菅野家長男帰宅する。


 11月も半ばになろうかという休日。
 私は何時も通りの時間に起床して、家事をこなして出かけていったママを見送ると、リビングで借りてきたDVDを視聴していた。
 ママは私と違って多趣味の人で、幾つもの習い事に通っている。結婚前はバリバリのキャリアウーマンだったというし、家でごろごろするっていうのはどうにも性に合わない。今日はイタリア語の教室だったかヨガだったか。
 兄貴は今年の春、大学に入学すると同時に一人暮らしを始めて、パパはパパで仕事人間でほとんど家にいないから、ほとんどの休日家にいるのは私だけだ。
「若いんだから家でゴロゴロしてないで、外で遊びなさいよね」
 なんて捨て台詞を残していったママ。外で遊ぶって、今時小学生のがきんちょだってしないのに、それを高校生の娘に言うだけ無駄だ、とか私は思ってしまう。第一ゴロゴロはしてない。
 その日は昼前から映画を鑑賞していて、今は二本目。この二本目がハズレで、あまりに稚拙な内容にもう何度目か知れないため息を吐いた時だった。
「ただいまー」
 と。
 家のカギを空けて帰ってきたのは、一人暮らしをしているはずの兄貴だった。三つ上の兄貴、貴樹に会うのは、実に3ヶ月振りだ。実家暮らしの頃から外で遊び歩いている事の方が家にいるより多かった兄貴だが、一人暮らしをして彼女が出来てからはとんとご無沙汰だった。来ても夕食を食べて帰る、というのがセオリーで、そんな時はバイト代が尽きた時ぐらいのもの。
 その兄貴が昼間から顔を出すのは珍しい事だな、とは思いながらも、別段何の感想も持たない。
 私はテレビから視線を外さず、一応「おかえりー」とだけ返事をした。
「おかんは?」
「出かけたー」
「あの人は?」
「仕事じゃん?」
 兄貴がパパの事をまともに呼ばなくなったのは結構昔で今更。滅多にお目にかからないパパが父親らしい事をした事なんて数える程度だし、あまりに家に居ないからご近所さんもウチが片親家庭だと思ってるくらいだ。私もパパなんて呼んではいるけど、居るも居ないも同じ存在、それが悲しいけどウチの父親。
「ふーん」
 兄貴は無感動な声で言うと、なぜかソファの隣に座りだした。
「これ、土産ね」
 私は面白くないDVDを中断して、兄貴がローテーブルの上に置いたものに目を移した。
 スーパーの袋と、洋菓子の箱。土産なんて珍しい、と思いながら続いて兄貴を見やる。
 髪が赤くなっているのと、耳のピアスが増えている以外は記憶とそれ程変わらない兄貴。相変らず私そっくりの顔。
 短くなった銜えタバコを、胸元から取り出した簡易灰皿で消し潰す。
 それを横目に、私はスーパーの袋を漁る。中身はお赤飯。有名な洋菓子店の名前が印字された箱の中身は、ケーキが六個。私の好きなチーズスフレとショートケーキが入っていて、思わずにんまり笑顔になる。
 ケーキは兄貴と私、それからママで二つずつ。当然何時帰るか分からないパパの分は数に入っていない。
「ねー、何で赤飯?」
 お赤飯は恐らく一人分。
「お昼用?」
 大食らいの兄貴が食べるには少ないだろう、と疑問になって聞けば、
「祝いには赤飯と決まってるだろ」
って、なにやら当然みたいに言われて小首を傾げた。
「何の祝い?」
 誰の誕生日でもない筈だけれど。
 兄貴は私の質問には答えず、脱いだジャケットとマフラーをソファの背に無造作にかけると、立ち上がってリビングを出て行く。その姿を目で追うと、何故かキッチンダイニングでテーブルの下を覗き込んだり、リビングを出て、音から察するにトイレのドアを開けてすぐ閉めてたり、二階へ上がって三つの部屋それぞれをこれまた開けてすぐ閉めているよう。意味が分からない、と呟いた所で、兄貴がまた戻ってきた。
 私の顔を真正面から見つめてくる兄貴。
「どこに隠してんの」
 どことなく不機嫌な顔で言ってくるから、これまた意味が分からない。
「何を」
 ちゃんと説明してくれないものかな、このバカ兄貴。
「お前の彼氏」
「――はぁ!?」
「今日は来てねぇの?」
 益々もって意味が分からない。素っ頓狂な声をあげた私を無視して、今度はリビングをぐるりと見回して、庭を覗き込んでいる。
「何の話?」
「いや、栄子さんがお前に彼氏出来たって連絡してきたから」
 栄子さん、というのはママの事だ。お母さんとかお袋、と呼ばれるのが嫌だと主張するママと、ママと呼ぶのが嫌だと主張する兄貴が折り合いをつけた末の結果、そう呼ぶようになって幾年月。だから私が驚きに目を見張ったのはそんな事にでは無くて。
「彼氏出来た祝い」
「……ばっっかじゃないの!?」
 彼氏、と言うのは、間違いなく先月夜にウチを訪ねて来た高橋の事を指している。ママが勘違いして、兄貴に連絡したのだろうとすぐに分かった。ママには説明してただの友達だと一応納得してもらったのだけれど、兄貴にはそこまでの情報が行ってなかったのだろう。
 だからといって今頃、一ヶ月は経とうかという頃に何をトチ狂っているのかこの男は。
「大体彼氏が出来たからって赤飯持って祝いって、何なの。しかも彼氏隠すとか意味分かんないし、隠してたって机の下には居ないよ。バカじゃん」
 それに。
「彼氏出来たとかママの勘違いだし」
「バカバカ言うんじゃねぇよ」
 じゃあ俺何の為に来たの、と目いっぱい顔を顰める兄貴。
「知らないよ、馬鹿」
 もう一回言ってやれば「だから、」と声を荒げる。
「仮に彼氏が出来たとして、何でそんなオオゴトなの。わざわざ祝いに来る必要がどこに?」
 暇じゃないのに、とか言われても知らないし。
 ママと同じく多趣味な兄貴は、彼女や友人との付き合い以外にも色々多忙だ。大学に行って小遣い稼ぎの家庭教師のアルバイトをして、幾つかのサークル活動や資格取得の勉強等エトセトラ。小学生の頃から色んな習い事に通って、引っ張られるようにして私も柔道や空手、水泳教室に通ったりしたけれど、兄貴はそれ以上に目につくもの興味を持ったものは何でもやった。持っている資格や段も両手両足の数じゃ足りない。
 だからと言って同情する理由も無く、こちらとしては呆れる他無い。
「お前に彼氏出きるとか天変地異ものだし」
「バカじゃないの」
「だからお兄様に向かってバカとか言うんじゃないっての!!」
「バカにバカって言って何が悪いのよ、バカ」
 大体なんだお兄様って。
「……お前みたいな可愛げの無い女に、男が出来る筈なかったな……」
「……久しぶりに会った妹に言う事はそれだけか、このバカ兄貴」
 嫌味たっぷりはき捨てた兄貴に、私はカチンと来てしまう。ちょっと図星というか、自分でも自覚している事だった。
 ソファーから立ち上がり空手の型を取って兄貴に対峙すると、兄貴も同じ様に――まるで鏡で自分の姿を見ているようで嫌になる――構えて。
 睨み合って、数秒。
 同じタイミングで右足を踏み込み、左足で中段蹴り、右手でガード――どこまでも一緒。
 久しぶりの兄弟喧嘩はそうして幕を開け、帰ってきたママに止められるまで、私達は無言で蹴りと拳を交わしていた。





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