今日も明日も明後日も

「つまらない」
 授業中に何の躊躇もなく、発せられる声。
 誰もが後ろを振り返る。
「つまらないつまらないつまらない」
 声の主・上代 明日香は机を枕に空見上げ、だだっこのように叫んだ。
 黒板の前で教師は、肩をわなわなと震わせる。このクラスの担任となって、禿げた頭がますます薄くなったと噂される四十教師は、勢いよく反転するとチョークを明日香めがけて投げつけた。
「いたっ」
見事明日香の頭に命中したチョークは、床に落ちて砕けた。
「あ〜あ〜。先生、ちゃんと掃除しといてよね…」
悪びれもなく、言う。むしろ呆れている表情だ。
「誰の所為だ、誰の!!授業にならないから、廊下にも出てるか!!?」
「言う事がいちいち古臭いんですよねぇ…」
 ため息と共に言う。
 何かが切れる音がして
「廊下に出てろ〜!!」
 怒声が響いた。

 廊下に放り出された明日香は、ちゃっかり鞄を持っていた。
 誰の姿もない静かな廊下で、明日香は一人座っている。立ってろと言われたわけでもないので、鞄をまくらに寝転がった。
 いつでもどこでも寝てしまえる明日香は、担任教師・江戸前の朗誦を子守唄にし、すぐに寝息を立てたのだった。

 中学二年生になってから、明日香はずっと退屈だった。周りは「二年生が一番楽だ」という。受験生でもなく、へこへこする立場の一年でもなく
――
 しかし今年は『文化祭』がなくなって、春の体育祭を過ぎた今となっては『修学旅行』まで何もない生活を送らなければならない。
 帰宅部である明日香には、先程から言っている様につまらない事満載だ。
 楽しくないとまで言わないが、それに近い感情で明日香の胸の中は一杯だった。



「…………。」 

 固まる江戸前の背後から、生徒達の忍び笑いが漏れた。
 授業終了後、教室を出ようとした江戸前の足元には気持ち良さそうに眠りこける明日香の顔。一瞬だけでなく、蹴飛ばしてやろうかという衝動が湧き上がった。
 最近の明日香の態度には江戸前も辟易していたが、今日という今日は黙っていられない。
 江戸前は怒りを抑えた声で、背後の栄に呼びかけた。
「伊藤、上代を起こしてやれ」
「あ、はい」
 栄は腰を落とすと明日香の耳たぶを容赦なく引っ張った。明日香とは幼馴染みなので、扱いには慣れている。
「起きろ」
「……たたたたっ」
 がばっと勢いよく起き上がった明日香の眼前には、微笑を浮かべた栄の顔。
「あ、授業終わったの」
まだねむ〜い、と大きな欠伸をしてから、明日香は自分が野次馬達に囲まれている事に気付いた。
「うや?何??」
目を大きく見開いて、問う。しばらく辺りを彷徨っていた視線は、ある場所で止まった。
「あ、オハヨオゴザイマス」
――おはよう」
 江戸前は腕を組んで明日香を見下ろしていた。
「立ちなさい」
「…はい……」
 母親に引き際が肝心と教わった明日香は、こういう時は逆らわないように決めている。
 何時になくしおらしい表情で、
「すみませんでした」
 涙までうっすらと浮かべている。こうこられると大抵の人間はこれ以上怒る事が出来ない。後から事の様を思い出し、やられた
――と地団駄を踏む事になるが、大体はこの技で落とされた。
 しかし江戸前にはそれは通じなかったらしい。
「放課後、お前の親御さんを呼ぶ。お前も職員室に来なさい」
 そう言うと江戸前はさっさと行ってしまった。

「あらら〜」
「災難だな、江戸前」
 呆然とする明日香の背後で、栄と円は同時に笑った。
 振り返れば隣のクラスの円が栄の横に立っていた。
 円も栄同様明日香の幼馴染みで、栄の双子の妹だった。
「災難なのは、あたしだろ〜?」
「どうかな?」
栄は意地悪く笑う。
「あの、明日香ママが相手だぜ!?いくら江戸前だって…なぁ」
「そうそ。一番可哀想なのは江戸前よねぇ」
「そうかなぁ。あ〜あ。帰ったら何言われるんだろ…」
明日香がため息を漏らすと、二人は意外そうに顔を見合わせた。
「明日香ママなら笑って許すだろ」
「だって、百合子さん『学校なんて遊ぶ所よ』って豪語してるじゃない」
「それが違うんだって〜。ママは自分が巻き込まれるのは嫌いなの。今日だって久し振りにのんびりするとか言ってたもん」
「あ〜。そりゃ…怒るわ…」
「でしょぉー!!」
 今度は正真証明の涙を浮かべて、明日香は叫んだ。
「江戸前の前でなら、ママの事だからいい顔作るに決まってるじゃん。当たり障りない事いってやり過ごすんだよ!そういう人だよ!!そんで帰ったら色々言われるんだ〜…。あ〜もう、嫌っ!!!」
 そこで、タイムアップ。
 チャイムの音が鳴り響くと、二人は
「あ、もう授業だ」
「じゃぁね、明日香」
あっさりとその場を後にする。
「ちょ、ちょっと〜!!それはあんまりじゃないの〜!!?」
退場した二人の教室を交互に見やりながら、明日香はもう一度怒鳴った。
 その背後から、
「五月蝿いぞ、お前」
 数学教諭・坂本の教科書の角が、明日香の頭にクリーンヒットした。



□ □ □ □ □ □ □ □ □ □




 昨日は散々だった
――と、通学路を歩きながら思う。
 明日香の他に誰の姿もない。すでに正午を回った時間だ。
 
 昨日散々説教を食らったにも関わらず、今日も遅刻とは大した神経の持ち主だ。しかも給食の時間を狙っての登校
――いやはや、呆れてモノも言えない。
 そう思ったのは、今正門の向こうに姿を現した明日香を、教室の窓から認めた栄だった。
 昨日の放課後、自分の部活が終わるまで説教を食らっていたらしい明日香は、無駄に笑顔を振りまく百合子さんに連れられて帰っていった。器具の片付けをしながらそんな二人を眺めていた栄は、百合子さんの怒りのボルテージが満タンである事を悟った。
 そして家に帰りつけば、隣家からの怒声。耳傍立てて聞いてみれば、夕食抜きのベランダ追放で
――上代家ではよくある、罰の一つだった。もうすぐ夏とはいえ、百合子さんは容赦ない。次の日も学校だというのに、ベランダで寝ろとは流石百合子さんだ。
 栄はそんな事をしみじみ考えていた。
 
 しばらくすると明日香はどんよりとした空気を纏って教室に入って来た。
 その後を、栄と同じように窓から見ていた円が着いて来た。
 給食の準備で忙しい教室の中を、二人はゆっくりと歩いてくる。
「おはよお」
「はよ…。今日も遅い登校で
――
「だってさあ、ママったらあたしの事忘れてずっと寝てんだもん。しょうがないから雨どい伝ってチャイム押したさ。それでも起きたの今さっき」
 あたしの所為じゃないと主張したいらしい。
そんな明日香を大変だったわねぇと慰めている円を尻目に、栄はおもしろそうに笑った。
「江戸前から伝言預かってるぜ。学校来次第、職員室」
「うえぇ〜」
目一杯嫌そうな顔をする。
「理由話してみれば」
「馬鹿言わないでよ。昨日のママったら、もう優しい母親演じちゃってさ。そんな母親の悪事を誰が信じるよ…」
 ため息を吐きながらも、机に鞄を置いて反転。素直に職員室に行くらしい。
「行ってきま〜す……」
 明らかに下がった肩がおかしかった。
「いってらっしゃ〜い」
 手を振る二人に頷いて、明日香は教室を出て行った。



 明日香は、毎日がつまらないと言う。
 俺は、毎日が楽しくてしょうがないと思う。
 そう言うと明日香は、眉根を寄せて「どうして〜?」と問うてくる。
 何が嫌なのか、俺にはわからない。それだけ波乱万丈おもしろおかしい日常を送っていてなお。
「楽しいって、例えば?」
 そう聞くと、困ったように笑うくせに。
「何がしたいわけ?」
 そう聞くと、黙ってしまうくせに。
 
 羨ましいと思う。
 そんな風変わりな日常が
――羨ましくてたまらないと思う。
 そんな事を考えてしまう俺がおかしいのだろうか…?


 とりあえず。

 今日も明日も明後日も。

 明日香といれば、退屈じゃない。


   それが、俺の日常。







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