16 本の虫

取捨選択の自由」「きのうの夜のこと」の続編のようなお話です



「……えーと、じゃあ、その……、お邪魔、します」
「はい、どうぞ」
 私は少しの緊張感と、ちょっとした疑問を胸に、その家に足を踏み入れた。
 私は母親と二人暮らしが調度良い2LDKのアパート暮らしだが、松本さんの家はオートロックマンションで4LDKという立派さだった。マンションの外観を見上げた時点で、考え無しに待ち合わせの駅で合流した自分の浅慮に気付いたが、時既に遅し。
 こう言う場合は、あれか。手土産の一つも持参するべきだったか。もう少し服装に気を遣うべきだったか。セレブ感のあるマンションへ、庶民感丸出しの私なんかが出入りして大丈夫か。
 そんな事をぐるぐる考えながらも、松本さんの案内でエレベーターに乗った。
 発端は、一週間前。
 そう、たった一週間前のことだったのだ。
 お互いの母親の策略で、居酒屋で初対面を迎えた私『常盤杏子』と彼『松本良太』は、お互いの母親の話で意気投合し、酒の手も借りてそれなりに打ち解けて。
 母親の紹介で『会う』ことになった理由が、それぞれ条件を提示されての事。私は母の作るチーズケーキにつられて、松本さんは母親の蔵書の本を譲り受ける為。私もそれなりに読書は好きなので、お互いの好きな作家の話や共通の読了本の感想を言い合う内、松本さんがかなりの本の虫で、自室は書斎の様相である、と知った。何とは無しに「今度、なんかお勧め貸してください」などと言ったところ、「いいよ」と返事を返されたものの、お決まりの社交辞令だと理解した。
 帰り際、連絡先を交換したが、それきりだろうと自宅に帰り着き。
 一応の嗜みとして、帰宅の旨と謝辞を告げて、返事をもらって。
 その後が、昨日の夜である。
 松本さんからインスタントメッセージが来たのだ。
『おススメって、色々考えたんだけど』
挨拶もそこそこに、そう切り出されてなんのこっちゃと首を捻った私。
『そもそも全部オススメ出来る本しか持ってないんだよね』
ああ、本の話か。と言うか、考えてくれたのか。律儀な人だ。やっぱり仕事のできる人(実際は知らないけど、そんな印象)は違うなあ。そんな感想を抱きながら文面を読み進めると、
『明日、予定無いんなら、うち来て好きな本持って行ったら?』
 ――と、こういう次第なのである。
 その時の私の感覚と言ったら、ただ本屋へ行く、程度のことだった。壁一面の本棚、と言うのも気になっていたし、深く考えずに了承した。
『有難うございます、ぜひ!』
 ――馬鹿だ。
 先日、一度会っただけの、母親の友人の息子宅だ。いや、母親と同居の家ではあるが、今日は不在だと先程エレベーターの中で言われたところだ。
 別に貞操の危機を心配してはいない。松本さんは紳士だし、真昼間だし、私ももう30歳間近。男性の家に遊びに行くことだってある。
 しかし、よくよく考えれば先週会ったばかりの、友人とは呼べない男性の家だ。
「あの……すみません、手土産も無く。気が利かず」
「あはは、なにそれ。別に気にしないで」
 爽やかに笑う松本さんは、先日の夜で随分打ち解けてくれた感がある。そう言えば何時の間にか敬語でも無くなった。先日は仕事帰りの為スーツ姿で、ある程度緩んでいたがそれでも身なりはきちっとして。今日は髪を下ろしたり、ジーンズ姿だったりのラフさがある。
 つまり、なんて言うか自然体だ。
 対する私は、少し挙動不審になってしまう。
「ここが、俺の部屋ね」
 松本さんは自室のドアを開けて、部屋の中を披露してくれる。
「――わあ」
 そこで、私の脳内のあれやこれやは吹っ飛んだ。
 すごい。
 部屋は恐らく10畳。縦長で、その長い壁一面天井まで、ぎっしり本の詰まった棚が。
「ほんと、すごい……」
 感嘆の声に照れたのか、咳払いした松本さんが部屋の中に促してくれる。
「と言うわけで、どうぞ。好きな本、物色してください」
「物色」
「そう。飲み物、どうする? 紅茶、コーヒー、緑茶。温かくても冷たくても。あ、コーラとか牛乳もあるよ」
「牛乳」
「え? 牛乳飲む?」
 言葉選びが不思議で思わず単語だけ拾う私に、松本さんは小さく笑う。
「いや、人の家に来て、飲み物の選択肢に牛乳が出て来たのは初めてなので」
「ああ、それもそうかも。いや、待てよ。常盤さんなら、ビールの方がいいか」
「魅力的ですが、ビールは遠慮しておきます。ちゃんとした頭で本を選びたいので」
「ははは」
「えーと、じゃあ、コーヒーいただけますか? 温かいの」
「はい、了解」
ちょっと待っててね、と松本さんは廊下の先に消えて行く。
 なんだかスマートな人である。
 ふと、嘆息してから、私は改めて部屋を見回した。本棚も目を惹くが、やはり背後のベッドも気になってしまう。自室なのだから、さもありなん。ホテル並みのベッドメイキングで整えられたベッドと、ガラス製のお洒落なテーブル、それから座り心地の良さそうなソファ。クローゼットには衣類が入っているだろう。ベッド脇のサイドテーブルにはノートパソコン。出窓には、サボテンと果肉植物のプランター。
 人の部屋をじろじろ見るのも失礼な話だが、やはり興味を引かれてしまう。
「いやいや、本を見よう」
 そう独り言ちて、本棚へ視線を戻す。
「えーと……」
 居心地の悪さを誤魔化すように、端から順に指差し確認。
「……おお」
 ものの数秒で夢中になってしまう。作家のあいうえお順で整然と並べられた背表紙を、辿って行く。
「懐かしいな、これ。こっちは……この作家さん、この会社からも出してたんだ……」
 とは言え、上三段は背伸びして手を伸ばしても、届きそうもない。そちらは背表紙を確認するだけに留め、手の届く範囲の気になったものを、取り出してみる。
 松本さんはコレクターだという話だし、本に対する愛情は並々ならない物がある。雑に扱わないよう細心の注意を払い、ゆっくりとページを捲った。
「あ、これ洋書だ」
 ――英語だった。これは断念。
「……サイン本だ」
 ――こいつは汚したら怖いから、断念。
 これは予想以上に楽しい。気が付けば鼻歌まで歌いそうな勢いで、ちょっと他人の部屋だと言う事を失念していた。
 ふと視線を感じて振り返ると、松本さんがコーヒーカップを乗せたお盆を手に、ドアに寄り掛かっていた。
「……そこで何を?」
「ん? 気にしないで」
ニタニタ、とかニヤニヤ、という種の笑いではないものの、はしゃぐ幼子を微笑ましく見つめる、みたいな表情は、あまり嬉しいものではない。
「はい、コーヒー」
 松本さんはお盆をテーブルに置いて、自分はソファに腰掛けた。
「砂糖とミルクは?」
「あ、ブラックで」
「了解」
淹れてもらって無視もなんなので、とりあえず私も一度、松本さんの前の床に座ってみた。すると、ベッドの上のクッションを寄越してくれる。
「ごめんね、人が来るのを想定してない部屋で、ソファも一人用なんだよね。常盤さんが座ってくれていいんだけど」
「いえ、それは悪いので」
「うん、そう言うと思ったので」
 自室なので当たり前だが、寛いだ様子の松本さん。先週の夜は、仕事帰りだったからなのか、少し厳めしい印象だった。今日の彼は、柔らかい。
 すると突然、松本さんが吹き出した。コーヒーをではない。笑いを、だ。
「ふっ……」
 何とか笑いを噛み殺そうと俯き気味に、口元を押さえるものの、肩が震えている。もうどうしようもないくらい、笑っている。
「……」
 分かる。原因は、私だ。私の何が理由か知らないが、分かる。
「いや、ごめん。ごほっ」
 私の無言の圧力を感じ取った松本さんが咳払いをするも、喉の奥で声が震えてしまっている。
「ふふ、いやだって……ごめん。ずるい」
 ずるいってなんだ。
「だって、なんかもう、駄目だよ。常盤さん、面白い。可愛い」
 面白いって失礼な。ってか、可愛いってなんだ。
 目尻の涙を拭い、くつくつと笑う松本さんに、私は返事が出来ないまま。どう反応して良いのか分からないまま。
「いやさ、先週はあれじゃん? 煙草にビールで、しかも強いし。サバサバしてかっこいい女性だなって思った後の、チーズケーキでつられたって何そのギャップって思ってさぁ。そしたら、今日は今日でなんか初々しい感じの気遣いとかして、なんか緊張してるっぽいしとか思ったら、部屋見るなり目輝かせてさぁ。いや、牛乳のくだりもじわじわ笑えたし、やっと笑い治めて戻ったのに、本片手に可愛い独り言言ってるしで……極めつけのコーヒーブラックね」
 怒涛の口撃である。
「可愛いのか面白いのかカッコいいのか、どれなの? もう突っ込み所満載でずるいよ」
「……突っ込む必要あります?」
「ある!」
「そう言う松本さんは今日のテンション、可笑しいです。何か変な薬キメてます?」
私も負けじと言い返す。
「はははっ」
 ――爆笑である。
 それから数分転げまわりそうなくらい笑ったあと、なんとか堪えて松本さんは顔を上げた。
「ごめん、俺も自分のテンションが謎。うちの母が常盤さんのお母さんと話すと腹筋壊れるって言ってるの、分かった。俺もそんな感じ」
「……うちの母も同じ事言ってましたよ。松本母のこと」
「あ、ほんと? 俺、母親との会話ってもっと淡々としてるけど」
「うちもそこまで面白おかしく暮らしてないです」
「面白おかしく」
「……まだ笑います?」
「ごめん、今、何言われても笑える自信ある」
 この何度目かの『ごめん』は、『ごめん』として成り立っていない。そしてこの笑いは、『笑われている』が正解だ。
 でも不思議と嫌な感じはしない。
 私はコーヒーを飲みながら、お腹を抱える松本さんを眺める。なんだか肩肘張っていた自分が、馬鹿みたいにさえ思える。
「……松本さんは」
「うん?」
「あ、お母さんの方のことです。お会いしたことは無いですけど、うちの母と似た感じなのかなぁと思ってて。年齢とか境遇とか、そういうのも含めて。思えばうちの母親って、シングルマザーだからって言うのもあるのか、昔から家に居るか仕事に行ってるか、って感じで、遊ぶ友人がいないわけでもないけど、でも距離感あって。だからここ何年か、松本さんのお母さんとは親密な関係を作ってるみたいで、安心してたんです」
「うん」
「なんか再婚する気は無いみたいだし、漠然と今後の不安みたいなものもあったんですけど。だから感謝してるんです、ってことを今日言えたらと思ってたのを思い出しました」
「あ、そこに帰結するんだ」
「はい」
 笑われない話題を、と考えて話すと、松本さんは先程までが嘘のように真面目な顔になった。
「それは俺も同じだよ。常盤さんと出会ってから毎日楽しそうで、苦労かけて来た分、やっぱりそう言うの安心する。母親の面倒は一生見るつもりだけど、いずれ結婚するなら相手の家のこともあるし、何より本人の意向が大事だからね」
「ですよね。うちの母は退職したら松本さんと一緒に暮らすとか言ってました。あ、お母さんの方ですよ」
「それうちも言ってる」
 目を合わせて苦笑して、沈黙。コーヒーを嚥下しつつ、何を語っているんだと気恥ずかしくなる。
 相手は、まだ出会って2回目の人。
「……とりあえず、本の物色再開させてもらいます」
 体を翻した背後で、松本さんがまた吹き出したのが分かったが、今度は無視することにした。





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