06 だって外、寒いじゃん 後編


 起床してカーテンを開けてみれば、今日も外は相変わらずの雨だ。
 どんよりとした灰色の雲の上の太陽は、一筋だって注いじゃいない。
 ――雨は嫌いじゃない。規則的に振り続ける雨の音も、独特の匂いも、どこか落ち着く。だからと言って何日も振り続けられると流石にうんざりとはする。
 まあ梅雨だから、仕方が無い。
 欠伸を噛み殺しながら自室を出て、ひんやりとした廊下を裸足の足で歩く。
 紀子が結婚して家を出てから、この家に人気は無い。母親が死んでからの父親は一心不乱に仕事に打ち込み、そのせいで昇進を重ねて今や家に帰ってこれない程多忙だ。昨日も会社に泊まると電話が入ったから、数えて一週間父親に会ってない事になる。
 父親が恋しい年齢でも無いし、俺としては一人暮らし気分を満喫出来て万々歳だ。
 リビングの電気をつけて、冷蔵庫へ向かう。昨日の夕飯の残りを出して、コップに麦茶を注いだ。ご飯とハンバーグをレンジに入れ、その間にレタスを皿に盛る。プチトマトを軽く洗って上に乗せ、温まった飯とを持ってダイニングに移動した。
 テレビをつけると、ニュースがほとんど。後は休日の朝にやっている子供向けの番組、アニメ。
 右から左に聞き流しながらも、ニュース画面を見る。テロップが告げる天気予報は、今日も雨。
 掻き込むようにして朝食を平らげ、洗面所に移動する。何時も通りあんまり寝癖のついていない髪を手櫛で整え、冷水で顔を洗った後歯を磨く。
 スウェットパジャマを脱ぎ様、たまっている洗濯物と一緒に洗濯機に放り込んで、スイッチを入れる。
 ――一人暮らし気分は嬉しいが、炊事洗濯掃除全てを自分でやらなければならないのが面倒だ。おしゃべり好きの紀子にはうんざりしていたが、居ないと居ないで文句が出る。
「結婚とかはえぇし」
 言っても仕方が無い事だが、一つ上の姉が結婚して、その腹に子供がいると思うと微妙な気分になる。相手がいいトシなんだから、ありえるってのはわかってるが。
 部屋に戻ってクローゼットを開ける。適当に服を見繕って着替える。ついでにパーカーをハンガーから抜いて、ベッドに放る。
 壁掛けの時計はまだ8時。
 部活の無い休日とは言え、俺はいそいそと出かける仕度を始めた。
 洗濯は当然のようにまだ廻っているが、これは帰ってから干そうと決める。
 玄関の鍵をチェックしてから、俺はマンションを出た。

 チャリで駅まで向かい、そこから電車に乗り込む。調度滑り込んできた車両に思わずほくそ笑んでしまう。なんてタイミングがいいんだろう。
 理子の家までは三十分もあれば着く。
 駅前のコンビニで今日発売のバスケ雑誌を買う。一応お礼の品でも買って行こうと、店内を物色しながら、新発売の菓子やらチョコやら飲み物やらをカゴに入れていたら、結構な量になってしまった。
 コンビニで時間を食ったのか、理子の家に着いたのは9時チョイ過ぎだった。
 外観の綺麗な一軒屋。ガーデニングに凝っているらしい理子の母親の手で、庭は綺麗に色づいている。雨に濡れる花や木々がいい雰囲気だ。アーチを描いた庭の入り口のポール(でいいのか?)には蔦が絡んでいて、足元には煉瓦が広がっている。この先にはなんかこ洒落た喫茶店でもありそうだな、と思う。
 理子の家に来るのは二度目で、その時は周りに目を配る事もしなかったから、こんな風になっているとは思わなかった。近所の中でも一際目立つその家のチャイムを鳴らすと、少しして玄関のドアが開いた。
「……おはよう」
「おす」
 ドアノブに手をやったままで、理子が苦笑しながらくれた挨拶に俺は手を上げて答える。
 休日の、それも早い時間から、やっぱり理子は完璧だった。細身のパンツや白いニットの上着は理子のスタイルの良さを強調している。
 肘でドアを押さえながら、理子が少し身体を中に戻し、DVDを差し出してくる。
「はい、」
 その瞳が怪訝そうに、俺の大荷物を見た。
「何それ」
 大きなコンビニ袋を持っている俺は、夕食の買い物でもして帰ってきた主婦みたいになっている。
「何って土産?」
 袋を胸の位置まで上げて言うと、理子は
「そんなのいらないのに」
とか可愛くない事を言う。まあでも、土産ってのは半分本当で半分嘘だ。ほとんどは自分が食べたくなって買い込んだ菓子なのだから。
「まあでも、ありがとう。……えーと、袋ごともらっていいの?」
「あー俺の雑誌とかも入ってるから、」
「……じゃあ、とりあえず袋かして。これ、どれもらっていいの?」
 一度DVDを家の中に戻してから、理子が両手を差し出して来たのでその手にコンビニ袋を手渡して。
「てか、上がらせて」
「――は!?」
「だってDVDここでダビングした方がはえぇし。返すのも面倒。その間買ってきた菓子食おうぜ。限定品とか一杯あっから」
 最初からそのつもりだったわけでも無いのだが、空のDVDは持参済みだった。折角買った菓子も食いたくなっていたし、雨だし。
 なのに理子はありえない、とでも言いたげにきょとんとした顔。
「じゃああげるよ!」
 そこまで嫌そうにされると傷付くわっ!!
「なんでだよ、いいよ。それに、」
 俺の中では上がりこむのが決定事項で、早速傘を畳んで一歩を踏み出す。
「だって外、寒いじゃん?」
 思いの他梅雨の時期は寒い、というのを毎年実感しながら、今日も若干薄着だった俺は成長しないかもしれない。
 こういう言い方をしてしまえば理子が、断れないと分かっていたのもあるが。
「……今日家、誰も居ないんだけど」
「お、ラッキー。楽でいいじゃん」
 気まずそうな理子の肩を押しながら玄関に押し込むと、理子は何とも言えない顔でため息をついて、「馬鹿」とか小声で呟く。
 全く意味が分からん理子の様子を無視して、俺はさっさか靴を脱いで、理子の部屋のある二階へと歩を進めた。

 理子の部屋は意外に可愛いと思う。意外と言うとぜってぇ本人は怒るだろうけど。
 そもそも色合いが彼女の雰囲気に似合わず、淡いピンクとかイエローとかなのだ。服装もクール系だし、昼に見る弁当箱も「男かよっ」と一度突っ込みを入れた事があるが、黒だった。だから理子の部屋はモノトーンってイメージがある。
 床に敷かれたホットカーペットの上には恐らく理子が座っていたのだろうクッションと、膝掛けがある。温かそうだと足を入れてみれば
「おーぬくいー」
予想通り。足を擦り合わせながら楽な姿勢を取ると、どうしても寝転がる形になった。
 クッションを枕に嘆息していると、理子がやって来る。
 何をしてたんだ、と思いながら体勢を立て直す俺を呆れ顔で見つめる理子。その手には押し付けていたコンビニ袋がある。雨に濡れていたビニールは理子が拭いて来てくれたのだろう、水滴一つついてなかった。
「ちょっと、そこ私の場所」
「いいだろ、客に一番いい場所与えるのが普通じゃんかよ」
「ずうずうしい客が居たもんね」
 猫足のテーブルの上に袋を置くと、理子は早速プレイヤーに移動するから、
「あ、待て。まず一度見ようぜ!」
「はぁ?」
「すぐ見てぇっつっただろ。ダビングの前に見て、それからで」
「……ほんっと図々しい!!」
 とか何とか言いながらも、リモコンを操作して再生してくれる。
 俺はそれを見ながらコンビニ袋を漁って、新発売でしかも期間限定のポテチと林檎味のチョコレートを開けた。
 向かいのソファにかけた理子が、それを見て少し顔を綻ばせた。
「それ、私も食べたいと思ってたやつだ」
 指差すのは林檎味のチョコ。開けた箱に伸びてくる白い手に、目が行く。細い指先は綺麗に整えられて薄っすらネイルが施されているようだ。普段はあんまり意識しねぇけど、こいつもやっぱり女なんだよなぁとか改めて思う。
 今まではお洒落だ何だと言って化粧をしたり、爪に磨きをかけたり、流行の服を着ているような女共は嫌いだった。近付くのも嫌だった。だったら羽田みたいに部活に力を入れて、「恋愛? 何それ」みたいなタイプの方が断然良い。女と意識させるような外見に気を使っているような奴は、頭が軽いと思ってたからだ。
 今まで近付いて来た女達は大抵そうだったし、口を開けば雀みたいにピーチク五月蝿い上に、話す内容は興味の一つも持てなかった。
 なのに理子という奴は、見た目はしっかり女子なのに、会話は男同士と同じだけの気軽さがあった。最近の高塚に比べたら、理子の方がマシだ。アイツは最近口を開けば「彼女欲しい」しか言わないからな!
 今も理子はテレビ画面を真剣に見つめている。フリなんかじゃなく、ちゃんとバスケに興味を持って見ているのが分かる。
 逆に俺の方が気がそぞろになっている位だ。
 朝はこのNBAの試合を楽しみにしていたのに、憧れる選手がシュートを決めてもあんまり胸が躍らない。
 学校以外の理子が新鮮だからか、テレビを見ている理子の横顔ばっか眺めているように思う。
 化粧の効果か相変わらず睫毛が長い。あ、今すっげぇ仏頂面してる。鼻の上の方に皺が寄っていて面白ぇ。
「ねぇ」
 噴出しそうになったのがばれたのかと思って、一瞬肩を揺らしてしまった俺に気付いていないのか、理子は小首を傾げて続ける。
「あの小さい選手、あれ日本人?」
「いや、日系だけどアッチの人」
「ふーん」
 片手でポテトチップスの袋を漁っている。指についた海苔塩を舐める赤い舌が、艶めいた唇の中から覗く。
 ……何を考えているんだか。
 別に性欲が無いわけではないし、そういう事に興味がないというわけでも無い。男の生理現象は毎日発生しているし、エロ本だってAVだって見る。でもそっちに意欲を向けるよりバスケと向き合っていたい。その為に彼女が欲しいなんて思わない。むしろ面倒だからいらない。興味無い。
 だから俺に対してそんな面倒な恋愛感情を向けてきて、近付いてくる相手は容赦なく遮断してきた。
 理子達はそういうのが無いから、友人として付き合ってきた。
 でも、彼女らも女なのだ。
 今更ながら理子が女なのだという事を意識してしまう。
 何時か高塚が仮想理子に夜のお世話になっているとか馬鹿な事を言っていたが、そういう対象になり得る相手なのだと急激に意識している。
 ――頭が可笑しいんじゃないだろうか、俺。
 そう思いながらも目は、理子の身体をなぞるように動く。
 丸みを帯びた肩とか、ニットを押し上げる自分のものとは違う膨らみを持つ胸とか、くびれた腰とか。両手で抱え込んで体育座りしている理子の、ジーンズから出ている白い足首とか。
 胸を強調するような露出の激しい服を着て、その身を押し付けてくるような相手を小馬鹿にしていながらも、その実その胸に視線を注いでしまう、年頃の男としての俺は否定出来ない。
 でも、今更。
 今更ながらに、そんな風に理子を意識するなんて。
(たまってんのか……?)
 高塚じゃあるまいし、友人をそんな対象にしてしまうのは後ろめたい。
 どんだけ欲求不満なのか。バスケで解消しきれていないのかもしれない。
 今日の帰りはビデオ屋に寄る事にしよう、と決めて頭を振る。
 テレビ画面に目を戻せば、何時の間にか最終クウォーターに入っている。
 そこからはどうにか試合に集中する事が出来た。

「あの12番の選手すごかったね!」
 興奮気味に、頬をほんのりとピンク色に染めた理子が、はしゃぐようにして言った。こんな理子は見た事がないかもしれない。自分の家だからかリラックスして、子供のような満面の笑みを見せている。
「ウォルターな」
「そう、それ! ダンクが出来るってすごい」
 どうもこの試合は理子も見ていなかったらしい。
「あー体動かしたいー」
 身体を解すように大きく伸びをしながらの理子が、ため息混じりに呟いた。
「お前も部活入れば?」
「ん……でも、今更だし。実際毎日部活に入れ込む元気も体力ももう無いんだよね」
「ばばぁ」
「うるさい」
 それだけじゃない、というのは佐久間に聞いている。
 何時も夕方になると帰宅していく理子。去年ラーメン屋に誘った時は「遅くなるといや」とか何とか言っていて、その時はどんだけ自意識過剰なんだと笑えたのを覚えている。夜の一人歩きに過剰な危機感を抱いている変な女、そんな風に。
 だけど違うらしい。中学時代に部活帰りの彼女は実際に危ない目に合っているのだという。
「そんなら今度、皆でバスケやるか!」
「え?」
「ラウンド1とか行って、体動かそうぜ」
 自分で言っておいて、それはいい提案だなと思った。それに乗って理子が大きく頷いてくれるから、余計にテンションが上がった。
 あーやっぱり理子は気楽だ、とか考えてしまうのは、最近とみに女関係に疲れているからだろうか。
 最近人を見る目を変えて、少しずつ女子共とも関わるようになっていた。腹の立つ事も面倒臭いこともやっぱり多いが、話してみると気のいい奴も沢山居るもんだと思った。だから昔よりも態度が良くなった、とか言われるくらいだ。
 でもその所為か、恋愛話もまた耳につく。「彼女いるんですか」「菅野先輩と付き合っているんですか」「どんな人がタイプですか」と、聞かれる事が多くなった。その度に「興味無い」と返しても、相手は納得しない様子だ。
 これだけはどうあっても面倒だ。煩わしい。
 こういう話題は女子につき物だというけれど、そういう話だけは疲れる。
 タイプなんて考える余地も無い。そんなものは無いからだ。興味無い=タイプなんて無いのだ。
 ただ面倒が無い。うるさくない。煩わしくない。疲れない。お前達とは正反対の相手だ、とは言いたい。そんな奴が居るかは甚だ疑問だ。
 あーでも……理子はそれに近いかもしれない。
 どうしても誰かと付き合わなきゃならないなら、理子が理想だ。
 そこまで考えて、俺ははたと目を見開いた。
 今、とてつもなくいい考えが浮かんだ。
 ポテトチップスを掴みかけで理子を凝視している俺を、理子は不思議そうに何度か瞬いた後、
「何よ?」
居心地が悪そうに視線を逸らされる。
「あのよ、」
 一石二鳥とは、まさにこの事だと思う。

「俺と、付き合わねぇ?」





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