25 一緒にいかないか
「一緒にいかないか」
それは、ひどく魅惑的な誘いだった。
君が伸ばしたその手を取って、全てを捨てて逃げられたのなら、どれだけ幸せだっただろう。
けれど私は頭を振った。
悲しそうな君の瞳を真っ直ぐに見つめ返す事しか、私には出来なかった。
「愚かだ」
と呟く君を、曖昧に笑って見送る事しか。
砂漠の中のオアシス都市、ジャバル。
その地を治めるのは十八人もの妻を持つ老将軍・ゼダ=メイシャルだった。
かつて戦の最中において誉れを抱いた英雄。その功績を讃えられてジャバルを与えられたものの、戦を離れてしまえばその栄光も失墜する。
統治者としての彼はお世辞にも立派とは言い難かった。
彼は民を省みない。
ただ新しい妻を娶っては種をばらまき、オアシスの恩恵を享受し続けた。
軍に居た頃よりの副将、そして優秀な長男がメイシャルを支えたからこそ成り立っていた。
私の母はメイシャルの第十夫人で、彼の母は第十二夫人だったが、私より彼のほうが一つ年上だった。どちらの母も子供を生んでしばらくして離宮に移された。
――メイシャルの寵愛を失ったのだ。
華々しさとは無縁の、生活だった。私も彼もメイシャルの後釜など望めない立場だった。
けれど両母は私達がだた健やかに育つことを願っていたし、私達にとっても然りだった。
離宮に移された女達のほとんどは自身の非業を嘆くか、メイシャルへの恨み辛みを離宮の中で晴らす事に夢中で離宮の内情は悲惨極まり無いものだったが、私と彼と両母にとっては何ら関わりの無い事だった。
その生活に不満は無かった。
けれど彼の母親が離宮での諍いに巻き込まれて亡くなった時、私達の幸せは潰えたのだ。
彼は母親の形ばかりの葬儀を終えると、ジャバルから出ていこうとしていた。私達は虜囚では無かったから、ジャバルを出ていく事で咎められることは無い。門扉は常に開いたままの離宮で、出る者も入る者も形ばかりの検査がされるだけだ。
ただ離宮から離れて、どう生きていけるか皆不安だったのだろう。どんなに不満を口にしても、離宮を去った者は死者のみだった。
何の庇護も無く、何処へ行くというのだろう。
砂漠の上で野たれ死ぬのが関の山だろう。
けれど彼は自分の意志を曲げなかった。
彼は一緒にいかないか、と私を誘ってくれたし、甘美な誘いに思えたけれど、彼の母の死を哀しみ衰弱する生母を見捨てられなかった。
彼は独り去り、私は残った。
翌年母が亡くなり、六年が過ぎた。
王位継承の儀の数ヶ月前の事だった。
メイシャルの長兄は北からやってきた盗賊に敗れ、ジャバルに盗賊の手がかかった。逃げ惑う民。焼け落ちる家屋。麗しき都が崩れ落ちていく。
その様子を私は、離宮から見つめていた。
火の手はそこかしこで上がっていた。
記憶よりも大人びた彼が、黒い装束に身を包んで、燃え盛る庭に佇んでいた。
険しい瞳よりも更に鋭い光りを放つ短刀を、血に濡らして彼は懐かしい声で私を呼んだ。
私の心をあの頃に戻す、惨酷な声。
離れていた時を飛び越えて、やってくる。
彼は、賊の一人だった。
彼が手を差し伸べて来る。
昔と同じ様に、私を誘う。
「一緒にいかないか」
けれどメイシャルが逃げ去った今、私は、ただ、頭を振る事しか出来なかった。
一緒に行けたら、幸せだろう。
あの時取る事の出来なかった、彼の手を取って。
けれどそうした時私は、滅びたジャバルの都を想って、犠牲にした命を思って、過去の幸せに逃げるだろう。
王は居ない。
残虐を止める者は居ない。
足元に転がったメイシャルの置き土産を、頭上に抱く。
彼の顔が、くしゃりと歪む。
――君と行きたかった。
――君と、生きたかったのだ。
盗賊は王を殺し、ジャバルを奪った。
その王冠を頭に抱き、満足そうに玉座にかける。
ジャバルの騒乱は、王の出頭により被害が拡大する前に収束した。
一日だけの最後の女王は、その名を歴史に遺す事はなかった――。
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title by 悪魔とワルツを - 最後の一秒が君と一緒ならいい
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