 日向】
 皆揃って何なのだ。
 普段メールの遣り取りをしない日向くんまで。何だかんだ言いながら高橋を擁護しているメール。
 高橋なんてもういいやって背を向けようとした、このタイミングを見計らったみたいでおかしい。まるで私の弱気を悟ったみたいでおかしい。
 結局の所、高橋には期待出来ないから私が動けっていう事なのだ。
 私が踏み出さなければ事態は変わらない。例えその結果が、友達関係の維持でも、それ以外でも。

 ――逃げていては駄目だと、分かっていた。
 分かっていたのだけれど。

 何度目かの高橋のメールを無視してしまったのは、やっぱり怖かったから。
 向き合うのが怖かった。傷付くのが怖かった。
 何より、高橋の口から飛び出る言葉が怖かった。
 何を言われても自分は酷く傷付くような、そんな不安があったから。

 そして予想通り、屋上に連れ出された私はこれ以上無い位に打ちのめされていた。

 高橋が言葉を連ねる程に、惨めになる。
 高橋が必死になればなる程、虚しくなる。
 本来だったら、愛想をつかされるのはこちらの方だろう。ここまで平身低頭に謝罪をする価値がある、人間ではないはずだ。面白みもない、意固地で、面倒な、知り合って久しくも無い、簡単な付き合いの友達。趣味や話題が合うわけでもない、一緒に居ればそれなりに楽しいものの、顔を突き合わせれば笑い合うより言い合いの方が多いような関係だ。
 自分の性格を自覚しているからこそ、それでも友達で居たいと言ってくれるのは有難いし嬉しい。
 けれど、違うのだ。
 こんな風に友達関係に執着されればされるだけ、自分の恋愛感情が置いてけぼりにされる。
 高橋が続けたいのは友人としての関係で、けしてこちらを恋愛相手として見る気は無いのだと――色恋に興味がないのだと分かっていても、高橋の言葉を聞けば聞く程、苦しくなる。
 何て的外れな言葉。
 怒っているわけでは無いから、許すも許さないも無い。殴っても罵倒しても気が済まない。余計に悲しくなるだけ。
 キスをされた事なんてどうでもいい。周りに人が居たのなんて気にならない。
 そんな事じゃないのだ。
 高橋が私に抱いている感情が、友情だけだと実感する度に、心が痛い。泣きたくなる。 
 勝手な主張だと分かっている。
 必死になる余りに、私を抱きしめるような格好。体温を感じそうな距離に、胸を高鳴らせているのは私だけなのだ。
 何気なく肩に触れる手が憎らしくて叩き落とす。
 目を見開いて高橋が若干身を引いたその隙に、高橋から大きく距離を取った。
 悔しくて涙が出る。噛み締めた唇から漏れる息のなんてか細いこと。
 お願いだからもう何も言わないで欲しい。もう分かったから。もう十分傷付いた。もう何も言わないで欲しい。
 高橋の口を止めたいが為に、私は言葉を振り絞る。
 握り締めた掌に汗が滲む。
 責める言葉になってしまうのは許して欲しい。自分善がりな言動も大目に見て欲しい。
「馬鹿っ! 無神経! 鈍感!!」
 逃げたくなる身体を必死に奮い立たせている。
 気を緩めたら泣き喚きそうな顔を逸らさないように、高橋を睨んでしまう。
 目に涙をためながら、それでも精一杯虚勢を張って。端から見たらさぞ今の私は滑稽だろう。
 戸惑う高橋の姿を視界に捉える。

 ああ、本当になんで。
 何で君なんかが、こんなに。

「君の友達で居るのはしんどい」

 言葉尻が、震えてしまう。
 けれどもう一息と、私は腹に力を入れる。
 見つめる先の高橋は、茫然と突っ立っている。
 大きく息を吸い込んで、

「私は君が好きだから、君と友達ではいられない」

 これ以上傷付くのは嫌。

 小さく呟いた後は、もう、涙を塞き止める力を失くしてしまった。
 ぽろぽろと滑り落ちていく涙を拭おうと拳を緩めたら、もっとひどくなった。掌で目を擦れば化粧が剥げ落ちる感触がした。けれど当然そんな事に構っていられる余裕なんかなかった。



 どうやったら関係の修復が出来るのか、そればっかり考えていたから理子が泣き出したのには驚いてしまった。
 人前で涙を見せる事をヨシとしない性格の理子が、その実涙脆いことはもう知っている。
 何時かの大会、自分たちの浅はかさを愚痴ってしまった公園。俺が泣かないから、なんて意味の分からない理由をつけて涙した彼女が、同じ悔しさを共有してくれようとしたのが嬉しかった。友人思いの情に厚いイイ奴だと知っていても、俺に対してもそれが健在なのだと思うと嬉しかった。
 あの時、本当にこいつと知り合えたことに感謝した。女だからという理由で拒絶しなくて良かったと思うと同時に、失くしてはいけない友人だとも実感した。
 なのに理子は、そんな関係をしんどいと言うのか。
 何時かは嬉しいと感じた涙を溜めて、理子が俺を睨んでいる。
 俺が手前勝手な発言をすると、何時もはすぐに機嫌が悪くなったり怒ったりする理子が、時々そうせずに黙り込むと、反撃出来ないくらいに傷付いているのだとは最近気付いたし、そういう時に泣くまいと唇を噛み締める姿は今と同じ。
 何度も後悔してやっちまったと思っても、繰り返し繰り返し目にする痛々しい表情。
 そんな顔をさせているのは俺で。
 理子はそれをしんどいと、そう言う。

 そんなに俺が嫌いか、と舌打ちが漏れ出た、その瞬間だった。

「私は君が好きだから、君と友達ではいられない」

 予想外の言葉だった。本当に、理子の口から飛び出るとは思ってもいなかった発言だった。
 だから糸が切れたように、ぼろぼろと泣き出す理子を見つめて呆然と突っ立ってる事しか出来なかった。
 今、こいつは何を言ったのだろう、と。何度理子の言葉を繰り返してみても、すんなりと飲み込めない。
 その間にもどんどん歪んでいく理子の顔は、化粧が崩れてすごい事になっていた。両手で顔を拭う合間、鼻を啜る音がした。
 強い風が吹くと大きく孕んだ理子の長い髪と一緒に、涙の雫が空に踊る。
 じわり、と。
 胸の内が奇妙に燻った。
 今こいつは。
(好き……?)
 じわりじわりと、ゆっくりと染み込んで来た単語をやっとの事で理解する。
 それが、馴染みのある言葉だと理解する。
 愛だの、恋だの、俺にとっては不可思議で面倒な感情。俺の時間を我が物顔で束縛する為の、都合の良い言葉のような気がしていた言葉。
 中学の頃、あまりに強烈なアプローチを受けて、降参するように付き合ったのは一つ上の紀子の友人。
 紀子は当時結構グレていて、周りに居る友達も同様で、親父が家にいないのをいい事に友人や男を連れ込んでは騒いでいた。そこで女の実情を垣間見てしまった俺にとっては、女は既に憧れる対象ではなくなっていたから、好き嫌いという感情より、それはもう性的な興味で付き合っただけだった。
 何時も香水の甘い匂いを漂わせていた彼女は、男慣れしていたのだろう。だからちっとも控えめな所がなくて、勿論性格も手伝ってかなり強引で、何時でもどこでもイチャイチャしたがる女だった。
 毎日のように電話を請い、休日にはデートを請い、年下で経済力皆無である俺にも関わらずあれやこれが欲しいと、イベント毎に強要する。部活が忙しいと言えば、「アタシと部活とどっちが大切なの」と無茶を言い、そいつの夜遊びに寛大であれば「浮気してるんでしょ」と変な疑いをかけられ、面倒になって別れを切り出せば、あっさり頷いた変わりにとんでも無い噂を立てられた。
 女が全員そうだとは言わないけれど、愛想が尽きるには十分過ぎた経験。
 だから、告白は全て、うんざりするだけのもの。心動かされる要素は一つも無い。
 それなのに、今、俺の胸に広がっていく覚えの無い感覚がある。
 思わず口元を掌で覆ったのは、頬が緩んでいくのが分かったからだ。

 嬉しい。

 好きだ、という、聞き飽きた単語が、これ程までに響くものだなんて、俺は知らなかった。

「理子」

 緊張のせいか、声が酷く無機質になってしまった。
 理子の肩がびくり、と大きく震える。
 こちらを見ないまま、息を潜める気配。けれど時々しゃくり上げ、喉を過ぎていく嗚咽。

「あのさ、」

 応えあぐねて、咳払いを一つ。
 何を勘違いしたのか、顔を覆っていた両手が両耳を塞ぐ。

「分かってるから、言わないでっ!!」

 悲鳴じみた鋭い拒絶に、俺は思わず笑ってしまう。
 俺の今までの態度が、理子を何度も傷付けだのだろう。理子が俺を好きなのだとしたら、何度も何度も俺は、彼女を痛めつける言葉を投げつけてきた。
 それでも理子は友達として、傍にいてくれた。
 鈍過ぎる俺を見放さず、一緒にいてくれたのだ。

 きつく耳を塞ぎ俯く理子に近付いて、その腕を取る。脅えたように見上げてくる瞳を覗き込む。

「いいから、人の話を聞きやがれ?」

 ひっとしゃくりあげる度、震える唇。揺れる睫毛。
 マスカラが剥げ落ちて、黒い筋となって頬を伝う。瞼ははれぼったくて、鼻は真っ赤で、ぼろぼろのぐずぐず。
 それなのに、不思議と、ただただ可愛く思えてしまう。

「俺も、」

 口を開いた瞬間目をきつく閉じた理子。
 その仕草すら、俺の心を暖かく満たしていく。
 衝動のまま理子の背中に手を回して抱きしめてしまう。 
 
 
 胸の内から湧き出す気持ちを、迷わず言葉にする。

「理子が好きだ」






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