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11 旅路 3
もしかしたら風邪を引いたかもしれない、なんて。
とても言える雰囲気じゃ無かった。
目覚めると部屋に用意されていた紅茶や朝食は湯気を放っていたけど、何時も傍で給仕してくれているヤコブは、用があってすぐに退出してしまった。
それからもヤコブは出発の準備だけで無い何かで急がしそうで、近衛隊長のクリフも言わずもがな、唯一暇そうなのが俺であるのに、一体どうして、風邪を引きましたなんて戯言が言えようか。
ただでさえ今までの旅程で散々心配をかけ、甲斐甲斐しく世話をされて過ごしているのに、風邪を引きました?
絶対言えない。
けれど今まで健康優良児で過ごした俺にとって、喉に感じる違和感や頭の芯を刺激するような熱の感覚は、やり過ごせる類のものじゃなかった。
どうにか平静を保とうとするものの思考は低迷し、用意された馬車に乗り込んだ後、すぐに寝入ってしまった位だ。
隠し通せる気は、全くしなかった。
俺が口にしなくても、俺の体調の変化に気付いたのだろうヤコブは、何時にも増して俺の顔色を心配してくれていた様に思う。
ぼんやりとした視界で、何度もヤコブが声をかけてくれたのを覚えている。
浅い眠りを繰り返しながら馬車に揺られていた俺は、何度目かの覚醒で違和感を覚えた。
着ていた毛皮のコートや巻きつけていた毛布以外の感触を頬に感じて、薄らと目を開ける。
対面にかけていた筈のヤコブの姿は無く、馬車の中は薄暗かった。
どれだけ寝ていたのだろう。
体の節々に感じる凝り固まった痛みは、座ったまま寝ていたせいなのか、熱のせいなのか。
そんな事を考えながら、傾いでいた頭を持ち上げた。
――瞬間だった。
「起きたか」
感情の無い声がすぐ傍で聞こえて、俺はばっと横を向く。
驚く程近くに凍る美貌を見つけて、脳内は一気に醒めた。
「っ」
預けていた身体を起し、ぱくぱくと口を開閉させるものの、言葉は出て来ない。
何故!!
動いた衝撃で、かけていた毛布が落ちた。
それを億劫そうに拾い上げて、また俺の上に戻してくれたのは、リカルド二世陛下だ。
この旅の間も持ち込んだ仕事をやっつけるのに忙しい陛下は、一つ前の馬車で書類と格闘している筈だった。
砦を離れる時も、別の馬車に乗り込んだのを確認したのだ。
「熱は」
陛下の薄い唇が音を発したのと同時に、白い吐息が浮かんで消える。
俺が返事を出来ずに――というか、ただ単純に何を言われたのか理解出来ないまま――目を見開いていたら、陛下は一瞬瞳を鋭く細めて、何故だか手袋を片方脱いだ。
と思ったら、その手がこちらに伸びてくる。
無意識に退いた身体はすぐに馬車の壁にぶち当たった。
額に触れた大きな掌は、とても冷たい。
けれど、火照った肌には心地良く感じられた。
「……まだ少しあるか」
陛下が独りごちるように呟いてその手が離れて初めて、熱を測ってくれたのだ、と気付く。
リカルド二世が手袋を嵌めなおす僅かな間に、俺はやっと状況が飲み込めてきた。
馬車の中に、リカルド二世と二人。
しかも、俺は多分その陛下の肩に身体を寄りかからせて寝ていたのだ。
どうしてそんな状態になったのかは知らないが、陛下が黙って(だかは分からないけど)肩を貸してくれていた事実に驚いた。
――夢かな。
目を伏せたリカルド二世の顔を見つめながら、思う。
――夢だろ。
何度考えてみても、陛下の性格上有り得ない事だ。
変な夢だ、と結論付けて、こんな気持ち悪い陛下なんて夢でも御免だ、と思う。
夢の中で寝る、というのもおかしな話だが、こんな悪夢とはおさらばしたい俺は、再び瞳を閉じようとした。
毛布の端を背中と壁に挟んで、眠る体勢を整える。
よし、寝る。
そう意気込んで、意気込んで?
ぐいっと腕を引かれて、またしても陛下の肩に凭れる結果となった。
一秒、二秒、俺の時計は完全に止まった。
「……は?」
「寝るのだろう?」
頭上のすぐそこから、俺の髪を掠めるような静かな問い掛け。
「……いや……え?」
「何だ」
「何っていうか……え?」
もう一度ゆっくりと身体を起し、視線を上げる。
夢の中でさえも、その端正な顔は緩まない無表情。
――っていうか、夢だよな。
「……何をしている」
「……痛い」
頬を抓ってみたが、痛みはリアルだった。
――え?
「え?」
頭の中が疑問符で一杯になる。
「え? ええ? えええっ?」
「何なんだ貴様は」
この不遜な物言いは間違いなくリカルド二世。そんな事は勿論分かっているのだが。
「……へーか?」
訊ねれば、リカルド二世は嘲笑うように口の片端を持ち上げた。
リカルド二世は普段彫刻のように表情を動かさないが、こちらを馬鹿にする時と、民衆の前で王妃に顔を向けるその時だけは、出し惜しまない。
「他の誰に見える?」
そうですね、こんなに美しい人は他に居ませんね!!!
「そうじゃなくて、何で居るんです?」
「貴様が心細いだろうと思ってな」
「……そんな事、無い、ですけど……」
「分かってる」
「――はぁ!?」
思わず声を低くすると、陛下は一拍置いて、続けた。
「貴様の侍女が」
「侍女?」
「ただでさえ慣れない旅でまいっているだろう妃が、体調まで悪くして、心細くない筈が無い、と」
今日は、貴様は知らなくてもいい、とは切って捨てられなかった。
「王妃を気遣うのも務めだ」
「……ああ、成程」
それなら納得出来る。良かった。
「てっきり変な物でも食べたのかと」
「貴様と一緒にするな」
やっぱり陛下はこうでないと気持ちが悪い。
理由が分かって、やっと肩の力が抜けたように思う。
普段ならリカルド二世の毒吐きは俺を怒らせるものだったけど、今はその毒舌が、とても安心出来るものだった。
眠ったおかげで体調が回復した事もあったのだろう。
既に俺を苛んでいた気だるさは消えて、俺も何時もの調子を取り戻しつつあった。
「それで、今、どの辺りなんです?」
「言って分かるのか?」
「分からないかもしれないけど、聞くだけはタダでしょう」
一応地理も勉強したし。
そう付け足せばリカルド二世は鼻を鳴らしたものの、無視する気は無いようだ。
「今はトウサの辺りだ」
「トウサ?」
「やはり知らんか」
「……トウサは通る予定になかった筈じゃ?」
知っている、と言外に含ませて、俺は一本調子に訊ねた。
「そうだ。貴様が寝ている間に、モノス大公とは別れた」
「え?」
「急遽変わったのだ。余らはルビスの山を越えて、平野でまた合流する」
「……」
事も無げに伝えられた順路に、俺は思わず身震いする。
ルビス。
白い悪魔に席巻された、失われたハッティヌバの山。
あの空恐ろしい【何か】が、再び胸中に蘇った。
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