04 I am shadow. 1 |
back top next陛下が取り除いて下さった汚泥が、今また私の足に縋り付いている。 救いをくれた。安心をくれた。 これ以上望むべくも無い筈なのに。 私は浅ましい。 私は醜い。 ああ、どうして私は、あの人の唯一では無いのだろう。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 王城の一角にある温室庭園は、後宮の程近くにある。 マゼルは研究の息抜きに、時々温室を訪れた。 空調の設備は、マゼルの暮らしていた世界とは仕様が違う。発煙性の無い石炭のようなものを、熱して適当な箇所に配置し、それで適温を保つのだ。 温室の中にはガラス張りの天井から注ぐ陽光と、アレクサの土壌と、その石炭の一つでも欠けてはならないし、他の土地では根付かない、アレクセス・ローズが咲き誇る。 些細な変化でへそを曲げる、何とも庭師泣かせな薔薇なのだと、イェルの言葉を思い出しマゼルは淡く微笑んだ。 優美な膨らみを見せる蕾の時分から、その姿は言葉で言い表せない程に美しい。開けば光輝く白い花弁が、清廉な芳香を散らすだろう。細い茎に刺は無く、緑の美しさもえもしれない。 神々しい立ち居住まいは、成程国王陛下に喩えられるに相応しい。 研究の一環として触れる事は出来ても、マゼルは指を伸ばす事を何時も躊躇う。 何時までも見ていたい程に瞳を奪われるのに、両手で目を覆ってしまいたくなるような――相反した感情が身の内に浮かぶ。 ――マゼルにとって、アレクセス・ローズは国王陛下そのものだった。 誰の目にもその美しさを楽しませてくれるのに、何をも傷付けえる刺を持たないのに、何者の色にも染まらず、毅然と全てを遠ざける。 特別に近付く事を、触れる事を許されても、受け入れられる事だけはけして無い。 アレクセス・ローズの誕生は、ディーダ国王の遠い祖先の時代。アラクシス家の始祖、カイル国王が居をアレクサに移してからの事と聞いている。カイル国王と王妃の墓碑の周りに、何時しか咲いていたのがそれなのだ、と。 そうしてアレクセス・ローズから派生したのが、【永遠の王】の物語。 美しき孤高の、白き王。永久に生きる唯一の王。それの意味する事は、グランディアの王よ永久にあれ――つまり、グランディア王国の長い平安を祈った物語だった。 【永遠の王】の物語が世に親しまれる程、グランディア王国とその国王陛下は畏敬の対象である。 そのディーダ国王に妻にと望まれ、隣に立つ栄誉を与えられた自分が、マゼルにはとても歯痒かった。 異世界の住人だという事だけ、それだけで、他には何も出来ない。 それで良いのだ、と言われれば、何も出来やしないくせに、マゼルの心は沈む。 世継ぎを生んだ。それでもう、妃の役目を務めたのだ、と。 ――出来なかった『誰』かの代わりは、十分に務めたのだ、と。 自嘲気味に笑って、マゼルは伸ばした手をアレクセス・ローズに触れないままに下ろした。 密やかな溜息すら幾度も飲み込んで、マゼルはただ、白薔薇を見下ろしていた。 「……マゼル?」 どれ位の間、そうしていたのだろう。突然程近くから名前を呼ばれて、マゼルは俯けていた顔を持ち上げた。 緩く振り返れば、数歩離れた位置にディーダ国王の姿があった。 その姿を目に留めるだけでマゼルの鼓動は跳ねる。 臣下の礼を取ろうと腰を落としかけた動作を、ディーダ国王は軽く片手を上げて押し止めた。 マゼルはドレスを掴みかけた手を腹の上に移動させて、それを重ねた。 「……陛下」 声音は固く、余所余所しい。 その事を、ディーダ国王がどう受け止めているのか、マゼルには分からない。出会った当時よりも幾分老け、齢は三十も後半に突入していたが、その美しさは損なわれる事なく神々しいまでに光り輝いて見える。 柔和な微笑を浮かべるディーダ国王を、マゼルも作り慣れた笑顔で見つめ返した。 二人の間に横たわる“真実”が露見してから、二人の関係は少し、変わった。 マゼルが彼の事を「アル」と呼ばなくなった、その事を、ディーダは一度も指摘しない。それどころか以前よりも更に、優しくなったようにさえ感じた。 「貴女は、何時もここに居るね?」 穏やかな口調での言葉尻は、微かに笑ったようだった。 マゼルもはにかんでみせる。返す言葉は見付からなかった。 温室の空気は、好きだ。芳しい花の香りも、土の匂いも、マゼルには幼い頃から馴染み深く、土いじりはあちらの世界での仕事でこちらの世界での趣味だった。何よりも心安らぐ空間が、マゼルの数少ない憩いの場の一つだ。 後宮の自室にさえ、マゼルの居場所は無い。あの部屋でまるで監視するような侍女の視線の中、元々苦手な刺繍や読書に耽るのは気詰まりでしかないのだ。 「……これから、暫く留守にする」 会話が弾まない為か、それともただ糸口を掴む為だったのか、ディーダは会話をすぐに用件へと切り替えた。 「……どちらへ?」 「ハッティヌバへ」 たったそれだけで、マゼルは全てを理解した。 この世界には、大小様々な国が存在したが、その中でも創世神エスカーニャの分身の名を戴く十二の国が、グランディア王国と共に長い歴史を誇っている。ハッティヌバもまた、分身の一人であるハッティスを崇める国だが、一度多くの国と敵対するダガート国に併呑された過去がある。それ以降、ダガートとの衝突が断続的に続いている、北方の小国だった。 ダガート国は雪深い凍れる国。大陸の最北に位置し、高い山々に四方を囲まれて、他の国とは大河を挟んで分断されている。残虐非道で好戦的な、血塗れの歴史を持つ大国だ。 作物は育たず、凍れる川には魚も泳がない。屈強な獣さえ簡単に命を落とす、それでも万民は飢えを知らない。過酷な土地と忌避される暴虐な国であっても、彼らが手にする“盾”と“剣”は数多の国を従属させ、それらの国の献上品で存続していた。 グランディア王国もその例に漏れず表面的には友好を図ってはいるものの、グランディア王国が起こって後、戦と言えば大抵がダガート国とのそれだった。 しかし、幾度もの戦において確実な勝利は一度も無い。奪われた“盾”であり“剣”を取り戻さない限り、真の平安はやってこないのだ。 その中にあって、ディーダ国王が北方へ旅立つという事は、きな臭い事情を孕んでいる。 マゼルは震える指先を握り合わせて、口を開いた。 「……どうか、」 声に滲んだ感情は、マゼルの真実。 「どうか、お気をつけて」 真摯に告げられた言葉に、ディーダ国王は表情を綻ばせた。 「貴女の加護ほど心強いものは無いよ」 そうして伸ばされた腕が、マゼルの体を優しく包む。 マゼルは抗う事なくディーダ国王の逞しい胸に頭を預けながら、伏し目がちに微笑んだ。 それ、はマゼルの加護では無い。異世界人がエスカーニャ神から与えられた恩恵の、欠片なのだろう。 それならば、マゼルである必要は無い。異世界人であれば誰でも持ち合わせている。 捻くれた愚かしい思考を、勿論言葉にしないだけの分別はある。言った所で恐らく、ディーダ国王はそうと認めはしないだろう。 エスカーニャ神が喚んだのはマゼルであって、他の誰でも無いのだから、と。 真実を知ったマゼルにそうしたように、諭して慰める。 けれどその事実が、何故マゼルを救うだろう。 確かに現時点で、異世界から召喚されたのはマゼルただ一人。何時の世もそうであったと伝わるように、同じ時代に二人の異世界人が存在した事は無い。 なればこそ、だ。 『でも』を打ち消す事にはならない。マゼルの中に存在する痛みや苦しみ、孤独を取り除いてくれる事は無い。 だからこそマゼルは、冥い想いに蓋をする。 厭われるのは嫌だし、優しいディーダ国王を困らせるだけだとも分かっていた。 ――何より、それが恐かったのだ。 暫くそうして静かに抱き合った後、ディーダ国王は体を離した。 「……今宵」 短く告げてマゼルを見下ろす瞳が、言葉の続きを語っていた。 「お待ち、しております」 求める答えを引き出して満足したのだろう、ディーダ国王はマゼルの頬を一撫でして、踵を返した。 振り返らない背中を、マゼルは最後まで見送る。 何故か瞳を転がり落ちた涙が一滴、渇いた土を濡らした。 back top next |
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