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幕間 伯爵家にて 1



 ゲオルグ・アラクシス=グランドの擁する領地は、その華々しい経歴に反して、牧歌的な印象の強い田舎にある。面積は広大であったがその三分の二は田園であり、作物の多くが他国へ輸出される事で有名ではあるが、その程度の事である。
 領主本人がそうであるように、政治には無縁であったし、流行にも鈍感であった。
 良くも悪くも、土地も人ものどかだった。
 どんなに美しく着飾ろうと賞賛する者も無く、また、それを披露する場も無い。むしろ嵩張ったドレスを着て豪奢な装飾品で身を飾る人間など、場違いも甚だしい。
 そういう、土地柄だ。
 生粋の貴族令嬢であった王都育ちのユーリ・アラクシスは、この土地の生活には心の底から不満を持っており、毎日退屈な日々を送っていた。
 彼女は王妃になる為にゲオルグに嫁ぎ、その為の教養が無駄になった事に折りにつれ腹を立てるが――何より夫を愛していたから、その傍を離れる事など考えた事も無い。
 そして息子に領地を譲ってからは、二人で出かけるお忍びの旅行を彼女は事の他気に入っていた。それは王妃であれば出来なかった事である。
 不満を口にすれば数多くあげられたが、それでも子供は可愛いし、長女が生んだ双子の孫もまた愛らしいし、概ね幸せだった事は間違いない。
 それでも、時々考えた。
 王妃になる為に積んだ教養や、朝な夕勉学に励んだ時間が、全くの無駄になった事。青春期の全てを費やしたのだ、簡単に諦める事は出来なかった。
 しかしその鬱憤を晴らす機会をゲオルグに与えられた時、ユーリの心は躍った。
 まさか自分がお目にかかる事があるとは思わなかった、歴史の中にしか存在しない筈の異世界人――無知なその存在に、自分の持ち得る全ての知識を教授する役目をゲオルグに頼まれた時、彼女は勿論拒否などしなかった。
 けれどすぐにでも飛んで行こうと決めた矢先、孫の一人が病気に罹り、彼女は祖母としてそれを捨て置けなかった。自分の望みよりも、熱に魘される孫の看病の方が、彼女にとっての優先順位が高かったのである。
 そうして孫が回復し、娘夫婦と孫と従者を連れて領地を旅立ってから、一月半。
 彼女達の旅程は人の五倍も十倍も長かった。
 小さな子連れで沢山の供を侍らせての旅である、そう簡単にはいかない。何より、彼女達の宿泊先は領主の館であった。王都に近づけば、貴族がこぞって屋敷に招待する。そうなれば同じ土地に何日も滞在するような事になる。数多の歓迎と久方ぶりの華やかな生活を、ユーリは存分に楽しんだ。
 その旅路に長男が加わったのは、数日前のこと。
 長男に急かされるように惜しんでくれる伯爵一家に別れを告げようとした日は、霧のような細かい雨が降っていた。
(嫌な天気だこと)
 そう呟きたくなるくらいには、億劫な旅立ちの日ではあった。
 けれど彼女を足止めさせたのは、雨の所為ではなかった。
 早朝にやって来た使者が齎した報せに、ユーリは回れ右をしたのだ。



「何時までも降り続く雨だこと」
 ユーリは窓の外をチラと眺めた後物憂げにため息を吐いて、紅茶を啜った。
 対面に座る彼女の息子、セルジオは、彼女とはまた違った色合いのため息を吐き出す。
「母上の呪いは余程強力なようですね」
 眼鏡の奥からユーリを突き刺すような視線には批難ばかりが籠もるが、ユーリは気にした風も無かった。もう一口、ふくよかな唇をティーカップに寄せて、ふと笑う。
「私の呪いに力があるのなら、あれを呪い殺しているわ。その方が楽よ」
「滅多な事を仰らないで下さい」
「貴方が言わせたのよ、可愛い子」
 ユーリは既に成人しきった息子を子供扱いして、また笑った。視線を上げた先ぶつかるのは、キレ長の二重の目。色合いは自分と同じ褐色だったが、顔の作りは夫の血筋アラクシスの物だった。
 かつてこの息子が愚かな異国の姫に誘惑された時は、まるでゲオルグがそうされたようで不快に思った。
 別にそんな私怨ばかりの感情では無いが、その姫を呪い殺したいと思う程には原因の一端だった。
 ユーリが何を思い自分を子ども扱いしたのか悟ったセルジオは、苦虫を噛み潰すような顔で俯いた後、仕切り直すように
「しかし、」
と続けた。
「何時までもこうしているわけには参りませんでしょう。父上も、ユージィンだって楽しみに待たれている筈ですよ」
「分かっていますとも」
 ユーリとて、長い事留学していた末の息子には今すぐにでも会いたい。厳しく育てた三人の子供とは違って自由に過ごさせたユージィンは、甘える事にも躊躇いが無い。素直な愛情表現を受けて嬉しくない筈が無い。上の子供達には悪いが、ユージィンへの愛しさは格別だった。
 天使のような容貌の息子の笑顔を思い出したのか、一瞬ユーリの顔も綻ぶが、それはすぐに不機嫌に翳ってしまう。
「それでも私は、アレが居ると思うだけで虫唾が走るの。目の前に立ったら縊り殺さずにいられないでしょう」
 ティーカップを包んだ両手、その細い指がわなわなと震える。妄想の中で、件の相手の首を握り潰してでもいるのか。母親のそんな想像が容易に出来てしまう自分が、セルジオは些か恐ろしくもあるのだが。
「物騒ですよ」
「お黙りあそばせ」
 隣室で双子の子供に子守唄を歌っていた筈の長女の声が、不意に会話に割り込んだ。
「ジオお兄様はあの女の分かり易い本性も見抜けない方ですもの。お母様のご心労、お察し申し上げますわ」
 ジュリスカは長いドレスの裾を引き摺りながら、セルジオが無言で引いた椅子に腰掛けた。
 柔らかそうな印象の唇、卵型のふっくらとした顔立ちと少し目じりの下がった大きな瞳が容貌を柔和に見せるが、吐き出す言葉には鋭い棘がある。
「紳士である事と、女性を甘やかす事は違うのですからね、お兄様?」
 鮮やかに晴れた空のような青い瞳に睨まれて、セルジオは肩を竦める事で肯定を伝えた。
 そもそもこの手の話にセルジオは弱かった。件の姫の誘惑に簡単に屈したのは若気の至りだと主張したいが、今でさえ女性の演技を見抜けない。目を潤ませて見上げられれば言葉に窮し、柔らかな肢体を寄せられれば硬直してしまう。女性の持つ甘やかな引力にはけして逆らえないのがセルジオだ。
 母と姉にでさえ、諫める事は出来ても強気に出られない。
 だからこそ眼鏡のレンズという壁で直視を避ける事で、何とか距離感を保っている。
「それにしても、あの女は一体何のつもりなんでしょう」
「まあ、ジュリ。そんな事は決まりきっているじゃないの。男漁りのついでに、エディアルドの妻の座に返り咲こうとでも言うのでしょ」
「一度棄てた立場ですわ。そんな良識のない真似が、一体誰に出来ましょう」
「離縁の事情は非公式なのよ。まあそれもエディアルドの温情でしかないけれど、彼女はそれさえも利用する女だわ」
「でも、エディアルドはそんな手には乗らないでしょう?」
「それでもグランディアにはジオを筆頭に愚かな男は多いもの。誰を丸め込むかによって、話は違うでしょうね」
「本当に、恐ろしいこと」
 白熱するように見えて空々しい母娘の会話を、セルジオは黙って傍聴するに留めた。わざわざ口にしなくても良い事を、敢えて聞かせているのだ。同情しているように顔を曇らせていても、彼女達はエディアルドやグランディア王国の将来を憂いているのではけしてない。ただ単に件の姫を貶めたいだけだ。
 こういう時空気のように存在感を希薄にするのはセルジオのスキルで、これがジャスティンやゲオルグであったのなら正論で看破してしまうので、この二人の憤りを深くしてしまうだけである。
「忌々しい事に、エディアルドに妃が必要な事だけは確かだわ。あの女に問題はあれど、バアルとの更なる強い結びつきは願っても無いこと。それを分かっていて、今このタイミングで来たのでしょ」
 だからこそ面白くないのだ、と、ユーリは唇を噛んだ。
 ただでさえユーリにとって、気に喰わない相手だ。顔を合わせる機会は少ないに限る。その相手が自身の失った王妃の座につくというのは、腸が煮えくり返る程に望ましくない。
 雨が降っているから王都には向かわない、等というのは彼女に会いたくないが為に取ってつけた理由で、実際雨が降ろうが槍が降ろうがさして問題では無い。泥の中を歩きたくなければ従者に担がせればいいだけで、そもそも彼女達が雨や泥に汚れる心配などする必要も無いのだ。玄関から馬車にかけて屋根を用意すればいいだけだし、泥土の上には分厚い絨毯でも敷いて歩けば良い。ドレスが汚れたならば着替えれば済む話である。
 そしてユーリは別段潔癖症なわけでも無い。
「私に前妃の称号があればこんな事黙ってやしないのに、口惜しいわ」
 現実問題彼女には――彼女達一家には、影響力はあれど何の権限も無い。
 ユーリが事の他その事実に負い目を持っている事を知っているセルジオとジュリスカは、ただ視線を交じらせる事しか出来ない。
 しかし答える言葉を持たない兄妹の代わりに、それでも応える声があった。
「その通りだな」
 笑いさえ含んだ声の主に、顔を向けるのはユーリが早かった。
 見る間に目を見開き、わなないた唇が大きく息を吸い込む。
「あなた」「父上!」
 信じられない、という声を上げたのはユーリとセルジオが同時。続き間の扉が何時開いて閉まったのか、最初からそこに居たとでも言いたげに、扉にもたれたゲオルグは腕を組んだままで軽く手を上げた。
「待てど暮らせどお前達が来ぬから、痺れを切らして迎えに来たぞ」
 目を瞬かせる家族にからかうように笑いかけた後、ゆるりとした足取りで近づく。
「いつ――何時、こちらへ」
「今着いた所だ。驚いたか?」
「勿論ですとも――ああ、それより、まさかお一人でいらしたとは言いませんね?」
「スチュワートに供をさせた」
 戸惑いながらも立ち上がるジュリスカを抱きとめて、その両頬にキスをしてから、セルジオの肩を叩く。
 そんなゲオルグをユーリは呆けたまま見つめていた。先程の怒りはどこに言ったのか、憑き物でも落ちたかのように呆然とする妻に、背を屈めたゲオルグが対峙する。
「会いたかったぞ、ユーリ」
言って、秀でた額に口付けを落とす。
 その瞬間に、ユーリの視線が焦点を結び、
「あなた」
 蕩けるような、恋する乙女のように甘い、微笑みを浮かべた。




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