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08 絡まるイト 1



 しとしと、しとしとと。
 靄がかかったように、雨がけぶる。
 そのささやかな雨の演奏に紛れて、男が記憶の淵で見たような、見た事のないような、不思議な楽器を弾いている。
 ギターより小振りで、バイオリンよりは大きい。まるで瓜か卵を半分に切ったようなでっぷりとした身を持った弦楽器は、弦の数が十本で、外側の二本は内側の八本より太く見えた。胴から上、弦を張った細長い帯板の部分は胴の倍以上長い。木目の美しい本体には、金銀の細工が施されている。
 男は胡坐を掻いた身体の間で抱えた楽器を爪弾きながら、透き通る声で謡う。
 吟遊詩人、というやつだった。
 ジェルダイン領の途上で、吟遊詩人にはお目にかかった事がある。宿屋の食堂で喧騒の中、美しい声と演奏を披露していた。
 その時と同様、今目の前で謡っている歌詞は、ちっとも意味を持って聞こえては来ない。
 吟遊詩人は各地を放浪し、歴史や伝承を元に、自作の曲を披露する。言葉の並びと奏じる音によって、それは天上の歌と褒め称えられる事もあれば、耳障りな雑音にもなりかねない。
 いかに人の心を震わすか、それは各自の技量だという。
 そういう意味合いで言ったら、部屋の中央で堂々と演奏する男性は、恵まれた吟遊詩人なのだろう。
 耳に心地良い歌声は、部屋を静かに、満たしていた。

 けれどその演奏に満足するとか感動するより前に、俺には、この状況が理解出来ない。否、したくない。
 勉強時間に費やしていた時間を、複雑なようで単純な理由で奪われるなんて。
 どうして、こんな事に。
 胸の奥から漏れ出すため息を何とか喉元に押し込めながら、俺は、邂逅する。



 前夜遅くに振り出した雨は、朝方に雨脚を強めたようだった。
 ラシーク王子の部屋からは見事な庭が見渡せたが、その美しい風景は雨粒を浮かべた窓に遮られてぼやけている。
 けれど部屋に蔓延る陰鬱な空気は、何もそのせいばかりでは無かった。
 窓際に用意された丸テーブルの向こう側で、ラシーク王子が陰気なため息を吐く。それが深く、淀み切っているせいで、上空と同じくらい室内もどんよりとしている。
 ラシーク王子はノードの駒を動かすよりも多く、呼吸の合間に重苦しく吐息を吐き出し続けた。
 朝食後、ノードに誘われて、彼の部屋を訪れてから小一時間。
 ノードが不得意な俺でも、気もそぞろなラシーク王子を打ち負かすのは簡単な事だった。けれど勝負がついても、ラシーク王子はその事実にさえ一向に気付かない。
 俺の窺う視線に気付いて、
「わたしの番でしたね」
と取り繕うように緩慢に動き出すものの、その視線は盤上を見ているようで、どこが違う所を見つめているのだろう。動かす駒さえ、時々俺のそれになる。
 ラシーク王子は別段ノードがしたいわけでもなく、ただ単純に一人で居たくなかっただけなのだろう。
 月末に控えるティアの成人式典。その招待客を持成す為の連日の夜会は、今夜も例外なく開催される。その主役は、まだ見ぬラシーク王子の異母兄姉。もう数時間後に王都入りするだろうと、朝食の時間に報告したのは陛下に伝令役を仰せつかったライドだった。
 何もこの雨の中来る事もないだろうに、とぼやいたラシーク王子の態度を見るに、王子自身は兄姉の来訪を歓迎してはいないのだろう。
 ちなみに同じ様に本日王都入りする筈だったゲオルグ殿下の家族は、雨を理由に予定を先延ばしにしていた。雨の中の移動は億劫だ、と言うユーリ様が宿泊地の伯爵邸を梃子でも動かなかったそうだ。
 つまり、ラシーク王子の消沈の理由はそれ。王太子である兄はまあいいとして、姉であるファティマ姫には会いたくないようだ。
 王子本人は愚痴めいた事はけして言わなかったけど、ユージィン少年情報では、王子は浮気の果て実家に出戻ったファティマ姫を大層恥じているのだという。特に崇敬するリカルド二世陛下を裏切った、という事実が、少年時代のラシーク王子を酷く傷付けた。
 そして何事も無かった顔で隣国に嫁いで行った事にも衝撃を受けたのに、また数年で離縁して、事もあろうにその体で、良くもまたグランディアを訪れる事が出来たものだ、と。
 あくまでもユージィン少年が語ったラシーク王子の心情予想だが、あながち間違いでもなさそうだ。
 時間潰しのノードの効果も無く、ラシーク王子の表情は晴れない。そんな時は卓上ゲームなんかじゃなく、身体を動かした方が気分も晴れるのでは、と俺は思うけど、まあ、もう今更だ。
 ラシーク王子のため息の数を数えるのにも飽きて、室外の気配を窺っていた俺には、刻限が迫っている事実が分かった。
 続き間に居た王子の侍従が、姿を現す。
「王子殿下、」
 呼びかけに、ラシーク王子は窓の外に向けていた顔をゆっくりと彼に向けた。
「……」
 無言のままに頷き、瞳を伏せて大きく深呼吸。
次いで立ち上がった王子は、まるでこれから断頭台に向かおうとする重罪人のように、冥い覚悟を湛えた表情で、言った。
「参ります」

 ノードを――とはいえ、既にゲームになっていなかったが――途中で退席する詫びを入れてから、侍従を伴って行くラシーク王子を見送って、俺も待機していたクリフを連れて自室へ戻る事にした。
 ユージィン少年とラシーク王子を出迎えた時のように、俺が二人を出迎える予定は今日は無い。部屋に帰って、明日の授業に備えた予習でもしようと思う。勉強は苦手だけど、俺が怠けて復習問題で間違えようものなら、先生であるローラさんが涙混じりに「私の教え方が悪いばかりに」と嘆くのだ。これは俺の愚かさを怒られるよりも堪えるものがある。
 ハンナさんが先生の頃もその冷ややかな視線が恐ろしいばかりに机に向かっていたが、けして俺を咎めないローラさんが先生になってからも、やはり予習復習は欠かせない。
 だから知識についてはボロが出ない程度に、学んだと思う。
 礼儀や作法も、普通に生活していく分には何とか。これが晩餐会や夜会みたいな大掛かりなものになると、通用する気が全くしない。どうしても比べる対象が居ると、自分のそれが劣っているのが良く分かるのだ。
 しかもその場にラシーク王子やリカルド二世陛下が居ると、どうしても視線を感じてしまって、余計に緊張する。二人して俺の粗を探しているのだ。一人は俺の正体を見破ろうとして、一人は俺を排斥する要因として。
 長い廊下をクリフを従えて歩きながら、俺は大きくため息を吐いた。
 一体俺はどこに行き着こうとしているのだろう。思っても詮無い事だと分かっていても、考えずにはいられなかった。

 そして、そう。
 ラシーク王子と別れ自室で予習を始めてから、三時間程が経った頃だろうか。
 ラシーク王子の部屋に、再び呼び出される事になったのは。
 嫌な予感がしたのだ。
 嫌な予感しか、しなかったのだ。
 やって来たのは、ユージィン少年の侍従長のマティウスさんだった。狐のような細い目が印象的な、爬虫類に似た顔をした男性。見るからに神経質そうな彼は、真実、神経質だった。ユージィン少年とはソリが合わなさそうであるが、もう八年もユージィン少年に仕えているのだという。マティウスさんはよっぽど忍耐強いのか、勝手気侭な少年でも、それが主であるという理由だけで、付き従っている。
 ユージィン少年がラングルバードの学院を抜け出す折、下剤を盛られて三日三晩苦しんだせいで、ただでさえ貧弱な身体が更に細くなった、と悪気もなく笑っていたのはユージィン少年だ。
 そんな事も許してしまうマティウスさんだから、もしかしたらマゾの気があって、意外に二人の相性は良いのかもしれない。
 兎に角そんなマティウスさんは、融通が利かない。
 俺が勉強を理由にさり気なく辞退を申し出ようとしたら、一蹴された。断わるならユージィン様本人にして下さい、と不機嫌顔で言ったマティウスさんは、文字通り俺の背を押しながら、ラシーク王子の部屋まで連れ出した。
 その後は、何が何やら分からずじまい。
 何故か扉の前で待機していたユージィン少年は、俺を見るなりぱっと表情を綻ばせて、俺を部屋に押し込んだ代わりに自身が退室した。
「じゃ、僕用があるので。大変名残惜しいですが、これで失礼しますね」
と、言葉にそぐわない満面の笑みで、そそくさと消えるのだ。
 勿論、マティウスさんも然り。
 呆気に取られた俺が扉を注視したまま固まっていると、ラシーク王子の声が聞こえてきた。
 彼の部屋なのだから居て当然。
 だけれど、俺の名前を呼ぶその声が、奇妙な程に沈んだままだったので。
 ああ、予感は当ってしまったんだなあって、ゆっくり振り返りながら思ったんだ。




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