04 何を忘れたか忘れた


 始終にこにこしている私を、旦那が物珍しそうに見ている。
 助手席の私に、運転席からちらちらと視線が投げ掛けられて、その視線がミラー越しに後部座席の弟に映るのを横目で視認した。
 私も続いてミラー越しに背後を見れば、そこにはしかめっ面の弟の顔。
 思わず噴出しかけて、慌てて掌で口を押さえたのだけれど、
「……何だよ」
見咎められていたのだろう、不機嫌な声が問い掛けてきた。
「別にぃ〜?」
 私が何とか笑いを納めたのに、代わりとばかりに隣で旦那が「ぶっ」と声を漏らした。
「ははは、」
 と笑いながら、青信号になった瞬間急発進し出して、私の身体ががくりと前にのめった。背後の弟、健も同様だったようだ。「悠さん!!」と、けして急発進に対してだけでない抗議を上げた。
 シートベルトをしているとは言え、一応私も妊婦として旦那の無用心さを睨みつける。
「ごめんごめん」
とちっとも反省の色の無い調子で、軽く言うのは旦那の常。これでよく学校の先生なんてやっていると思う。
「いやでも、理子ちゃん? 紀子の言ってた通り本当に美人だったねぇ」
 またもや信号で止まるなり、私の膨れ上がった腹を撫でて「ごめんね」と呟いた後、旦那がぽそりと、何でもないことのように話を振ってきた。
 それに私は思わずにんまり、健は眉根を寄せて明後日の方向に視線を逃がした。
「でっしょう? 全く、本当に……あんな子が健の彼女だったらどれだけ良いか」
 ――実際、付き合っているんだって思ったのに。
「俺、どれだけ全否定されたと思ってんだよ」
 仏頂面の健に、私と旦那は顔を合わせて堪らず噴出した。



 今日は、私が待ちわびていた菅野理子ちゃんとの夕食会。
 健と理子ちゃんの映画館デートから二人が付き合っているものと勘違いしていた私は、女嫌いの弟を良くも射止めてくれた、と理子ちゃんに感謝したい一心で会う機会を作ってもらった。弟を女嫌いにしてしまった一端を作った後ろめたさと、やっぱり姉として、私にとっての旦那のような大切な存在を作って欲しいという願いもあって。理子ちゃんが健の事を気に入ってくれているんだな、というのは初めて会った日に何となく感じていたけれど、あんな可愛い子が健のような面倒臭い男に、正直どれだけ構っていられるかっていう不安もあった。
 健が恋愛をするなんて正直想像も出来なかったから、二人一緒の雰囲気とかを見てみたいなっていう興味もあった。
 だから私はそのまま二人の付き合いを勘違いしたまま当日を迎え、旦那の方も同様だった。
 それで部活帰りの健を学校前で回収して、理子ちゃんの家へ彼女を迎えにいって。会った瞬間抱きついた私に気まずそうな理子ちゃんが「紀子さん何か勘違いしてらっしゃると思うんですけど」なんて言った言葉は右から左へ聞き流してしまっていた。
 店に向かう道すがら私はご機嫌に話しまくって、他の人が言葉を挟む余地もないくらいで。
 理子ちゃんが何か言いたげにしているのにも、気付かなかった。
 旦那の奢りだから、と言ったら萎縮してしまって、そこそこ値段の張るイタリアンレストランでは、理子ちゃんは簡単な料理しか頼まなかった。「実はお腹が空いてしまって、来るまでに軽く食べてしまったので」なんて、苦笑しながらこちらを気遣ってくれる優しさが、旦那と私にとって好感触だった。
 本当になんでこんなにイイ子が、健なんかと――って、弟の事はかなり優良物件として扱っている私だけど、恋愛面では不安ばっかりな弟ではあるから、逆に申し訳なくなってしまって頼まれてもないのに次から次へと料理を皿にもってしまっていた。でもどうやら食が細いらしい理子ちゃん。途中からはちっとも遠慮しない健が理子ちゃんの皿から料理を摘んでいた。そういう姿はカップルとして板についていると思えたから、
「以外にナイスカップルだねぇ」
と旦那が笑ったのに追従して、
「二人が付き合ってくれて、本当嬉しいよ」
なんて言ってしまったんだ。
 瞬間、笑顔の私達夫婦とは対照的に、対面の二人が固まった。
「はぁ?」
 としかめっ面の健が素っ頓狂な声を上げ、
「やっぱり勘違いしてらっしゃるんですね」
と理子ちゃんが困ったように笑う。
 先に感づいたのは旦那だった。悔しいけど年の甲っていうか。
「あ、ごめん。てっきり」
 と話を終わらせて、デザート頼む?と持っていった旦那を無視して、私は食いついてしまったんだ、そこに。
「え、違うの!?」
 半立ちで机についてしまった手が、思いのほか大きな音を立てた。
「何でそうなるんだよ」
とため息を吐いた健の隣の、理子ちゃんの傷付いた顔には私は気付かない。
「だって、この間二人でデートしたって、」
「あれはバレンタインのお返し。そういうんじゃねぇよ」
「でもでも、あんたが女の子と二人で出かけるとかさ、初めてじゃない?」
「男も女も関係ないだろ。友達なんだから二人で遊ぶ事もあるよ。それにこいつ、映画好きだし。調度いいと思ってさ」
 それに、と横を向いた健。そこで初めて、理子ちゃんの顔が強張っている事に気付いた。
 あちゃーといった感じで、隣で旦那がため息をつく。
「理子、好きな奴いたよなぁ?」
「――え?」
 理子ちゃんの怪訝そうな声、驚く私達夫婦。
 構わず健が続ける。
「何だっけ、前……ほら、昼休み? 飯ん時に島野が言ってたじゃん?」
 島野というのが、真知ちゃんと再会した日に一緒にいた女の子だったと思い出す。可愛い顔の優しい雰囲気の女の子。守ってあげたいって無意識に思ってしまうような。
「理子に好きな人出来た? って聞いてたろ。その相手ってそういえばあれからどしたん?」
 理子ちゃんが言葉に詰まったのが分かった。え、それってもしかしなくてもあんたの事なんじゃないのって思ったのは言うまでも無い。
 低い声で応じる理子ちゃんが、私達夫婦の存在なんて忘れ去ってしまったのか、がらりと雰囲気を変えた。
「……今でも、好きですけど?」
 何か? とにっこり笑った顔が怖い。
「何だよ、告白しねぇの?」
 なんて何でも無い顔でからかいに入った弟がぐるりとこちらを見た。
 今度は私達夫婦が固まる番だった。
「そんなわけで、お互いに眼中に無いって話」
 大体恋愛なんて面倒だっつってんだろ、って何時ものお決まりの健の台詞が最後。
 噛み締めた理子ちゃんの唇。震える睫毛に視線がいった。
「まあ、健に理子ちゃんはもったいないよなぁ」
とフォローに入った旦那の声に、理子ちゃんは覚醒したようだった。はっと顔を上げて私達を見つめた瞬間瞠目して、それから作ったような笑顔。
 綺麗な、淀みの無い笑顔。
「そうですよ。ホント、紀子さんったら何でそんな勘違い」
 とまっていた理子ちゃんの箸が、詰め込むようにして料理を口に運んだ。
 それを優雅ともいえる動作で咀嚼してから、健を睨むようにしてにっこり。
「私、皆が高橋の何を見て好きだって騒いでるのか、ちっとも分かりませんもん」
 隣で健がしかめ面。
「大体愛想は無いし、恋愛経験の有無の前に思いやりとか優しさは足りないし、何時も機嫌悪いですし。唯一マトモなのがバスケしてる時ですけど、そういう時の高橋ってただの子供ですよ?」
 本当に、何がいいのか分からない。そう告げた理子ちゃんの、それが本心なのだろう。だけど好きなのだ、と声無き声が聞こえた気がした。
 だけど健もそれにカチンときてしまったのだろう。
「俺も同意見だね、そりゃ。お前は外面いいだけで実際愛想無いし、一言多いし、すぐ機嫌悪くなるし? 面倒臭いったらありゃしねぇ」
 理子ちゃんが挑発的に笑う。でもその瞳が傷付けられて揺れているのを見逃さない。
 二人の応酬を呆気なく見守っていた私は、そこで慌てて声をかけた。
「健っ!」
「あ!?」
と不機嫌な顔に。
「私、ケーキ食べたいんだけど」
「食えば?」
「頼んできて」
 デザートのケーキは入り口のガラスケースを見て選ぶ仕様だ。
「自分で行けよ」
「妊婦動かす気?」
「俺からも頼むよ、健」
 二人掛りでそう頼めば、恐らく怒りの溜飲が下がったのだろう、はっと気まずそうに理子ちゃんを見て、健が頷いた。
「……理子は?」
 幾分険の取れた声音に、理子ちゃんも空気を振り払うように笑顔を見せる。
「私は、お腹一杯だからいい」
 それから健が去ると、理子ちゃんは苦笑して私達に頭を下げた。
「ごめんなさい、馬鹿みたいな所見せて。……高橋、何時もあんな感じで」
「……うん」
「だから、まだ告白とか全然夢のまた夢って感じで」
 ちょっと腹立たしくなっちゃいましたって、素直に吐露してくれる理子ちゃん。
 本当に良い子だ。
「高橋、いい所ばっかりです。本当に。あんな事言っちゃいましたけど……」
「いいよ、本当の事だもん。それよりごめんね、あんなので」
「いいんです、慣れてますもん」
 ふ、と理子ちゃんの視線が流れた。入り口の方へ向いた視線が、私からは見えない健を見ているのだろうと思った。
 理子ちゃんの口元に微かに浮かんだ笑み。
「少しでも、あいつが私を見てくれればいいんですけど」
 自嘲とも取れる笑顔が寂しくて、私は何も返せなかった。

 それからはまるでさっきまでの居心地の悪さなんて無かったかのように、話が弾んだ。理子ちゃんはくだらない話でも笑ってくれたし、聞きたかった事として突っ込まれた私と旦那との馴れ初め話も、砂を吐く程嫌そうな顔の健とは対照的に、興味心身で聞いてくれた。旦那にも軽い話を振ってくれて、旦那が「大人だなぁ」と感心していた事しきり。
 こりゃほんと、健には勿体無いよ――って、耳元で囁いた旦那の言葉には激しく同意だ。

 そんなこんなで楽しい時間はあっという間。
 会計に残った旦那を置いて先に店を出ると、理子ちゃんが慌てて言った。
「ごめんなさい、私携帯忘れてきちゃった」
 と戻っていく理子ちゃんの背中を健が見つめている。
「……俺も忘れモン」
 って。部活帰りの健は荷物全部車の中に置いてきた手ぶら状態であったにも関わらず、そう言って店へ逆戻り。
 旦那が不思議そうな顔で出てきた。
「……どしたの、あの二人」
 そう心配するような事もないのかな、と私は笑ってしまった。



 二人を待って車に乗り込み、家路を辿る間も笑いながら話をした。
 理子ちゃんの家で彼女を下ろして、後は三人で家へと帰宅。
 その間私がニヤニヤし過ぎて、健は後部座席で仏頂だ。
「そういえば、健。店で何を忘れたの?」
 窓の外を眺めているらしい健をミラー越しに見やりながら、私は何て事無い調子で問い掛ける。
 眉間に縦皺が増えた健が沈黙に徹するのを、
「健?」
名前を呼ぶ事で逃がさないようにして。
 するとちら、と目線を前にやった健が唸る。
「……何を忘れたか忘れた」
 不器用な弟の、それが精一杯。
 私と旦那が同時に噴出すと、座席の背中を軽く蹴られたのだろう振動が伝わった。
 爆笑する旦那が滑らかな運転を乱し、私と健が揃って旦那を睨んで。

 ――そうこうする内に、実家へと辿り着いていた。





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