03 I said yes.


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 マゼルは暗闇の中を走っていた。
 何処までも続く闇の中を、何かから逃げるように走っていた。
 自分の荒い息遣いと逸る鼓動が反響するように、空間に響いている。
 ふいに足元がゆがんで、踏み出した一歩が沈んだ。ぬかるんだ大地が悲鳴を上げるまでもなく、マゼルの足を飲み込む。
 抜け出そうともがけば更に絡み付き、すぐにマゼルの半身は捕らえられた。
 恐怖にマゼルは叫ぶ。
 父に、兄に、叔母に、叔父に、顔も覚えていない母に。
 助けを呼ぶ声に応えはない。
 黒い大地は容赦なくマゼルを飲み込んでいく。

 ――恐ろしさに悶え苦しむその傍ら、冷静な思考の一片が言う。

(ああ、まただ)
 もう何度見たか知らぬ悪夢。何時も同じ、頭の天辺まで泥のような闇に沈むと、マゼルは跳ね起きて、これを夢だと知るのだ。
 繰り返し繰り返し……何度経験しても、闇の中でマゼルは走っている。怯えている。
 夢から覚めて体の自由に安堵するのも束の間、マゼルは虚しさを覚える。
 現実はマゼルを脅かさないけれど、変わらずマゼルは独りなのだ。



 目覚めた時、マゼルの身体は、まるで自分のものでは無いように動かなかった。それ所か瞼を持ち上げる動作すら億劫で、高い天井をそれと認識せずに見つめていた。
 頭の芯が鈍く痛み、喉がとても渇いていた。
 身体のどこもかしこもが、鉛のように重く、だるい。
 自分の不調を確信しても、マゼルには何も出来ない。声も出ず、指先一つ動かない。
(誰か)
そう心の中で呼びかけて、呼びかけた自分を嗤う。
 今の自分には、世話をしてくれる使用人も、気遣ってくれる家族も居ないのだ。
 朝早くから夜遅くまでの慣れない労働か、冷え込む季節の草臥れた薄い寝具か、偏った食事か――原因は、そのどれでもあっただろう。
 身体にも、精神にも、疲労は確かに蓄積していた。けれどマゼルには、休む暇も無い。生きていくのに頼るのは身一つなのだ。
 起きて、仕事に行かなければならない。でなければ明日食うにも困る。既に一月、家賃さえ滞納している有様だった。
 ブラウン家でも贅沢はしていなかったつもりだが、独りになって初めて、自分が如何に恵まれていたのかを知った。
 既に遠い過去だと割り切った日々を、マゼルは思った。
 死の淵に立った長兄に、何度も繰り返した「大丈夫」を、呪文のように唱えて生きてきたけれど、一体何が大丈夫だと言うのか。
 マゼルには何も無い。誰も居ない。夢も希望も枯れ果てて、それでもただ生きながらえている。
 意味があるのか。ある筈が無い。
 自問自答して、マゼルは思う。
 ――このまま。
 何時も見る悪夢の先に、冥い闇の先に、例えあるのが死だとしても。
 マゼルにはもう、抗う気力は無かった。



 青白い目蓋が、ぴくりと震えた。
 何か悪い夢でも見ているのか、時折言葉にならない悲鳴が聞こえるようだった。
 苦しげな息遣いは、しかし顔色の割りに力強い。
 峠は越えた、と、医者は言った。
 それを信じるしか、彼には無い。
 縋るように毛布を握り締める細い指を、男は躊躇いがちに取った。
 病床の人間を見舞うのは、彼にとっても気力の居る事だった。広い寝台の上で、今にも儚く消えてしまいそうで――己の無力さを痛感するばかりだ。
 呻く女を見下ろして、男はその手を強く握り締めた。
「大丈夫だ、何も心配しなくて良い」
 額に張り付いた前髪を、そっと払う。
 触れた温もりが、生きた熱を男に感じさせる。
(大丈夫だ)
 口に乗せた同じ言葉を胸中で繰り返し、男はただ、女の閉じられた瞳を見つめた。
(大丈夫)
 それは、ただ祈りだった。
 やがて苦しげに歪んでいた女の表情が、規則的な寝息と共に穏やかに緩んでいくのを感じ――男はそっと、微笑んだ。



 死を覚悟して眠りについた筈なのに、マゼルはその日、久方振りに健やかに目覚めた。
 感じていた筈の気だるさも微塵も無く、思考を苛む頭痛も消えていた。
 ぼんやりと高い天井を見上げながら、やがてその事に違和感を感じた。
 マゼルが住んでいた古いアパートメントは、これ程に高い天井は無く、精巧な飾り模様も細工も無い素っ気無い木張りの天井だったし、四肢を柔らかく受け止めてくれる寝具も、実家暮らしの時代にも経験の無い感触だった。
 ゆるり、視界を巡らせて、マゼルは寄せた眉を跳ね上げた。
 見開かれた視界に、自分を穏やかに見つめる男の顔があった。
 どこか安堵するように微笑む男の顔は精悍で、気品すら感じられる。瞳の色は宝石のようなエメラルドグリーン。撫で付けた少し長めの金髪は艶やかで、自分の褪せたような薄い色合いの金髪を密かにコンプレックスに思っているマゼルには羨まし過ぎる代物だった。
 男の麗しい顔形から目を離す事が出来ずに、マゼルはしばし呆然とした。
 男はマゼルの不躾な視線を意にも介さず、座っていた椅子を寝台の中央から上方へと寄せる。
「良かった」
 そしてマゼルの顔を覗きこむようにして、言う。
 戸惑いに揺れたマゼルの瞳を、優しい瞳が見返す。
 マゼルの心臓は、本人の自覚の無い内に壊れそうな程に高鳴っていた。
 この男は誰だろう。この、美しい男は。
 マゼルには覚えが無い。
「余は、ディーダ。アルフィン・アラクシス=グランディア・ディーダ」
 名乗られた、その名前にすら、覚えが無い。
 どう返すべきか分からないまま、マゼルはただ男を見つめた。けれども続いた沈黙に気詰まりを感じ、マゼルは緊張も露わに言葉を返した。
「……私は、マゼル・ブラウンと申します……」
 何とか名乗ったものの、声は掠れて、相手に届いたものかと不安になる。
 けれど男は美しい顔をゆるりと崩し、微笑んだ。
「マゼル」
 ただ名前を呼ばれたその事に、マゼルの心臓は跳ね上がる。
 瞬きも忘れて男を見つめていたが、男はその後も微笑んだだけで、また沈黙に耐え兼ねたのはマゼルだった。
「ここ、は……」
 ごほっと、気管に何かの塊が詰まったように、咳き込む。
 喉を押さえて、ゆっくりと身体を起こすと、男はその動作を支えるように手を伸ばした。大きな枕を寄せて、寄り掛かるようにと促される。
 そして寝台横の小さな丸テーブルに乗せられていた水差しから、水をグラスに注いだ。
 それを両手で受け取って、飲み下す。
 喉を流れ落ちていく冷たい感触が、心地良い。
 ほうっと深い嘆息を漏らしたマゼルを、男は眩しそうに見つめながら言葉を紡ぐ。
「ここは何所かと聞いたね?」
「……はい」
 男は少し緊張気味に座り直し、真剣な眼差しをマゼルに向けていた。マゼルもそれに合わせて居住まいを正した。
 我知らず握り締めた拳に、男の大きな手が重ねられる。
「ここは、我が城――グランディアの王城だ」
 硬い声音が続けた単語に、マゼルは覚えが無かった。

 ディーダと名乗った男は、ここがグランディアという王国の城の一室で、自分はその国王だと、突拍子も無いような事を語った。
 グランディア王国。
 そのような国を、マゼルは知らない。
 マゼルとて世界中の国名をしっかり記憶していたわけでは無かった。遠い異国の、何十何百という国を、知っているわけでは無い。
 それでもディーダの容姿や、言葉が通じる、という事を鑑みれば、そう遠く離れた土地では無いだろうと推測された。
 そして何より、自分は小さなアパートメントの一室で眠っていた筈なのに、何の故があって、今この場所に居るのか。
 唖然とディーダの顔を注視しながらも、その言葉に嘘が無い、という事だけは何故だか信頼してしまった。
 そして続けられる、まるで物語のような話。
 ここが自分の暮らす国とも、世界とも違う、異世界だという事。
 マゼルを王妃にする為に、世界を越えて招いた事。
 異世界の王妃に纏わる、伝記。
 ――そして、瞳を翳らせながらも、真摯に、マゼルを元の世界に戻す術が無い事を詫びた。
 それから最後に、三日三晩高熱に魘されも死の淵から生還したその事を、彼はこの世界の神に感謝した。

 ――そのような事を、マゼルはどう理解していいのか、困惑露わに瞬いた。
 面白い冗談だと、奇抜な創作話だと、笑おうと開いた唇は奇妙に歪んだ。
 拳に重ねられた温もりが、マゼルの心を揺らす。
 愚かな夢物語をまるで現実のように語り、ただそう言い伝わるというだけで、彼の言う所の異世界人であるマゼルを、王妃にと請う。
 性質の悪い、マゼルを馬鹿にしたような、冗談。
 家族を失い貧困に喘ぎ、そして、淡い恋心を抱いた男にすら見放されたマゼルに、わざわざこんな豪奢な部屋まで誂えての、大掛かりな冗談。
 ディーダの両手が、マゼルの強張った手を包み込む。
「どうか、信じてほしい」
 その瞳の奥に、嘘は無い。
「貴女の人生を曲げた私を、恨んでくれて構わない。けれどどうか――この国の、そして民の為に、王妃になって欲しい」
 マゼルにとって縁もゆかりも無い、国と、民の為に?
「貴女の全てを奪った代りになるとは思わない。それでも、貴女が心安らかに過ごしてくれるよう、私は全てを尽くして応えよう」
 身勝手な申し出を突っぱねる権利は、マゼルには当然あっただろう。
 それでも、どうしてだろう。触れた温もりを、振り払う事が出来ないのは。
 優しさと愛情に飢え、孤独に疲れ果てたマゼルには、その横暴が、例えようも無く甘美な希望に思えて仕方が無かった。
 ――瞳の奥から溢れた涙が、頬を滑り落ちていく。
 ディーダの長い指が、その涙を掠め取った。
「……大丈夫」
 頬を撫でていく感触。
「大丈夫だ、何も心配しなくて良い」
 マゼルはその掌に、頬を摺り寄せて泣いた。
 何時もマゼルが唱え、そして嗤った言葉。その言葉ほど信憑性は無い、と、知っていた筈だった。
 ――けれど。
 マゼルは、覚えている。
 暗い冥い闇の中、汚泥に沈んでいく自分を掬い上げた、微かな温もり。
 マゼルの声の無い悲鳴に、泣き声に、答えた優しい声の主。
 
 その時のマゼルに、不思議と躊躇いは一つも無かった。





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