ぶっちゃける男 03

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 坂入哲也という男は、公私混同をしない男。オフとオンをきっちり使いこなし、例え部下に長年の友人が居ようと、そこはきっちり線引きをしている。
 それが今までの哲也。
 ――ううん、別段、哲也の何が変ったというわけでは無いのだ。
「今野」
 普段は美咲とあたしを呼び捨てする哲也だが、仕事中は苗字を呼び捨てる。それは、全員に対してそう。年上の部下に『さん』をつける程度の違いはあれど、あたしは特別視された覚えはない。
 ただパワハラという程のものではないかもしれないが、あたしにだけ人遣いが荒くなったり、何かにつけ頭や肩や背中を叩かれる、という事がある。
 これを過剰なスキンシップだなんて肩を怒らせる他部署の女性陣は目がおかしい。替れるもんなら替りますよ、というのがあたしの意見。
 そんな哲也がプリントアウトしたばかりの資料らしき用紙を、あたしの机の上に並べた。
 何時もであれば無造作に放られるそれを、何故か丁寧に、あたしの見やすい位置に置いてくる。
 ついでにいったら呼びかける声が何時に無く優しかった。
「悪いんだけど、この前年と前々年分の資料も出してくれるか?」
 これ、と言って、無骨な指がプリントの一箇所を指す。
 呆気に取られながらも、どうにか頷くだけは出来た。もう一度「悪いな」と言いながら去っていく哲也の背を、信じられない面持ちで見つめているのは、あたしだけじゃない。
「部長、どうしたの?」
 隣の席から身を寄せて、興味心と不安を綯い交ぜにしたような表情でさおりに尋ねられるが、あたしはそれにも言葉無く首を振るので精一杯。
 以前なら、こういう時資料は頭の上から降ってくるか、机の上に無造作に放られる。あたしはそれを作業途中に必死でかき集めて、「これの前年、前々年の資料出して」と横柄な態度で命じる上司に、心の中で舌を出す、という風になった。わざわざ該当箇所を指差して教えてくれるなんて親切は無いし、ついでに言えば「悪い」なんて言われる事もほぼ無い。
「何かいい事でもあったのかな」
なんて呟いているさおりに曖昧に笑う。
 機嫌の良い悪いで態度の変わるような付き合いにくい上司、というわけではけしてない。念の為。
 ただあたしに対しての哲也の仕事態度というのは、他と比べて悪辣というのはある。皆に対しては前述した態度は常のもので、ようは悪かったあたしへの態度が普通になったという事だ。
 あたしが入社した当初から、哲也は厳しいくらいに厳しい。でもそれは、あたしがこの部署で働き易いように、という配慮であった事は知っている。
 事実はどうあれ、あたしは哲也のコネで入社した新人で、実力が伴わないというのが周りの判断。
 そんなあたしを哲也は驚く程厳しく、またぞんざいに扱った。
 その結果、女性陣のやっかみは消えずとも、仕事をする上での環境は良い方向に整った。
 何かミスをすれば「やっぱりコネで入った奴は使えない」と言われたけど、哲也が冷たく叱る態度を見る内に「頑張ってるよ、うん」なんて同情をもらうようになったし、、経理部に領収書を計上願う時には「これ、正確ですよね」なんて疑われていた日々は、次第に消え去った。
 だから哲也の厳しさを、ただのパワハラだなんて言わないけど。
 急変した態度は誰の目に見てもおかしいのに、当の本人はちっとも気にしない。
 あたしも、あの人今日の朝からおかしいんだよ、なんて言うには――その理由が厄介過ぎて。
 唯一事情を悟っている長井さんは、始終面白そうに目を眇めてはいるけど。
 他にも社員食堂で昼食を取ると、当然のようにあたしの前に座ったり。何時も一緒に食事を取る仲間が増えた、程度の事だけど。
 就業時には必ず「帰るぞ」と、あたしの準備を待つようになったり。
 今までも無かったとは言わないそれらが、毎日の事になった。
 でも一月も経てば、周りには当たり前の事のように受け止められた。
 元々仲の良い友人同士。恋人と別れた後の寂しい日々を、そんな相手と過ごしてもおかしくない。
「今野が正当に評価されるようになったんだから、無理に厳しくしなくてももういいんじゃねーの」
という林さんの意見で、哲也の豹変振りを納得したという事もあるだろう。
 またその時も、長井さんはにたにた笑っていたんだけど。

 でもあたしにとっては、そう簡単に日常にはならない。
 何てったって哲也の様子は、仕事中よりその前後の方がはるかにおかしい事になっているから。
 何か悪いものでも食べたんじゃないかって、思うくらい。
 どんな女にも執着心一つ見せず、優しさの欠片さえ感じなかった薄情男。
 それが毎日毎晩「おはよう」から「おやすみ」までこまめにメールを送ってくるなんて。「危ないから」なんて理由で飲みにいっても終電までに帰したりとか、送ってくれたりとか、タクシー代が勿体無いなんて言ってた男が送迎にタクシーを苦も無く使うなんて。アパートに泊めてくれなくなった理由が「襲わないって約束出来ないから」とか、今までそんな気配無かったくせに、似合わない紳士っぷりを披露する。
 飲みに行く場所がチェーン店な居酒屋から、小洒落たバーやイタ飯になったり。
 歩く時の位置が、必ず道路側になったり。こちらに歩調を合わせたり。重い荷物を持っていれば、「持とうか」なんて聞いてきたり。
 分かり易いくらいの女扱いに、戸惑うなと言う方が無理だと思う。
 何よりその熱っぽい視線が、強い煌きを宿す瞳が、雄弁に物を語る。

 どこからが本当で、どこまでが冗談?

 ――なんて。もう、疑えなくなっている。
 だけれど疑問に思うのは、何故今このタイミングで、アプローチを開始したのかっていう事。
 彼氏がいなかった時期も当然ある。弱っている時に付け込む事だって出来た筈だ。
 タイプじゃない、あり得ない、なんて考えている対象でも、人間として好感を持って今まで付き合って来たのだから、全く心が動かないわけでは無いのだ、あたしだって。
 戸惑うけど、気持ちは嬉しい。
 恋人同士の二人なんて想像も出来ないけど、時々考えちゃうくらいには、確実に揺らいでる。
 だけど、さ。
 高校時代、大学時代、社会人時代――そんな素振り一つ見せなかったのに。
 それがどうしても引っかかって、あたしは素直に、哲也の気持ちを受け入れられない。
「冗談もいい加減にして」
って。突き放す振りして巧くいかずに苛立ってばかり。
 パソコン画面では指示された資料を作る為に、せわしなくマウスポインタが動いている。
 他の事を考えながらでもマトモに仕事が出来るのも、哲也の厳しい教えの賜物なのかな、なんて、ふと考えた。

 その夜、仕事を終えると当然のように哲也は、まだパソコンと格闘していたあたしの横に立った。スーツの上着と鞄を腕に抱え、「終わりそうか?」なんて聞いてくる。その声がまた穏やかで、笑える。
「もう少し」
 哲也を見ないまま答えて、空いているさおりの席に座る哲也。
 けして仕事を手伝おうかなんて言い出さない。これはあたしの仕事だから、切羽詰っているわけでも無いのに手伝いを申し出られても困る。
「後、10分で終わるな」
 哲也はパソコン画面を眺めただけで、終了時間を予測する。でも多分、そんなものだろう。
「かな。後はコピーして……20分後に下でどう?」
「一服出来るな。今日、車だから駐車場で」
「あ、そうなの?」
「そう。じゃ、後で」
「了解」
 ――会話だけ見たら、あたし達は立派に恋人同士だなんて長井さんは言うけど、そういう風に邪推する人はこの部署には居ない。昔からあたし達の友情具合は、こんな風に親密だからだ。
 哲也の隣は居心地が良い。そんな事はもうとっくに知っている。
 そこに愛なんてなくったって、充分なのに。今のままで構わないのに。
 あたしの気持ちは、揺らいだ事はあれど、変らない。
 でも、分からなくなっている。友達の哲也と、恋人の哲也と。そこにどんな違いがあるのか。
 分かっているのは、ただ何食わぬ顔で哲也の気持ちを無視していられる程、あたしは肝が据わって居ないという事だ。このまま哲也の気持ちが醒めていくのを待つのも、離れていかれるのを待つのも――何時か長井さんが言っていたように、それまで、で納得して終わりに出来る関係ではない事だけは分かっている。
 だから、今日、決着をつけようと決めていた。

 決戦は金曜日、なんて古い歌の歌詞が、延々脳内を流れている。





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