04 静まれ心臓



 早朝の下駄箱は、静か。
 校庭からは部活の朝錬に精を出す、野球部の大きな掛け声。
 耳を澄ませば、体育館を走るバスケ部の、バッシュが床を踏み締める音。
 五月蝿い心臓を服の上から押さえるようにして、私は小さな体を余計に縮まらせて、その下駄箱を開けた。
 小林、のネームプレートを、何度も何度も確かめた。
 間違いない。大丈夫。
 小心者の私に、背後から友達のサカエちゃんが何度も繰り返す声。
 誰か来ちゃうかもよ。
 そんな風に急かして、躊躇う私の手から奪われていく白い封筒を、「あ」なんて小さな呟きで止められるわけもなく。
 サカエちゃんに手を引かれて、昇降口を後にする。
 私の心臓は、ずっと五月蝿く鳴りっ放し。

 今時、ラブレター。
 だけど他に、何の連絡手段も浮かばなかった。サカエちゃんがさり気無く聞き出してくれた小林くんの携帯の番号も、メールアドレスも、メモリにはしっかり入っているけれど、結局連絡なんて一度も出来ないまま。
 痺れを切らしたサカエちゃんに乗せられるようにして、今時、ラブレター。
 大丈夫、字も上手いし、ちゃんと書けてる。そんな風に添削してもらって、背中を押してもらって書いたラブレター。
 言葉では伝えられないような台詞を、書いてしまった気もする。
 夜に書いたラブレターは見るものじゃない、そんな事をサカエちゃんに言われて、結局、何を書いたのか自分でも分からなくなってしまった。
 小林くんを好きになった経緯と、どんな所が好きなのか。
 そんな事を書いた気がする。
 文章の最後には、今日の放課後、裏庭に来てほしい旨。
 そこで告白の返事を聞こう、とサカエちゃんに促されてしたためた。

 ――どうしよう。

 今日一日、授業に全く身が入らなかった。何時お昼を食べたのかも分からない。
 気がついたらサカエちゃんに手を引かれて、約束の場所へいくのだと階段を降りていた。
 靴を履き替え、裏庭に向かう。手も足も震えて、心臓はずっと存在を主張して、耳の中でこだましているようだ。
 サッカー部の小林くんは、私が教室を出る時にはもうその姿が無かった。にも関わらず、裏庭には誰も居ない。
 居なくて良かった、のか。
 でも、来ないつもりなのかもしれない。
 当たり障りの無い事しか、今まで喋った事が無い。
 クラスでも人気者のサカエちゃんの隣で、何となく話を振られた程度にも、ちゃんと応える事が出来ないような私だ。
「沢谷」
 記憶の中の小林君が呼びかけるのと同時に、リアルに耳に届く声。
 一際大きく心臓が高鳴って、「はいっ」なんて焦った返事をしてしまう。
 振り返った先で、小林くんは苦笑。
 優しい声が、もう一度
「沢谷」
と私の名を呼んだ。
 落ち着いて。
 ふわり、と綻ぶ優しい笑顔。

 太陽みたいに笑う人。
 そんな使い古された、陳腐な言葉で、ようはそう、一目惚れ。

 握り締めた掌が汗ばんで、じとりとする。そう認識してしまうと、指先の小さな震えや、喉で凍った言葉を全て、意識してしまう。
 全身が心臓になったように、何所もかしこもが鼓動を刻んでいるような気がする。
 かーっと顔に熱が溜まる。
「あの、」
 あの、あの、と、繰り返したまま言葉にならない。
 来てくれて有難う。部活の前にごめんね。
 言うべき台詞を何度も練習した。反芻した。
 それなのに。
 こんな事すら上手く出来ない、と我知らず涙が目尻に滲んで、それが情けなくて俯く。
 五月蝿い心臓。静まれ心臓。
 そう繰り返し胸の内で繰り返し、浅く深呼吸するけれど、何も変わらない。
「あの、ね」
 それでも小林くんは根気良く、私の言葉を待ってくれる。相槌を打つように「うん」と柔らかく響く声には、苛立ちも剣呑な空気も無い。
 視線を上げれば、穏やかな表情。
 私の大好きな、太陽みたいに、全てを明るく照らしてくれる笑顔。その笑顔で、優しく、見守るみたいにこちらを見る目。
 そうやって、何時も言葉に窮す私を、急かす事も焦れる事もなく、いつも、何時も、私の言葉を、待ってくれる。
 小林くんの、そういう所が。
「……スキです」

 ――ああ、お願い、心臓。
 静まれ、心臓。
 小林くんの声が、言葉が、聞こえないから。

 俺も、と返った台詞に、心臓は壊れる程に高鳴った。








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